復興まちづくり情報

第一節 チリ地震津波被害状況

目次

  1. (一) 新聞報道
  2. (二) 山田町における被害状況写真
  3. (三) 山田町における浸水区写真
  4. (四) 山田湾における津波浸入状況
  5. (五) チリ地震津波の性格
  6. (六) チリ地震津波の伝わり方
  7. (七) 前ぶれのない津波
  8. 1、無警告津波の教訓―新聞報道
  9. 2、おそかった津波警報―新聞報道
  10. (八) チリ地震津波山田での来襲の状況
  11. 1、津波来襲の状況と避難
  12. (1) 体験記
  13. (2) 昭和五十六年、体験談聞き書きから
  14. 2、警報、避難
  15. (1) 消防団による警報警戒(救援)活動
  16. (2) 気象台の津波情報
  17. (九) チリ地震津波による被害
  18. 1、被害原因及び被害の概況
  19. 2、山田町の被害状況
  20. 3、津波被害状況(大沢の場合)
  21. 4、新聞に見る被害状況報道
  22. 5、山田町の被害状況調べ一覧
  23. 6、岩手県下の被害状況調べ一覧

チリ地震津波は、これまでの津波とは全然性格を異にしていた。津波と言えば、前ぶれとして必ず地震が起ると考えられていたからである。このような津波を、岩手日報は次のように伝えている。

岩手日報35年5月24日夕刊トップの見出しの写真

(岩手日報35年5月24日夕刊トップの見出し)

(一) 新聞報道

災害救助法を適用――大船渡など六市町に――

県は二十四日午前六時、県厚生部長室に津波災害対策本部を設け、小川副知事を本部長に救援対策を急ぎ、同日午前被害のひどい宮古市、下閉伊郡山田町、上閉伊郡大槌町、釜石市、陸前高田市、大船渡市、の六市町に災害救助法を発令。

寝具、衣類、日常生活品など援助物資を発送した。また同日朝、鈴木大船渡市長から県に防疫班と自衛隊員の派遣、衣料品の急送を申請してきたので、県衛生課員による防疫班を編成するとともに、自衛隊盛岡地方連絡部に自衛隊員派遣を要請、約百人が現地に出動した。

指導班急派

県津波対策本部は被災地区の各出先機関との連絡を強化するため、総合指導班を編成、二十四日午前九時半現地に出発した。指導班は四班編成で、第一班は九戸郡種市―下閉伊郡田野畑までを担当し、班長は阿部労政課長、第二班は下閉伊郡岩泉町小本―同郡山田町船越間を担当し、班長は河田土木部次長、第三班は上閉伊郡大槌―釜石市唐丹間を担当し、小池農林部次長が指揮、第四班は大船渡市周辺一帯を受け持ち、班長には細谷商水労部次長が当たっている。

県議の激励班派遣

県議会は在盛県議を集めて二十四日臨時議会運営委員会を開き、玉村県厚生部長、小野寺県警警備部長から被害状況を聞き、つぎの地区に県議の激励班を派遣することを決めた。

△九戸=金子太右衛門、香川嘉太郞。

△宮古=山本徳太郞、佐々木又次郞。

△釜石=岩持静麻、大島常次郞。

△大船渡=佐々木亦助、小野寺十治。

昭和史で五度目

気象庁観測部地震課の調べによる昭和にはいってからの大津波は、こんどが五度日。太平洋の向こう側からの地震で大津波が起ったのはいままでに例がない。

△三陸沖津波=八年三月、三陸沖綾里(岩手県)で高さ二十四メートルの津波があり、死者二千九百八十六人、流失家屋四千八十六戸。

△東南海道地震による津波=十九年十二月尾鷲で六メートルを記録、地震の被害と合わせて死者九百九十八人、重傷二千百三十五人、

被害状況(午後3時現在)(県警調べ)

被害状況表
区分 署別 大船渡 釜石 宮古 岩泉 久慈
死者 三八         三八
負傷者 四六     五〇
行くえ不明      
建物全壊 一八四 二六 九八   一五 三二三
〃半壊 六五一 七八   一〇 七四四
〃流失 六一一二 一〇 一四九   七七九
〃床上浸水 七四二 一、一六九 一、〇〇四   一〇 二、九二五
〃床下浸水 二四四 一、四二二 六八五   一二 二、三六三
非住家被害 四四七       四五六
船舶沈没      
〃流失     一二 一八
〃破損 三〇   四七
〃ろかい等による船     一〇   七五 八五
水田埋没流失          
カキ棚            
水田冠水         一五 一五
道路損壊        
通信施設被害            
被災世帯 一、八一九 一、二一八 一、三三七   四六 四、四二〇
被災者 九、八六五 六、五四〇 六、六八五   二三〇 二三、三二〇

(岩手日報三十五、五、二十四)

全国で死者八五人

北海道、本州、四国、九州太平洋岸一帯を襲った二十四日の大津波は各地に大きな被害を出した。とくに北海道、岩手、宮城、青森三県の三陸海岸地方の被害がひどかった。岩手県陸前高田市、大船渡市、宮城県志津川町はほとんど全市街が被害をうけた。同日午後八時現在共同通信社の調べによると、死者八五、行くえ不明六九、負傷六九六人に達した。

大船渡、廃虚と化す――死者・不明七三人――

二十四日早朝から三陸沿岸一帯を中心に本州太平洋岸を断続的に襲った津波による県下の被害は詳細がわかるにつれて増大する一方で、県警本部の集計によると午後十一時現在死者・行くえ不明七十三人、負傷二百六人、家屋の流失・全半壊二千四百九十五戸、床上・床下浸水八千十七戸、被災世帯は五千四百戸を越え、昭和八年三陸沖津波の死者二千九百人、流失家屋四千八十六戸につぐ被害となった。とくに悲惨をきわためのは大船渡市で、大船渡湾の奥深い須崎、笹崎、台町の約二キロにわたる商店街は屋上まで水がつかり全減に近く、確認された死者・行くえ不明四十八人という惨状を呈している。

被害状況(午後11時現在)(県警調べ)

被害状況表
区分 署別 大船渡 釜石 宮古 岩泉 久慈
死者 五三         五三
負傷者 二〇二     二〇六
行くえ不明 一九       二〇
建物全壊 一八四 七四 一五五   四一四
〃半壊 六五一 一四四 一六七     九六二
〃流失 六一二 四五 一七一   八三一
〃床上浸水 七四二 一、五二七 一、三四三   一三 六、三二五
〃床下浸水 二四四 六八七 七五一   一〇 一、六九二
非住家被害 四四七 三八八     五三 八八八
船舶沈没    
〃流失   一五 一一   三五
〃破損 一五六 二六   一八八
〃ろかい等による船   二〇 一〇   一一三 一四三
水田埋没流失         一五 一五
カキ棚            
水田冠水   四三       四三
道路損壊   一四     一九
通信施設被害 一、二〇〇 七一     一七 一、二八八
被災世帯 一、八一九 二、二五五 一、三三七   一一 五、四二二
被災者 九、八六五 一〇、八一五 六、六八五   五七 二七、四二二

(岩手日報三十五、五、二十五)

家の廃材や電柱が折り重なった大船渡市大船渡町の惨状の写真

(二) 山田町における被害状況写真

チリ地震津波を報じる数々の新聞の写真

日東捕鯨裏約500m奥の田畑の中に遺流物が散乱している大沢の写真

大沢 日東捕鯨裏約500m奥の田畑の中に遺流物が散乱している。

(チリ地震津波調査報告気象協会東北本部)

大沢の海岸の写真

(大沢の海岸)

大沢の海岸の写真

(大沢の海岸)

大沢の決壊した堤防の写真

(大沢の堤防決壊建物は旧大沢中学校)

大沢、日東捕鯨附近の海岸の写真

(大沢、日東捕鯨附近の海岸)

大沢の写真

(大沢)

大沢の写真

(大沢)

大沢の写真

(大沢)

大沢の水が引いた後の写真

(大沢 水が引いたあと)

大沢の水が引いた後の写真

(大沢 水が引いたあと)

山田柳沢の写真

(山田柳沢)

山田北浜町町営住宅の写真

(山田北浜町町営住宅)

山田蓬来橋附近の写真

(山田蓬来橋附近)

山田北浜町町営住宅の写真

(山田北浜町町営住宅)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

関口川河口の写真

(関口川河口)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田北浜町の写真

(山田北浜町)

山田中央町の写真

(山田中央町)

山田中央町の写真

(山田中央町)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田魚市場の写真

(山田魚市場)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田川向町西川の写真

(山田川向町西川)

山田境田海岸の写真

(山田境田海岸)

山田湾組合前海岸の写真

(山田湾組合前海岸)

山田川向町の写真

(山田川向町)

山田中央町海岸棧橋の写真

(山田中央町海岸棧橋)

山田境田海岸の写真

(山田境田海岸)

山田境田海岸の写真

(山田境田海岸)

山田境田海岸の写真

(山田境田海岸)

山田境田町の写真

(山田境田町)

織笠の写真

(織笠)

織笠細浦の写真

(織笠細浦)

織笠川、河口、第三波(4時30分頃)の浸水の状況の写真

(織笠川、河口、第三波(4時30分頃)の浸水の状況)

織笠の写真

(上記写真と同じ場所より写した現在の織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠川河口の写真

(織笠川河口)

織笠川の写真

(織笠川)

織笠川の写真

(織笠川)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

国道に倒壊家屋があふれ、交通は完全に途絶した織笠の写真

織笠 国道に倒壊家屋があふれ、交通は完全に途絶。

(チリ地震津波調査報告気象協会東北本部)

織笠跡浜の写真

(織笠跡浜)

織笠の写真

(織笠)

織笠川河口の写真

(織笠川河口)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

織笠の写真

(織笠)

チリ地震津波災害復興誌掲載の織笠の写真

(織笠チリ地震津波災害復興誌)

織笠の写真

(織笠)

山田湾と船越湾が合わさる船越の写真

(船越 山田湾と船越湾が合わさる)

田の浜の写真

(田の浜)

田の浜の写真

(田の浜)

田の浜の写真

(田の浜)

田の浜の写真

(田の浜)

船越浦の浜の堤防決壊の写真

(船越浦の浜の堤防決壊)

大浦の写真

(大浦)

大浦の写真

(大浦)

大浦の写真

(大浦)

大浦の写真

(大浦)

大浦の写真

(大浦)

(三) 山田町における浸水区写真

昭和35年チリ地震津波、昭和8年津波、昭和29年津波の灌水区域図

津波直後の岩手県山田町船越の写真

津波直後の岩手県山田町船越 右側が山田湾,左側が船越湾,津波の時は両方の湾の水位は同時に上昇せず,一方が高くなる時は他方が低くなる。右側の山田湾よりの浸水が大きかつた。

(チリ地震津波調査報告書)

5月25日の山田の写真

山田(5月25日)

中央を南方(左右)に通る幹線道路と海岸通りの中間に,断続的な防浪壁が見られるが,この幹線道路は流失した船舶家屋などで交通途絶となった。

船越から山田までの地形分類図及び津波状況図

船越―山田地形分類図 船越―山田津波状況図

地区別浸水状況

大沢浜川目の浸水状況図

(大沢浜川目)

大沢下条上条、新開地、川向の浸水状況図

(大沢下条上条、新開地、川向)

大沢袴田 山田柳沢の浸水状況図

(大沢袴田 山田柳沢)

柳沢、沢田北浜町の浸水状況図

山田(柳沢、沢田北浜町)

北浜町、中央町、川向町、八幡町の浸水状況図

山田(北浜町、中央町、川向町、八幡町)

川向町、八幡町の浸水状況図

山田(川向町、八幡町)

山田(境田町)と織笠(細浦跡浜)の浸水状況図

山田(境田町)織笠(細浦跡浜)

織笠(森、上、沖前、新興、森崎、新町、草木、和村)の浸水状況図

織笠(森、上、沖前、新興、森崎、新町、草木、和村)

船越(浦の浜、前須賀)の浸水状況図

船越(浦の浜、前須賀)

田ノ浜の浸水状況図

田ノ浜

大浦の浸水状況図

大浦

境田町にある昭和8年後につくられた防潮堤の写真

境田町にある昭和8年後につくられた防潮堤。この防潮堤の向こう端の道路上まで浸水した。

織笠跡浜通りの写真

織笠跡浜通りの写真であるが、21年前は、この国道の左側は砂浜であった。浜の跡即ち「跡浜」の地名もうなずける。

写真の道路右側に二階建の家が見える。この建物のすぐ後ろに出っぱった岩がある。この岩ところまで水が上がったといわれる。ちょうど建物の一階の軒下ということになる。

即ち、この白線の高さまで水が上ったわけであるから、低地にあった織笠地区の被害が、織笠川口を上がってくる水の勢いも手伝って大きくしている。

昭和8年の津波以後につくられた防潮堤の写真

昭和8年の津波以後につくられた防潮堤、チリ地震津波はこの堤防の高さギリギリまできている。

昭和8年の津波以後につくられた防潮堤の写真

昭和8年の津波以後につくられた防潮堤、チリ地震津波以後につくられた防潮堤はこの防潮堤の海岸側約40mのところにつくられている。

(四) 山田湾における津波浸入状況

目撃者、体験者(海上で)漂流物等から判断すると、次のような寄せ波、引き波であったと考えられる。

山田湾は湾の入口が狭く、湾内が広く、ちょうど馬蹄形「U」の形をしている。

第一波は二時半頃、第二波が三時頃で、この二波までは(岸壁のあるところでは岸壁を越えていない)住宅地までは浸入しなかった。この二波が引いている間に殆んどの人は避難を終えている。そして、四時半ごろ第三波の最大波が襲来して住宅地に浸入し、被害をもたらしている。以後、四、五波もやや大きく、それ以後は小さくなっている。いずれも平面波で、海水が自然に増してくる非常に波長の長い津波である。

寄せ波は一たん上陸すると勢いを増し、特に引き波の勢いは大きくなっている。

湾口での寄せ波、引き波の状況図

大島、小島のあたりでは大きな水の渦巻く現象が観察されている。また、湾の入口では引き波と寄せ波のぶつかり合う現象が観察されている。寄せ波は明神崎側(大沢側)、引き波は船越半島側(大浦側)を通る現象が観察されている。これは古来よりいわれている明神崎より大沢海岸に到る経路を入潮と称し、対岸の大浦沿いの南岸を外洋に向けて流れる潮流を下げ潮と称していることと一致するし、山田中央町の家具類の漂流物が浦ノ浜の方で見つかっていることからもわかる。また、浸水は船越湾から浦ノ浜へ、山田湾から浦ノ浜へという方向性が観察され、特には山田湾側からの浸水が大きくなっているし両方の湾の水位は同時に上昇するということはなかった。

チリ地震津波は平面波で(自然に増水してくる形の波)であったので低地の被害が大きく、関口川、織笠川流域、その他小川、せきなど海に通じている所の被害が大きくなっている。

(五) チリ地震津波の性格

三陸、北海道を中心とした太平洋一帯に来襲したチリ地震津波は各地に大被害をもたらした。これは五月二十三日南米チリに発生した大地震によるもので、一七、〇〇〇km離れたわが国に到達するまでに二十三時間ほどかかっている。この津波の規模は総体的に見て、昭和八年の三陸津波と、昭和二十七年の十勝沖地震の中間位といわれている。

このチリ地震津波の特徴は次の通りである。

  • 一、震源地が非常に遠方であるにもかかわらず、津波の規模が大きかったこと。
  • 二、波は平面波として日本の太平洋岸に襲来したこと。
  • 三、津波の被害が広く日本の太平洋岸全体に及んでいること。
  • 四、津波の波長即ち周期が非常に大きかったこと。
  • 五、三陸沖地震津波の場合は、海上より海水が隆起して大きな波形となって来襲したのであるが、今回の津波は海水が静かに水量を増してきて、いったん陸上に浸入すると急激に勢いを増して大きな力となり、特に引き波による破壊力が大きかったこと。
  • 六、被害は湾口に少なくて、湾奥部に入るにしたがって大きく、U字型のしかも深く屈曲したほど被害が大きかったこと。
  • 七、身体で感ずる地震がなかったこと。
    (過去の津波では身体で感ずる地震が津波の前にあった)

1960年5月23日午前4時16分チリにて地震発生。17085km(秒速210mで22時間37分)離れた日本で24日早朝に津波来襲

(六) チリ地震津波の伝わり方

危ないV字型の湾

海底地震で起こる津波

津波は、地震によって海の底で大きな地殼の変動があると起きる。海の水は、急に変った海底の地形によって、巨大なスケールの海波となって周囲に伝ってゆく。ふつう海面にできる風波やうねりは“表面波”といって、海の表面では大きな波であっても、深さが増と、水の動きは少なくなり、深い海底では静かである。ところが、津波は長波といって普通の表面波にくらべて周期が長く、波長も大きく、海の表面と海底の海水でも一様に動きゆさぶられる。周期は風波が約十秒なのに、津波の場合は十~十五分、こんどのチリ津波は約二十分という。伝わる速さも海の深さと関係をもち、深さ四キロでは秒速二百メートル、五百メートルでは秒速七十メートルと計算されている。つまり、波の伝わり方は深い海では速いが、浅くなると遅くなる。しかも、波の波面はしだいに浅いところに向って回り込んでくるという性質がある。二十四日明け方の津波は、その前日の二十三日朝四時十六分~同四時三十一分にかけて、チリのサンチアゴ沖で起きた大地震が原因である。そのさい津波が発生して、一万七千キロという太平洋を伝わりながら日本へ押しよせた。

ハワイでも二十三日午後四時ごろ大津波を起こしている。一般には距離が遠くなると津波のエネルギーは衰え、チリ付近で発生した津波が日本まで大きく影響するとは考えられないが、こんどは例外だった。

気象庁地震課でも「まだハッキリした原因がつかめない」といっているが、広野卓蔵地震課長は「太平洋でいったん広がった波が、ちょうど裏側にあたる日本近海で“収れん現象”を起こして波の高さが一段と高まったものと考えられる」と推定した。だが、それにもましてこんどの地震が地球上に起こりうる“最大級”に近い大規模なものだったことも疑いない。

ところで、津波が海岸に押しよせ…津波を受けるかというと、そうではない。津波のような長波では、その勢力は海の深さが浅くなると上下からしばられるため波の高さが高くなる。海岸線に向ってほぼ平行に進んできた津波は浅い湾内に入るとヘビがカマ首をもたげたように高くなる。そのうえ湾の形によって波高の増し方がそれぞれ違う。外洋に向ってV字型の湾だと、湾入口に対して湾の奥では三~四倍、つまり湾の入口で一メートルの津波、町のある湾奥では三、四メートルになって、どっと海岸に押しよせる。U字型では、その比率が二倍、逆に湾口が狭くて奥の広い湾では二分の一くらい波高が低くなる。日本の津波の最も危険地帯として、リアス式の三陸海岸が世界的にも有名なのは、多くの湾がVやU字型になっているからである。

海上保安庁水路部が、こんどの津波によって二十四日午後一時までにまとめたデーターによると、V字型…湾奥を囲んでいる霧多布、八戸、大船渡、志津川、下田の各港の被害が割合高く被害も大きかった。これは、湾奥に入って波が急に増し、さらに返し波が第二波とかみあってより高い波高の津波を合成したためとみられる。

これにひきかえ、舘山港や新居浜、高松、岩国などの各港は内海に面しているうえ、遠深線が外洋に向って広がるように張り出し、湾奥に集中する津波のエネルギーを拡散したため他港にくらべて損害が軽かったようだ。

過去の記録では、昭和八年三月三日の三陸大津波の際は、三陸海岸では、地震発生後二十五分~四十分後に来襲、その高さも田老湾で十メートル、白浜で二十三メートルを記録し、明治二十九年の三陸大津波のさいは、三陸海岸では最大波高三十メートルを越えたといわれ、こんどの津波とはくらべものにならないほど大きなものだった。

津波の国ニッポン

二十四日朝の津波はまったく“不意打ち”だった。そして、世界的な地震研究の権威者である和達気象庁長官も「長い間地震や津波の勉強をしてきましたが、こんどは意表をつかれた」としみじみ述懐していた。地球上に起こるさまざまの自然現象は、私たちの常識を越えることはあるが、このチリ津波もその一つとなった。とりわけ、地震、台風、火山爆発‥‥‥とあげればきりのないほど災害国である日本にとっては、尊い経験ともなろう。昨年の伊勢湾台風いらい“高潮”に対する関心は非常に強くなり、また地震についても各方面から注意が換気されてきた。しかし、津波については国民大半が、その恐しさを知らなかった。しかも、一万七千キロの彼方、まるい地球の裏側で起きた大地震が一昼夜でなぜ日本にこんな大きな津波を起こしたのだろうか。この場合に“津波の科学”をとりあげてみよう。

すさまじい破壊力

津波の破壊力―津波全体の勢力は、およそその津波を起こした地震のエネルギーの百分の一くらいといわれている。津波が海岸近くにきてその波高がましてくると、だんだん海の深さと波高とが同じくらいになる。すると波の山の頭が崩れはじめ波が巻き落ちるようになるが、そのとき波の上の方の流れは非常に早い流れとなる。例えば波高十メートル、深さ十メートルとすると、流れの速さは毎秒十メートルくらい。このはげしい水の流れが物体にぶち当ると一平方メートル当たり約五トンの力でぶつかる。こんどの津波は、それほどでもないが、一平方メートル当たり一トン以上の力で衝突したとみられ、大きな破壊力をもつわけだ。

大津波に襲われた場合、いままで町だったところは、ほとんど何ものもない一面の砂浜に変ってしまうこともある。過去の三陸大津波ではそんなところもあった。こんどはそれほどではないにしても、“波のブルトーザー”的な力で被害を与えることはたしかだ。

津波がV字型湾に入ってきたときの波の高まり方の解説図

日本の近海で起きた地震津波は比較的範囲はせまい。例えば三陸沖で大地震があったときは、房総半島以西の海岸にはほとんど達しない。半面、東海、南海道沖の地震津波は房総以北には及ばないのが常識。今回のようにはるか彼方からきた津波は範囲が大きいため二千キロにわたる日本列島の太平洋岸一帯に押しよせたわけだ。

日本付近で急に高まる

こんどの津波は太平洋を伝わりながら島のあるハワイ付近で局地的に波が高まり、沿岸に津波現象を起こした。大規模な波は中部太平洋を西北に進み、日本列島付近で“収れん現象”を起こして急に波が高くなったとみられる。これは日本列島をとりまく大陸ダナや、それにつづく浅い海によって直線コースの津波が列島に集中するからだ。ただチリに大地震が起きた場合、いつでもこのような津波を起こすとは限らない。

チリ地震津波は最大級

日本は、むかしから世界有数の地震国といわれ、何回、何十回となく津波に襲われてきた。しかし、その大部分は日本に近い場所に起きた地震によるものであった。その中でも最も大きなものは明治二十九年六月と、昭和八年三月の三陸大津波。明治の時は、三陸沿岸約百五十キロが襲われ、二万七千百十二人が波にのまれて死亡、九千二百四十七人が負傷した。昭和の津波では死者三千八人、傷者一千百五十二人といういたましい犠牲をだしている。いまでも三陸沖にのぞむ海岸の墓には、たくさんの記念碑や慰霊碑がたち並んでいる。

外国の例では一七五五年のリスボン大地震のときに、十~二十メートルもある大波が、地震の後一時間後から次々と海岸の町を襲い、おびただしい死者をだした。この津波はポルトガル、スペインや北アフリカの海岸に押しよせ、大西洋を渡った津波は五千七百キロを十時間かかって西インド諸島まで達した。しかし、これにくらべても、こんどのチリ大地震による大津波ははるかに大きく、気象庁ではこの地震津波をさして“地球上最大のものだった”といっている。

逃げるときは高所へ

一般に津波の襲来するのは、地震が起きてからしばらくたってからだ。波の速さは秒速二百メートル前後(深さ四キロの場合)だから、七百キロ離れていれば約一時間はかかる。また津波の来る前には潮が急に引くとか、夜闇は発光現象が起きるともいわれる。三陸大津波の経験者の話では、海のかなたで「コローン、コローン」という無気味な音がし、やがて馬の大群が近づいてくるような“とどろき”が聞えることもあるそうだ。

こんどの津波では、気象庁から発令する津波警報が出されていなかった。しかし、少くとも日本近海に起きた地震では津波警報がだされる。日本の津波警報組織は、世界でも最も完備しているといわれ、気象庁が第一情報をキャッチしてから末端に届くまで大体十五分間。もし、ラジオを聞いていれば、少くとも数分後には警報を知ることができる。

現地からの津波電報は最優先的取扱いをうけ、地震後約五分間で津波中枢(管区気象台、地方気象台など気象庁の機関)に届くことになっている。だから、現在では気象庁が津波警報を発令すれば、避難には十分間に合う余裕がある。

今回のように、気象庁の判断が結果的に間違って、まさか津波などは…と考えて警報を出すのが手遅れになるのは例外中の例外だ。これが不意打ち的な津波襲来となって大被害を出した最大原因でもあった。

津波警報が発令された場合は、地形の高い丘や山に逃げれば命だけは助かる。しかし、津波に対して完全に防ぐには防波堤が必要である。三陸海岸では、過去二回にわたるにがい経験から、たとえば岩手県田老町のように、堤の高さ十メートルというトーチカのような大防波堤を築いているところもある。しかし、津波の規模はケース・バイ・ケースであり、いつ二十メートル、三十メートルという大きい津波が来襲するかわからないので、津波のさいは必ず山手に避難するようにしている。また、家をつくる場合は海岸をさけ、海抜十メートル以上の小高いところに建てるよう指導している。

“天災は忘れたころにくる”というが、今回の津波も私たちが津波への恐怖を忘れたときにやってきた。国土の多くが災害危険地帯に埋めつくされており、一段と災害への関心を高めることが必要であろう。

(毎日新聞三十五、五、二十五)

(七) 前ぶれのない津波

1、無警告津波の教訓

この前ぶれのない津波を三宅盛岡地方気象台調査官は岩手日報論壇で次の様に述べている。

「本日午前四時ごろに三陸沿岸地方に津波が来襲し、かなりの被害があり、現在もなお津波がおし寄せている」という二十四日朝のニュースは、津波は海岸地方のものと考えていた内陸の人々でさえも、全くその思いがけないできごとに驚いてしまったことだろう。

まして全くの寝込みを突然の津波に襲われた海岸地方の人々の驚きは、いかばかりであったろうか。ラジオ、テレビで被害を報ぜられるに従って、その犠牲の大きさを嘆くばかりである。それにしても全く予想がつかなかったものであろうか。この津波の教えるところを検討し、今後の教訓にしたいと思う。

まず津波は大地震に伴って起こるものであるということが、一般の常識であり、過去に三陸沖を襲った数度の津波も、すべて三陸沖大地震によって発生している。このため、昭和八年の大津波の発生した三月三日を津波記念日として、毎年津波の啓蒙と避難訓練を行なっているが、これもやはり地震を想定したもので、この効果は幸い被害を伴わなかったが、三月二十一日の三陸沖地震の際の避難状況によく現われている。しかし今回の大津波は地震を伴わない全くの無警告津波だったということである。(実際は二十三日早朝の南米のチリ地震に伴うものである)

もちろん昭和二十七年十勝沖地震の際の津波のごとく、東北地方は無感地震であったにもかかわらず、津波を伴ったことがあった。日本付近の地震で状況をつかみ易く、また大被害を伴うような大津波ではなかった。やはり有感地震を伴わない津波は、弱いものという考えを一般的に持っていたわけである。

しかし、異常な引き潮をみて津波の警告をしてくれたという消防隊の人々には、全く敬服のほかはない。ただ、これも一部であって一般には、やはり無警告津波であり、このことが被害を大きくしたものと考えられる。

第二として、三陸地方の津波警報は、仙台管区気象台が行なうことになっており、一般には地震を感ずると、東北地方の気象官署は地震電報を仙台管区気象台に打電し、これをもとにして津波予報を行ない、地震後二十分以内に発表するという組織になっており、今回のように地震を直接伴わない津波に対しては、ほとんど手の打ちようがなく、今回も実際津波の来襲後に警報を出すという状態であった。実際には津波は午前四時ごろにおしよせ、警報は同四時五十八分に出されている。

さて、このような問題点に対して、全く打つ手がないものであったろうか。

今回の津波を無警告津波と称したが、実際には日本からみて地球の裏側、南米チリの中部海岸沖に二十三日午前四時十五分に起きた地震に伴うものであることがわかり、ほとんど一昼夜にして地球を半回りし、太平洋側に到達したものである。盛岡地方気象台の地震計も、立派にこの地震を記録していた。

ただいままでチリ地震に伴った津波が、日本に大きく影響したということは一度もなく、また波というものは長い距離を進行している間には、減衰してしまう。

これが大きな誤りであったわけだが、この場合、ロボット検潮儀があって、刻々に潮位の異常が伝えられたとしたなら、もっと早い時刻に警戒出来たものと考えられる。実際、宮古測候所の検潮儀は午前二時四十七分ごろから異常潮位を記録していた。

しかし、この大津波の教訓は、遠距離地震でも津波を生ずる場合のエネルギー計算が確立され、また世界的な地震、津波の連絡組織の締結へと将来進んで行くことを思うとムダな犠牲ではなかったものと思う。何よりも当面の大きな問題は、被災者の救助である。県全体をあげて、早急に平常の生活にもどるよう努力するとともに、犠牲者のめい福を祈るものである。(岩手日報三十五、五、二十五)

2、おそかった津波警報

チリ地震による大津波は警報の遅れによって被害を大きくした。気象庁は二十三日未明チリに地震が起こったさいすでに最大級の地震であることを確認し、ホノルルの太平洋地域津波センターからの警報連絡も二十三日には入手しながら何ら手をうっていなかった。なぜこうした手落ちがおきたか、二十三日からの同庁の経過を追ってみる。

一万七千キロもはなれた地球の裏側から押しよせたこの津波は南米チリのサンチアゴ沖の地震が原因だが、日本ではじめてこれを探知したのは、三日前の二十一日午後七時二十三分(日本時間)地震規模はM八という今世紀有数の横綱クラスで、翌二十二日午後七時五十一分にも微小な余震が伝わってきた。本番の二十三日午前四時十五分と同三十一分には関東大震災を上回るM八・七五の強さを長野県松代の地震観測所で記録、日本側もこの方向がチリで、津波が起きたら二十二~二十四時間後には日本にやってくるにちがいないと過去の経験からわりだしていた。

警報をだす目安はチリから三時間で津波がやってくる中米コロンビアのバルボア観測所の検潮儀が確認すれば警戒体制にはいるつもりだった。(酒井津波予報官の話)

以上は日本側独自の推定だがこのほか気象庁はホノルルの津波センターからの連絡をあてにしていた。これはアメリカ沿岸測地局管轄の機関で、終戦後気象庁に気象通報を要求、アメリカ側からも情報を日本側によこしていた。同センターからのはじめの津波情報が同庁に入電したのは二十三日午前十時二十分、これは太平洋沿岸に津波が予想されるという簡単なものだったが、午後六時五十七分の第二報はホノルルがだした津波警報やクリスマス島、タヒチ、サモア、フィージイ各諸島、ジョンストン島をそれぞれ襲った津波時刻を通報し、太平洋全域に来襲の恐れがあるというものだった。

ところがその第二報が退庁後にはいったため、二人の宿直員がいるだけで情報を軽視、ハワイから七時間でくるはずの津波を二十四日未明現地の連絡があるまでつかめなかった。このため一番先に警報がだされたのは同五時近くになって札幌管区気象台、気象庁は同五時二十分というありさまで、三陸沖ではすでに数回もの激しい津波が襲ったあとだった。

〔仙台発〕仙台管区気象台が管内(東北六県)に津波警報を出したのは第一波が午前四時十二分ごろ襲来したあとの同五十八分。宮城県で津波第一報をつかんだのは気仙沼署から「潮流がおかしい」という知らせを受けた同県警本部が同気象台に通報したもので完全に津波に出し抜かれた。

判断の甘さがあった

和達気象庁長官の話「確かに二十三日午前と午後に情報がはいっていた。ただハワイからもう少し適切なものをもらえればよかったと残念に思う。ハワイの情報は南太平洋の範囲のものでわれわれとしては太平洋のかなたからこれほど大きな津波が日本に押し寄せるとは思い及ばなかった。担当員も電報がはいってから様子をみているだけで平日と同じ宿直体制だった。かつてこうした例がなかったのであの電報の範囲では警報を出すまでは思い及ばなかった。われわれが勉強不足で判断の甘さがあったわけだ」(読売新聞三十五、五、二十五)

(八) チリ地震津波山田での来襲の状況

昭和三十五年五月二十四日、宮古測候所検潮儀では午前二時四十七分、山田では海上にいた人が午前三時五分に異状に気づいている。第一波は二時半ごろ、第二波が三時ごろ、そして第三波が四時二十五分過ぎ自然増水(だんだん水面が上がってくる)の形で水かさが増し、見る間に護岸を突破している。以後大きな高波は二回にわたって襲ってきている。

1、津波来襲の状況と避難

(1) 体験記

織笠 昆与平(74歳)

今年は妙な年です。若布採りの季節が来るのに、その若布が海のどこを見ても少なく、秋の終りになってから刈り始める昆布が海全体に生えて、よさよさしているのです。

津波のあった五月二十四日は待ちに待った若布採りの口開けの日でした。

私は、やれ嬉しやと、まだ夜の明けない朝の二時というに舟を漕ぎ出して、山田湾の湾口の黒崎までやって来ました。

私の舟の前を行く舟が五、六艘ばかり、ところが後について来る舟がありません。大沢部落の方からも、大浦部落の方からも、山田部落の方からも誰も出て来ません。さては中止かな、変だな、兎に角、朝飯を食べようと、舵を沖に向けたまま携えて来た弁当を食べているうちに、舟がいやに速くなって来ました。

それもその筈、潮がどんどん沖へ流れて行く。それがすばらしく速くなって来た。

これは変だ、いや大変だ!

弁当を籠に投げこんで、素早く舟を家の方に向け、力の限り漕ぎ戻しはじめた。負けるもんか、それ、やれと櫓が折れるなら折れよと頑張るが、潮に引かれる舟は沖へ沖へと押し流されて、垂水沖まで出て来た。あたりには今まで見たこともない底岩が海藻を被って水面に高く突き出している。

それを見ると身体がふるえ出し、眼がまわってくる。それでもなお一生懸命漕いでいると、おや、おかしい、垂水沖にいた筈なのに、あれから十分もたたないうちに、今度は湾内の大島に来ている。いつもなら垂水から一時間もかかって漕ぐところなのだ。

そうだ、これが津波なのだ。いよいよ大変だと思うと、最初の引き潮の物凄さがありありと眼に浮びます。あの氷場、定置漁場の建網のワイヤーの切れる物凄さ、それにもまして湾口の潮の流れの物凄さ、思い出すだけでも気持ちがわるくなります。

それから見れば、今私の舟を浮べて押し流してくるこの大津波、湾内の島を見れば松も杉もぢかに水に浮んでいます。

家に帰ろうと思って大沢部落を目ざしましたが、何処にも舟をつけられません。山田部落に舟を近づければ、その辺に何処かの家の屋根が流れていてやっぱり駄目です。

そうこうするうちに、また引き潮になり始めました。そこでカキ棚を見つけて舟を繫いだら、これはすぐ抜けて力にはなりません。

私は一寸も手を休めることなく漕ぎに漕いで弁財天島へ寄ろうとしたら、ここは早くも陸続きとなり、大島と小島とが底岩で一つづきの陸となり、小島と女郞島もまた続き、一面に海藻を被った海底が眼の前に聳えるのです。私はぶるぶるふるえながら潮水の残っている谷間のようなところを漕いでいるうちに潮がまた寄せて来て、女郞島が大分かくれ島々の木が水びたしになって来ます。

上陸するのは今だと思って、昆万助さんの畑に漕ぎ付けました。潮のほとりにいる村の人たちに「潮の引かないうちに早く、早く」と呼ばれ、大勢の皆さんから舟もろともに引き上げてもらい、やれやれと命拾いをしたお礼をして歩き出したものです。

わが家に帰る途々、古川橋に立って見ると高い道路の上に大きな船が横たわっております。それよりも驚いたのは、私の新造船が川端にちゃんとつながれていることでした。

大方の舟という舟は、破壊し、流失してしまっているのに、私の小舟が一隻無事なのは何と考えても不思議です。

しかもその先に誰かの家の屋根が道路を塞いでいます。壊れた家々の柱や板や、電柱が行手を妨げ、家財道具、畳、衣料品が泥を被り、糞を被り重なり合っています。

屋根に上り、酒樽に躓き、電線に足をとられ、豚や鶏の死骸を越えて、辿りついたわが家は床下浸水だけで全く無事でした。

とは云え、夜になると電灯がつかず、米や味噌がなく、売る者もなく、道路や線路が流失、潰滅したので汽車も自動車もなく、電話も電報も通用せず、全く孤独のありさまになりました。

そのうちに自衛隊が出動して来て、まず道路を開いてもらい、畠や道路に乗り上げていた舟も次々に自衛隊が機械力で巻き上げて海に運んで浮べてくれたので人々は自衛隊に感謝しております。

織笠 西村幸男(49歳)

若布口開けが中止のため時間もさだかではないが、四時近いと思う頃、アイナメ延縄漁に従兄の昆忠男さんと大浦の方へ出舟した。

ずい分潮があるなと思ったが、あえて気にも止めずにいた。変り無く現場へ着いたので、大浦崎から投縄を始めた。途中大浦の桟橋に潮がつきそうに見えたが、先程からの高潮だなと感じた位いで、まだ何も気付かない。其のうち舟が前に進まなくなり「エンジン」の回転を上げた。だが進まない。艫に行って「ヘラ」を見た。異常がないので変だなと思った。すると其の頃、大浦の人達が走っている様子が見えた。エンジンの音で何も聞えない。半崎附近に来た時、今度は舟が急に速くなった。投縄が間に合わない。その時、所々に渦巻が出来た。はじめて津波でなかろうかと気付いたので道具を投げ捨てて逃げた。立神から普通五分位いで大浦崎に着くところだが、約十五分はかかったろうと思う。(現在灯台の立っている所、普通干潮で見えかくれする根のことをタライ島と云う)

突然軍艦が見えた。今頃どこから急に現われたのだろうと不思議に思い、良く落着いて見たらタライ島であった。見上げるばかりだ。おそらく十四、五米はあっただろうか。沖の方を見た。津波が来たのだろう。海が湧き上る感じで舟が速くなり出した。山田の町の所々で、パチパチと云う感じの青光がはしった。先程の島も見えない。舟は飛ぶように速いが、自分達のことは少しも心配だとかおそろしいとか云う考えは全くなく、家族がどうして居るだろうかと、それだけが心配で、気持は急ぐけれども岸に着く事が出来なかった。織笠の家は半分位いは水の中の様だったので、全滅だと思った。そのうちに水が引き始めたが、浦の浜方面に居た為か、舟が引き戻されて行く感じが無い。

山田魚市場の岸壁から水が落ちるのが見えた。テレビで見たナイヤガラの滝のようだ。兎に角きれいだ、凄い。見事だと思った。この事だけは今でもはっきり憶えている。忘れることはないだろう。壊れた家の残骸が流れて来た。タンス、舟、あらゆるものが流れて来た。舟は自由にならない。でも家の事ばかり心配で気が気でない。次の波に乗り御礼口の畠の中にたどり着き、線路伝いに家に帰った。

山田 阿部直吉(75歳)

五月二十四日午前三時半頃より潮の干満のさまがおかしく、四時すぎ日東捕鯨会社は当直警備の警告により避難態勢に入るべく準備を始めたところ四時二十五分過ぎ頃自然増水の形で海面上昇、見るまに護岸を突破場内最高、波高一・三米(満潮面よりでは約二・五米)に及ぶ冠水なり。場内は瞬間にしてドラム罐及び鯨肉其他流失物の洪水と化し水勢は土塀を破り工場外の山手よりの田畑を海と化した。

この第一波は間もなく退き、日東捕鯨の桟橋の先端東寄り「雨ふり島」と言う「暗礁」陸岸より約四〇〇米位の沖合迄遠く潮干き広大な海底は露出し干潟となり、引き続いて第二波来襲し波高は最も大にして約一・五米冠水し続いて第三波は一・二米と約三十分――四十分の間に、大波三回に渉り襲い、襲っては遠く潮干き又襲うと言うように猛威を振った。この津波は地震も地海鳴り等も通常の津波のように前ぶれというべき現象も感知もできず津波と言うよりは高潮とでも言おうか増水とでも言おうかそれだけに不意を衝かれた形であった。

其の直後も余浪あり間断なく潮の満干が続いていたが、護岸線すれすれで突破は前記三回の高波のみであった。

チリ津波のような現象を昔は「ヨダ」と言った。

日東捕鯨会社の若い従業員達は、この静かに遠く退く干潮を眺め、おだやかに襲来する津波にすっかり気を緩し、再び引き潮がゆるやかに遠退き日東捕鯨の桟橋の先端より更に沖合の「雨降り島」と言われる普通約一丈位の深さ(約三米)の暗礁が完全に露出し海底が一面に干上がった。

その広い浅瀬には、あいなめ、かれい、かじか、そい等が、バタバタしている。ウニ、ナマコ、アワビ、ほつき等がゴロゴロ群をなしている奇観を見て、これはよい獲物とばかり、濡れ手に粟と、その遠退き干上がった浅瀬によこだかごをもって行き獲物をそれに一杯拾い入れ得意になってヨイショ、ヨイショとひっさげて岸に向って引上げようとすると、静かなる津波は、急がずさわがず、ゆっくり「ノッコリ」と大牙を陸にむけ乍ら襲来しかかった。若者達は、スワ一大事と獲物のよこだも何にもかもあったものでない命カナガラ川向いの山手に逃げたが、肝腎の事業所も己の住宅も家具家財は勿論、一たまりもなく倒壊流失損壊と獲物どころのさわぎでなく肌着一枚も持出さず着のみ着のまま辛じて逃れ、エライ憂目を見た。

大沢の鈴木定司さん達はサツパ(モーター付魚舟)に乗り当日は若布の口開けにて未明より採集のため沖に出ると間もなく天候のため中止の通報に接した。

やむを得ず帰途につくに山田湾口明神崎にさしかかると仲々舟が前進しない。不思議に思うとややしばらくして、今度は舟は、矢のように突走る。瞬間にして大沢の前沖に至る。

その時始めて津波であることを直感し、危険を避けるため、その沖合で舟の進退を辛じて維持し、津波終了を見極めてから岸壁に着いたら我家我村は倒壊流失等共に惨憺たる光景であった。

山田 堀合了(71歳)

昭和三十五年五月二十四日、当時私は後楽町(寺小路)に住んでいた。

この朝私は夢うつつに家のまわりの何となく変なざわめきに気づきつつ床の中にいた。その異様なざわめきの中に、きれぎれに、ツナミとかヨダとかいう人声―すっと飛び起きて話を聞くと海岸が高潮で大騒ぎだという。地震もなかったのにといぶかりながら中央町当時の三日町の海岸に行って見た。岸壁に打ちつける海水が心なしか、いつもより黒黒と見えた。

その海水が俄かに沖に向って退きはじめた。岸壁から二〇〇米も干上って見なれない岩や海苔しばの折れたものが見えている。

そして退いた潮が、次には逆に陸に向って、時々刻々押し寄せて来る。徐々に不気味に地の底から盛り上がり、ふくれ上がり、一波ごとに高さを増し、ついに岸壁に立っている私の足を洗い、やがて海水は道路にのし上り、下水を伝って三日町にひろがった。既に何回か押し寄せた波で、北浜町(当時釜谷洞)は家屋が多数倒壊し、その残骸が散乱し、道路をふさいで通行不能、川向から境田方面の街路も水びたしで歩けないという話。

その他各方面の被害の情報を聞くにつけ私は「大沢はどうなってるだろう」と気になり出した。(当時私は大沢小学校長在任中)大沢小学校自体高台にあるから絶対心配はないが、学区や学童のことが気にかかり朝食もそこそこに大沢へ出掛けることにした。

釜谷洞も通れないし、宝来橋方面も県道が欠壊して交通杜絶しているから、先づ関谷を経、沢田に出て今のホテル陸中海岸あたりで、県道に出るつもりで自転車で出かけた。

沢田前、柳沢一帯の水田は既に何回かの波で浸水した。海水が退き切らず田の畔も軟弱で自転車などの物の役にも立たない。山裾を辿ってホテル陸中海岸の方にも泥水のために到底出られない。やむなく自転車を押して沢田から畔づたいに県道(海岸)に向って歩いた。

途中で関谷のお爺さんと道づれになった。この人は亡き武藤六二さん(当時七十三才、武藤禄男氏厳父)である。武藤さんは大沢に嫁いでいる娘さんの安否を気づかって出かけて来たのだった。海水で軟弱になった畦畔に足をすべらせ、泥に足をとられつつ二人とも焦り、あえぎ県道目ざして進んだ。あたりを見る余猶は殆んどなかったが、天気は曇であったと思う。消防団員らしい人、漁夫らしい人が宝来橋(旧橋)付近にいたように思う。天も地もそして人も皆息をころし、無気味な沈黙の中に在った。私は武藤さんを励まし歩を進めた。そしてもう少しでものの五十米も行ったら県道と思うあたりで、どこで誰が叫んでいるのか、水が来たぞう―と、ただ一回だけふりしぼる様な声を耳にした。すわ大変と思う間もなく海水が田んぼに音もなく入って来た。――と地獄に仏、目の前に棟上げしたばかりの骨格だけの家が建っていた。私はおじいさんの手をとって、二人でヌキ(貫)を梯子にして二階に上ってホッとした。間に合ってよかった。(この家は現在柳沢の「みなと商店」湊幸雄方である。)

山田湾が一望のうちに眺められた。岸から大島近くまでは再三の波にもまれてか、海水が土色に濁っている。眼下に大きなうねり。ゴウゴウといおうか、ザワザワといおうか、一種異様な響が山田湾をふるわせて押し寄せてくる。

――こんな身近かに津波を見ることは二度とないでしょうね。

おじいさん柱にしっかりつかまってゆっくり見ましょうよ。

という私の冗談がカラ元気もうつろに響いたことだったろう。視線をどこへやったらいいのか、唯々呆然として二人は立ち竦んでいた。そして尚も天地を震憾させる大音響は宝来橋に起った。波ははじめ橋げたの下を猛烈なスピードと力をもってくぐりぬけ、関口川を遡上したと見るや、次の激浪は橋げたを強襲し、橋を乗り越え一団の土色の小山のような海水は十数メートルも高く吹き上げ白い波頭は中空に散る。まこと神々の怒髪天を衝くさまか、この世のものとも思えない凄絶さであった。海水は川にあふれ、水田一面にひろがった。今の柳沢住宅地から沢田まで、北の方はホテル陸中海岸の山裾まで満々として光っていた。

私達のしがみついているこの家も一面の水の中に取り残されてしまった。当時このあたりに民家は未完成のこの家だけだった。侵入した水は一時静止したかに見えた。足もとをみると、この家をめぐる水は二米位の深さはあったろう。立てかけておいた私の自転車は影も形も見えない。

――おじいさん、次の波が来たら私達はもう終りでしょうね。死ぬ時は二人一緒に――と半ば冗談、半ば本気で言った。

――ハイ。私は年だからいいが、あなたは材木にしがみついて流れておでんせ。大丈夫助かるから――とおじいさん

目を転じて北の方を見ると、ホテル陸中海岸の下あたり消防団(豊間根)の人四、五人が、山と積まれ、水にかこまれ、やっと頭だけ出しているカキ殼の山のてっぺんで鳶口様のものをもって、これ又動きがとれず立ちつくしているのが見えた。あのカキ殼が崩れたら

と思うと慄然とした。

こうして一時静止していた陸上一面の水が今度は又々天地をゆるがす轟音と共に一斉に海に向って退き出した。その速いこと。その勢のすざまじいこと。殆んど一瞬のうちに海へ海へとなだれをうって退いていく。私の見ている前で宝来橋北側の岸壁のコンクリートの塊りが長さ凡そ二十米にも亘って、根っこからグラリと動いて海に倒れていった。寄せる波も凄いが退き波の凄さはその何倍も強烈だ。私共のたてこもっていたこの家もグラグラゆれ、丸太がぶっつけてはゆさぶられ何度胆を冷やしたことか。

潮は退いた。気がついてみると、この家はまだ一米位の水が残って動けない。ものの四十分位もたったろうか、命びろいした私と武藤じいさんはこの家を出た。自転車は倒れて砂にまみれ車輪が動かないので放棄したまた残っている泥水は膝を没する程だが、ジャブジャブ歩いて大沢に向った。

私の経験したこの波が最終波(第七波)といわれる。六角塔までのぼると海はケロリとして波一つなく、何事もなかったものの如し。

袴田では小学生達が磯辺で海草等取っていた。まだ波が来るかも知れないから陸に上れと注意して大沢に着いたのであった。

当時の小学生の津波感想文

船越小学校五年 佐々木重光

五月二十四日午前四時半頃のできごとである。「津波だ―」とさわいだのでぼくは起きて服を着て外へ出た。すると下のほうでわいわいさわいで上のほうへ上ってきたので、ぼくは海の方へ見に行った。そしたら海の水が二、三メートルひいていた。そのへんにいた船はみんな沖へ出て行った。ただ一そうの船だけがのこっていた。それは機械が焼玉なので機械をかけるには時間がかかるのでまだ残っていた。そこらにいた人たちは「なあにこない」といっていたがそのうちにもだんだんと潮がたって来た。そして護岸の方へのこのこと上ってきた。すると消防団の人たちは「子供はにげろ――――」といったので、にげたらあとからおとなたちもにげてきた。

ぼくは、家からカバンをとってきてにげたら、下の方の家は流れて来た。

ぼくは、だまってふるえながら見ていた。水がひいていってから見たら、ボートなどは道路にのり上っていた。田んぼは水びたしになっていた。あとは二軒の家はばらばらになっていた。家がいままでいた場所からちがうところに行っていたのは二軒あった。水びたしになった家は五、六軒あった。

それから坂本のおじいさんの家にはいってラジオを聞いたら、気象庁の津波警報がおそかったことを話していた。気象長官の和達長官も何か話していた。

おとなたちの話では、昭和八年の津波より大きいという人もあった。中には「あれは津波ではない、よだというものだ。」という人もあった。水びたしになった家では、家の中を水をかけて洗っているところもある。坂本のにいさんは写真をうつしていた。にげた人たちも半分以上はさがって来ていた。流されたものを見つけている人もあった。生徒たちは下へ見にいこうとして、中学校の会長におこられていた。

ある人は、「まだ七メートルの高さのがくる。」といっていた。

ぼくは、津波はおそろしいものだと思った。

船越小学校五年 橋本とも子

朝がたの四時頃、私はおかあさんにおこされた。私はなにがおきたかと思ったら、「津波がきてみんなが高い所で見ているよ。」といったので、私はたまげて上に行ったら、人がいっぱい海を見ていた。

津波は口をあいてくるのかと思っていたら、のこのことはってくるようにだんだん、ていぼうの所まで来た。ていぼうを越えて松原や田畑まで潮水がとおってしまった。

私の家のおとうさんや、にいさんたちが船を上げに須賀に行ったので、おかあさんは心配していましたが、とうとうむかえに須賀まで行った。

私はおかあさんがいないので心配しました。浦の浜を見に行ったら、ていぼうがきれていて、そこから水がうずまきながら、田、畑にどうどうと流れる音が聞えました。

田んぼには、カキのたるや丸太がいっぱい流れていました。山田や織笠は一番ひどいといっているが、船越は田や畑がひどい。

織笠がひどいというので、みんなで織笠に行きました。そしたら木材を入れる小屋や、たんす、家とたくさん流れている。

線路からおりて家々を見たらひどい。駅にいる人はふとんや時計などをもってにげたが、一つも持たない人もあるようだった。

織笠の女の人が「このざまでござんす」といっていた。船越からくらべると織笠は家も田畑もみんなぜんめつになっている。海は水がひいたり、よせたりしていた。空のほうをみたら、ヘリコプターが飛んでいた。私たちといっしょにいった人たちが「あのヘリコプターはたぶん織笠と山田に何かおろすにちがいない。」といった。

駅に行ったら駅の人が、サッパやそのほかの物をかたずけていた。上のほうにはながされた人たちがたくさんいました。そして、もってにげた時計や、ふとん、毛布などがほされていました。

子供たちはみんな線路のところにいました。私たちはかわいそうだなあといいながら帰りました。

織笠小学校二年 うえばやしようこ

わたくしたちがねていると、おかあさんが「ようこ、つなみだ―ずがおきろ」といいました。そして、かずおをおこしました。おきないのでおとうさんは、かずおふつたないでわたしのいえのすぐまえのいえのうらの山に、まくらもどにたたんでおいたふくをもってねまきをきたままにげました。かあさんは、ふくを三まいきたとおもって二まいきてきたそうです。

そして、げたをはいてきました。山でひでこにふくをきせました。おとうさんは、下へさがってほとけさまと、かみさまをふろしきにつつんでもってきました。そのふろしきには、ひでこのおしめや、わたしのスカート、ズボン、ようふくや、いろいろなものがはいっていました。

そしたらまたおとうさんが、下へさがってわたしのかばんや、とうさんのかばんをもってきました。

一かいめのみずが、すこしずつきて、二かいめのみずは、ざあっと、ものすごい音をたててきました。

そのとき、げんかんのとが、はずれました。そしてみずがはいりました。みていたら一けんの家がこわれて、こわれた家のいたが、どごたりにぶつかってずんずんとこわれてきました。

それをわたしたちがみていると、あとはまのちいちゃんの家のとうさんとちえちゃんとまきちゃんがむかえにきてくれました。そしたらとうさんが「おまえたちは、いってろ、おりゃあ、みずがなくなってから、げんかんのとをたててしめてくるから」といったので、わたしたちは、「とうさんだいじょうぶ」ときいたら、とうさんは、「だいじょうぶだよ」といったのでわたしは跡浜の家にいきました。わたしはあんなおそろしいつなみをはじめてみました。

織笠小学校三年 昆玲子

わかめのくちあけの朝、じしんのしないつなみが来た。わたしがねている時、外がうるさいので、おばあさんが耳をすまして聞いていましたが、「けさは、わかめのくちあけでさわがしいのかなあ」といって、またふとんの中に入った。それでもさわがしいので、外へ出てきくと、「つなみだ―」とさわいでいた。

わたしは、つなみに一回もあったことがないので、ほんとうにくるかなあと思いました。

おかあさんは、まだねむっていましたが、ほかの人たちが、ふとんなどを持って来たので、やっとおきた。わたしはおそろしくて、ブルブルふるえていました。ふとんは、たたんでタンスや、にもつなど、二かいにあげました。やがて、つなみがおしよせてきました。わたしたちは、そのとき学校へ行っていました。

ていぼうをこわしてくるのを見たり、次々と家をこわしてくるのを見ると、おそろしくて、なりませんでした。わたしのおかあさんと、おばさんが家にいるので、よびに行きました。

「かあさん、なみがきたがえ―」と。

わたしの家のまえのふさこねえさんの家を水がかこんで、わたしの家の前まできました。

そしてもどってきました。

二回目の波ももう少しで入るところでした。

また来ました。

わたしの家までくるかと心配でたまりませんでした。やがて日がてりだしました。

私の家までこなかったのでおかあさんの所に行くと、「まださがってくるな」といわれたのでまた山にあがりました。

家のながされた人やこわされてしまった人たちはただ、ぽかんとたっていたり「かぜがねえほうがよかった」とつぶやいていた人もあった。わたしの家のきんじょの人たちにごはんをたいて、おにぎりを作って食べさせました。そして家をかしてやりました。

織笠小学校三年 稲川光一

ぼくたちがねていると、おかあさんが、かいこんさいくとき、おもてが、ガヤガヤとした。そしたら、ボクのおかあさんが、「つなみだ、はやくにげろ」といいました。そしたら、みんながおきました。

そしてカバンをしょって、スントウさま(神道さま、神主の意)ににげました。そしたらおかあさんが、こめをしょいかごにいれてきました。

そしたら、ねえさんもおとうさんも、なにももたないではしってきました。ぼくは、ほんとうに、つなみがくるとはおもいませんでした。そしたら、つなみがきました。ぼくのうちや、きんじょのうちが、こわれなければいいなあと思った。ぼくのうちも、こわれるかなあと思った。ぼくのいえのちかくもたくさんこわれたりしました。

ぼくは、となりの家がこわれるかなあとおもいました。そしたらうちもこわれるからとおもいました。ぼくは、もう一どくるかなあと思っていると、ジョロウ島にあるずんぞうさま(地蔵さま)がみえなくなりました。ぼくはもう一度くるんだなあと思いました。しばらくたってもう一度きました。たたみや、やねなどがながれていきました。こんどは、ぼくのうちがこわれるのかなあとおもいました。山にいた人たちは、みんな心ぱいそうなかおをしていた。きんじょの家では、ふねがぶつかったりしたいえもありました。店やからは、げたやおかしや、くだものがでてきました。六回もきてやっとつなみがやみました。そしたら、きんじょの人たちがながされたのをかたずけたり、なおしたりしました。

織笠小学校四年 菊地牧子

朝の四時頃急に妹がなきだした。私はびっくりして起きた。小さな兄さんもふしぎそうに起きた。となりのへやにいるおばあさんから「なにしたの」ときいたら「つなみだ」と云ったので、私はびっくりした。

服を着て長くつをはいて、うら山ににげた。その朝は、おかあさんとお父さんがわかめにいっていなかった。

それでおばあさんは、大きい兄さんが上におぶって行った。妹とまた下におりて行って、かばんをとりにきた。本やちょうめんが入らないので、ちょうめんはおいて行った。妹が「早くきたが」と云ったので、あわてておかあさんのげたをはいてにげた。山に行ったらもう水がはいってきた。ゆり子ちゃんのおとうさんが水にはいってくるのを、しゃしんにうつして山にあがってきた。海の方からたるが流れて来る。

なみの音といっしょに家がみりみりとこわれて行く。お父さんたちは、浜から走って来た。波がひいていったとき、お父さんとお母さんは家に行ってたたみをおこしてきた。

それからたくさんのお母さんが顔色をわるくしてないていた。私と妹はおとうさんのそばにいった。おそろしいつなみをみていると、私はなきたくて泣いた。妹もないた。小さな何もしらない子供たちは、急に起こされたのでないている。

たくさんの人たちは、荷物をはこんで来る。ゴウゴウと音をたてている水、目をつぶっても音はきこえる。また水がくるとみしみしとこわれていく。子供の声やお母さんたちのなく声が山中にひびいている。手をあわせておがんでいる人もあった。「お父さん、つなみはいつおわるの」と泣きながらきいたら、「もしかすれば、一日中来るかもしれないよ」といった。

早くつなみは、おわればいいなあと思った。波が静かになれば、みんな下におりて行った。小さな子供たちはなにもしらないで、「キャンデイかってけだんせ」などと云っている。私は、山でおとなりの赤ちゃんをおんぶした。山にはおじいさんや、おばあさんや子供たちは上であそんでいる。あとの人たちは下におりていって、みてきたらあるけないようにどろがあった。家の中はどろだらけだった。井戸がすぐそばなので、水をざんぶ、ざんぶと何回もくみ板をきれいにした。それからきれいに手を洗い、ごはんをたべた。はらがペコペコなので、三ぜんもたべた。それから私もいろいろな物をあらって働いた。おにぎりの配給もあった。私と妹ととりに行った。どうろには、あるかれないように、たきものがたくさんあった。みんなまたくるかと云っていた。私はもうこなくてもよいと思った。そして私はもとどうりの織笠がほしいと思った。

織笠小学校五年 田村光郎

ぼくが目をさましたら外がガヤガヤしていた。ぼくがおとうさんに云ったらおとうさんは起きて外に出ていった。すぐおとうさんが入って来て「津波が来た。何も持たなくてもいいからにげろ」と云ったので、ズボン下をはいて、ズボンを持ってにげました。

にいさんは、「おれのがいんねえ」と云ったので、ぼくは「みんなのを持ったあ」と云ってにげた。山に上ってズボンをはこうとしたら、ぼくのズボンがなかった。ぼくはハッとした。取りに行こうとしたら、おとうさんが「行くな、おれが持って来た」と云った。ズボンをはいてしばらくたった。そしたら潮が引いて行った。だれか泣いている人があった。ぼくのうちのとなりの人でした。「なぜ泣いてるの」と聞いたら、まだ、おとうさんとおかあさんが来ないと泣いているのだそうだ。なぐさめようとしている人があったが、泣き続く。そして何分かたつうちに、おとうさんと、おかあさんが来た。そしたら泣くのがぴたりと止った。

いつの間にか、二回目の津波も海岸をあふれていた。見ているうちに、ぼくのうちの半分位に上った。三回目も同じくらいだった。

あとの津波は小さいのでした。ぼくのうちは少しこわれた。あとはかたずけるのだ。床板には土がいっぱい入ってた。さきに土を取ってから今度は、クレゾールをつけて板をふいた。近所にあるガソリンスタンドのまる万の石油で家の中はギロギロだ。いくらふいてもだめだ。外を見たらカキカラなどで見られない。ぼくのうちの本家からも人が来た。家のあたりは、だいたいかたずいた。

その日の晩は堀合正君の家にとまった。なかなかねむれないので、ざっしを見ているうちにねむってしまった。

次の日の朝は、きりがかかっていて太陽の光がうすく見えた。ぼくたちはいつまでこんな生活をしていくのであろうか。

織笠小学校五年 堀合和郎

五月二十四日の朝四時頃「津波だ―」と云う声と、かあさんの云う「津波だ―早くおきろ」といった声で、ぼくは飛びおきた。

かばんをもってにげる時は、もう前の道路には水があがっていた。中学校に走ってにげた。中学校に上って川の方を見ると、上の方から流れてくるたると、いっしょに水がゴウゴウと音をたてていた。

かあさんは、また家にふとんをとりにいく。ぼくと妹は中学校の校庭でかあさんを待っている。かあさんが来て本家に行く時、小学校の所で本家の人が二人待っていた。その人たちといっしょに本家に行った。本家のまどからすこし海の方を見たら、潮がひいていたので、外に出て見たら、女郞島がいつも見えない所までひいていた。びれいてん(弁財天島)もすっかりひいていたので、今度は山に上ってみた。

太陽が光って雲が白く気味が悪かった。いつのまにか、だんだん水がおかの方に来る。ついに水は道路にあがった。ぼくは心の中でぼくの家はどんなになっているのだろうと、跡浜の海岸を見ながら考えた。水はもうたくさん道路に上ってきた。

のりさつぱも上ってきて、家のガラスをこわしたりして、つぎからつぎえとのりさつぱが道路に来る。見ているとこんどは、反対にひけていく。ぼくはひけていくひまに、ごはんをたべて、ぼくの家の方を見に中学校に行ったら、ぼくの家はうしろのやしきにむきを変えていたのを見てびっくりした。

また潮がたってきたり、ひいていったりを何回するかとかぞえた。途中で忘れてしまった。潮がひいたため、友達の盛田君といっしょに家の中を見ようとして下っていったら、家の戸は横になって、ちゃだんすがこわれていた。

いろいろな物がつぶされたり、こわれていた。物をそろえようとしたら、「潮がきた。」というので走ってまた中学校に上って見たら、ほんとうに潮がきた。

ぼくの家に潮が入っていったので、ぼくは「ちきしょう」と思った。かあさんたちも見に来ていた。ぼくの家には和章君の屋根がぶつかったりしていた。

また本家に行って、またきてというように見ている時、かあさんがぼくを呼んだので、ぼくはかあさんの所に行って、「かあさん、何したの」ときいたら、かあさんが「ものをまぶってろ」といった。ぼくは小学校の方でリヤカーにのってあるものをまぶっていた。

次から次へと物をはこんでくる。ぼくは、かあさんに「つぎに机をくばってきたんせ」と云ったら、かあさんが「もってくるひまがない」といったのでがっかりした。

こんどは、「つぎにもってくる。」と云ったので、ぼくは面白かった。机やいろいろのものを、かあさんや、とうさん、本家の人たちが持って来てくれた。

まぶっている途中、箱石先生がぼくに「ごはんをたべたか」ときいたので、ぼくは「たべていねえでば」と云ったら、「学校にいっておにぎりをもらってこい」といったので、ぼくは、跡浜の利幸君にまぶってもらって、利幸君の分は持って来て、ぼくの分は二年一組の教室でたべて、利幸君の分はもってきた。

家からくばるのはおわって、今度は本家に持って行くのだ。ぼくは先に本家でごはんをたべて、またまぶり番だ。くばるのもおわって、ぼくととうさんは家にかたずけに行った。

くさいようなにおいがした。いたばの中からとりやすい物はとった。夕方になったので、本家にきた。夕ごはんをたべ、ぼくはねながら津波のことを思いだした。次の日は、家の中のどろをさらって、いたばの外になげた。仕事はすすんで行くように見えるが、ほんとうはすすんでいかない。こういうことを何日も続けた。

他の人たちと家をなおすこともした。家をきりんと云う物で上げて、そこに石を入れたりして、すっかりくたびれたこともあった。支所に物をもらいにいったこともあった。

轟木小学校から米をいただいた時は、ほんとうにありがたかった。ぼくはこんな津波にあわなくてもよかったのに、津波にあってしまった。

ぼくは、チリと云えば、だいたい日本の反対側なのに、どうしてきたんだろうと思った。

織笠小学校五年 福士富子

みんなすやすやねむっている時です。おばあさんが、「かじだ」といって私たちをおこしました。やっぱり外がさわがしいようでした。私は急いで服をきていると、半しょうがなりました。おとうさんが、外へ出て見たら「つなみだ」とあわてて走ってきました。

おとうさんは、「かばんをしょって早くかまどへにげろ」といいました。

私たち四人は先にかまどへにげました。そのあと、おばあさんも来ました。家には、おとうさんや、おかあさんが残っています。

私は津波が来るって、ほんとだろうかと思って見ていると、自動車の音がしました。見るとふとんがいっぱいつんでありました。そのあとを、おかあさんたちが、走ってきました。高い所にのぼって見ていると、家がこわされたりながされたり、見ていられないようでした。

波がひいていく時は、いろいろな材木が家にぶつかって、ひどいのです。おかあさんは水が引いていく時家へいこうとしていきました。牛をつれてこなかったので、どうしているか心配していました。行こうとすると、だれかが、「つなみ」というのでいかれないのです。おとうさんは、水の中をいきました。

大きい波が二、三回きて、あとはちいさいのばかりでしたので、おかあさんといきました。私たちとおばあさんは、朝ごはんをかまどでたべました。たべたあと、かまどのおばあさんは、「本家の方にあぶねえけえ行くなよ」と云った。わたしは、一度でいいから家がどんなになっているか見たくなりましたので、山をまわって線路に行ったら、たくさんの人たちが、ひなんしていた。アサちゃんもいました。私は家へ行こうとすると、「つなみだ」と云ったので、ほんとうに来るのかと見ていたら、こなかった。

だれかのおどしだろうと思って、家へ行ってみたら、便所と、風呂場と、とり小屋がなくなっていました。私はびっくりしました。すると、お母さんは「まだまだびっくりするものがあるよ」と云ったら、子牛が死んでいた。ブタ小屋を見ても、ぶたはいなかった。にわとりだって、とり小屋が流されたのだから、一ぴきもいない。私は、悲しくなった。

親牛は線路の上にあがっていた。家の中にはいって見たら、あるかれないように、床板がとれていた。私の物も、どろくるまいになっていた。また「つなみがくるぞ」と云ったので、駅のホームに上ったら、水はすぐひいていった。

その晩は、かまどにとまった。ねていると、盛岡に行っている、くにちゃんが山田町は、ひどいとラジオやテレビをきいて、びっくりして、ジープでとんできたそうだ。

その晩は、ねむれませんでした。朝四時半頃おきて、家にかえったら、おとうさんは家にいました。あまり家の中のものは、なくなっておりませんでした。おとうさんは、「家が残ったのだからいいんだよ」といってきかせました。

二十五日の午後、東京のおじさんが、、二人来ました。家の中を見ておどろいていました。ひどいため一週間位お手伝をしてゆくそうです。だんだん家の中もかたずいた。どろのつかった洋服はほかのお母さんと私と二人で洗いました。家の中もかたづいたので、三十日にかえりました。二十八日に学校へいったら、月曜日から学校でしたが、セキリがでたので、学校は三日の日でした。東京のおじさんは、三十一日に帰り、家の中は、静まりかえりました。

じえいたいの人々もたいへんはたらいてくれました。ていぼうを作ったり、ごみをくばったりして、きれいにそうじしてくれました。

二日の日は、クスリをまいていきました。そして三日の日からは、みんなと一しょに勉強ができるようになりました。

織笠小学校六年 沼崎英

五月二十四日の朝早く、この三陸海岸をおそったにくらしい津波。

私達姉妹は、その日の宿題をすまして、あすのよういをして、ふとんに入いり、さかんにたのしい夢を見ていた。夜のあけないうちに、近所でだれかのさけぶ声がしきりに聞える。私は、そのさけんでいる声が、「火事だ―」とばかり聞えるので、どこか上か跡浜の方でも火事になったんだなあと思いながらしらないふりをしてねていた。

それでもしきりにさけぶ。「うるさいな―。」と思っていたら、となりにねていた母が、「津波だ。」といって、私をゆすりながらおこしてくれた。私はあわてておき、大きなふろしきに勉強道具をいれて、妹といっしょに外に出たら、海岸近くの人々が、いろいろなかっこうで、我さきにと中学校へにげて行く。そのかっこうのおもしろいことみんなに見せてあげたいくらいだった。

私も妹の手をとり、人ごみの中にまじって中学校へにげた。

二、三十分たったくらいにだれかが、「波だぞ。」といったので、いろいろな話をしていた。

私たちもいっせいに海の方を見た。黒くぬられたカキダルや船が波といっしょに流れてくる。まもなく、バリバリッという大きな音がしたかと思うと、こわれる家、流される家、流れてきた家の屋根がぶつかって来てまがる家。

自分の家がこわれていく。こわされると言って、ないている人が二、三人でてきた。波はさんざんあらしまわって、こわれた物をさらって、おきの方へ引き上げていく。こういうことが四、五回つづいた。

私達は、毎年三月三日になると、こうどうで校長先生から、ずっと前におこった津波のことをきかされていたが、まさかこんなにひどいとは、夢にも思ったことはなく、口にもだしたことがなかった。

その日から学校は休みになって、私達は、私達でできることならなんでもした。いま思うといくら仕事をしたか数えてもわからない。私の家では、ここまではいくらなんでも波もこないだろうと思って、ふとんだけ二階に上げて、中学校に上ったのが悪かったのだ。

波はろうじから二メートル近くも上がり、たたみはいやというほど波につつまれたので、しおをかぶったのですが、きれいにあらい、きれいにほしたので、どうにか使えるようになった。津波の去っていったあとのむざんなこと。家の中には、土がたくさん上がっていた。その土がきれいならともかく、どこのどこを通ってきたのかわからない黒々とした土がとてもにくらしく思った。板ははがれ、ゆかの下には、たきぎやげたがたくさんあった。タンスは波のためにうき上がり、波の方にころんだので中の物がぬれていた。タタミはさっきいったとおりだ。家の前に家のこわれたのや、便所の屋根、ゆか板、そして黒々とした土が、家の前に材木といっしょにならんでいた。

一番不便だったのは、なんといっても交通だった。道の上には、どこかのこわれた家の材木やカキダルが何かの行列のように長くならんでいる。

ところどころに流れて来た家が、「ここからは通しません。」というように、ちょこんとしている。しんせきの人が来て、家の中をきれいにしてくれたが、たくさんの水をかけたので、まだぬれている。

私の家では、十二、三けんの家の人と中学校に二日とまった。二、三日たつとじえいたいの人たちがたくさんきて、きたないところをきれいにしてくれた。道の上、家の前のきたないのも、トラックでなげてくれた。自えいたいのかつやくはすごいものだ。五、六日のうちに、きれいにしてくれた。また、食べ物もながしたので、近所の友達といっしょに役場へもらいに行った。食べ物だけでなく服や着物など、コンロなべなど数えきれないほど、いろいろなものをもらった。去年のいせわん台風にあった人たちもこんなにみじめなくらしをしたのだろうか‥‥‥。

また、赤りかんじゃというほどでもないが、ほきん者がでた。そのため、また休みがのびた。山田の中学校、高校の生徒たちもきて働いてくれた。

いまでは流されたり、こわされたりした家がたてられていく。私達、今年の六年生はこのチリじしん津波のために、見学旅行にいけなくなるのだと思うと、にくんでもにくみきれないほど津波がにくらしくてたまらない。去年の卒業生は、六年間の思い出は、何といっても見学旅行だと言っている。しかし、私達、六ケ年間の思い出は、なんと津波のことであるかもしれない。

いまは、去って行ってしまったが、にくらしいにくらしい津波だ。

(2) 昭和五十六年、体験談聞き書きから

大沢

(浜川目)十三地割 今は人工採苗場、チップ工場、造船所などがあるが当時(三十五年)はこれらの施設はなかった。しかし、水はこの辺までは上がってきたことになる。

(浜川目)十一地割 この県道重茂線までは水がきたが部落まではこなかった。この辺は少し高くなっている。この第二一貯水池には海水が入ったためコイやフナなどが死滅してしまった。丸太や発動機船が流れてきた。

向こうの第一貯水池には海水が入らなかったと思う。

(浜川目)十一地割 海岸でさわいでいる人の声で目を覚した。出てみたら海水が引いていて船が横になっていた。ひきかえって運べるフトンなどを近くの高いところに運び避難した。やがて海水がだんだん静かに寄せてきて町営住宅が全部玄関戸の半分以上まで浸ってしまった。やがてまた水が引いていった。家の中のものはほとんど水浸しになって使いものにならなかった。浜にあったノリ小屋と中の道具などみな流失してしまった。静かな波だったので流された家はなかった。

(浜川目)十一地割 若布の口開けで早くに浜に行ったが水が引いているのでおかしいと思った。特に地震もなかったがいづれ引き波があれば寄せ波があるはずであり、津波がくるにちがいないと思い隣り近所に知らせて歩きながら裏の高いところに避難した。

(下条)一〇地割 水が引いて船が砂に横たわっていた。やがて水位がだんだん上がってきた。私の家の石がきの下まできた。船に荷物を積んで波に乗ってここまできた人がいた。定置網は全部流されてしまった。寄せ波は静かだったが引き波は大変勢いのあるものだ。

大沢十地割 倉庫の戸を締めて逃げたが戸は壊され、中の物が全部流されてしまった。地面から一m四・五〇cmくらい水が上った。この辺は殆んど床上浸水であったが倒れた家はなかった。倉庫建築用の材料も全部流されたし積んでいた薪も全部流されてしまった。

大沢十地割 昭和八年以後石がきを組み高いここにきたがチリ地震津波は石がきの下まできた。向いの家は台所の流しの窓の上のところまで水が上がった。石がきの下まではさっぱ船やカキ養殖用のロープなどが流れてきた。

大沢十地割 その日、宮古沖でシラス漁をしてもどってきたが山田湾内に入ると船がものすごい勢いで動きだした。湾口では入る波と出る波が一緒になって渦を巻いていた。その境目に船が入ると横倒しになるので気が気でなかった。岸に無事着いたがシラスの処理ができなかったため全部海に捨ててしまった。

八年の津波では私の家では箸一本も残らなかった。

大沢十地割 私のところは床ぎりぎりのところまで水がきた。道路をへだてた向いは地盤が低くなっているので床上まで水が上がり、被害を受けた。浜にはいくつもの桟橋があったが水面が上がるに従って桟橋の板が水に押し上げられ、板のはがれる音がバリ、バリとものすごかった。

大沢九地割 近くに先生が泊っていたが「ヨダだ―」と叫んでみんなが避難したが先生は「ヨダ者が来た」と思って中から鍵をかけてしまった。私のところは玄関戸の真中辺まで水が入った跡があった。

大沢二地割 近くに堤防があって浜と出入りするため四mほどあいたところがあったがそこからものすごい勢いで水が入ってきた。入ってくる勢いと引いていく勢いで土がけづられ大きな穴ができ池のようになってしまった。

水は大沢川をどんどんのぼっていくのが見えた。

大沢一地割(袴田) 私の家の前のAさんの家は低いところにあったので軒下まで水が上った。私のところは少し高くなっているので庭先きまで水がきた。

大沢一地割(袴田) 私の家は道路より低かったので土間より一m以上水が上がった。

山田一地割(柳沢) この辺には七、八軒しか家がなかったがみんな流されたり壊れたりした。

私の家は二〇〇mも流され壊れた。この防空ごうの入口のすぐ下まで水がきた。

山田一地割(柳沢) 高台からもどってきたら屋根と柱だけがかろうじて残っているだけであった。便所の電球に流れてきたごみがくっついていたから二m近くの高さまで水がきたことになる。

町営住宅があったがこの住宅も屋根と柱だけが残っているだけであった。

いづれこの辺一帯は田んぼだったし低くかったので沢田の方まで水浸しになった。

朝市場に出かけるために早く起きたがせきに水が上ってきていた。不思議に思ったが地震もなかったので出かけたが途中で津波がくるといわれもどった。それから高台に避難した。近くのブロックの小屋もたちまちくずれてしまった。そして小屋の中のドラムカンなどが流れだした。

山田一地割 朝早く起きていたので水がくるのがわかった。私の家から百mもない田んぼまで水が押し寄せてきた。土手の所にそのころごみ捨て場があった。そのごみがみな水に浮いて流れてきた。すぐ近くまでさつぱ舟が流れてきた。あの電柱のあたりだ。

田植えしたすぐ後で苗は全滅であった。塩のかぶったドロを田んぼからとるのに苦労した。沢水を流し塩分をとり、田植えを二回した。

山田十三地割 この辺は海岸からかなりの距離にある。そのころは私の家は未だ建っていないが関口川を水がのぼって来てこの辺一帯の水田は水浸しになった。この松の木のところにどこかの家の屋根だけが流れてきていすわったと聞いている。

山田十地割 私の家の田んぼで水をかぶったのはこの田んぼだから鉄道は越えなかったがかなりのところまで水がきたことになる。何せ、この田んぼまで板きれやごみが流れてきたし、すぐ近くの田んぼまで屋根だけがそっくり流れてきた。いづれこの辺一帯の関口川をはさんで二、四と六、十三、十地割は広い範囲にわたって水浸しになった。

北浜町(山田)八番 この山ぎわに沿って道があり、道より川ぎわの方は低い土地で畑や田んぼであった。

浦辺製材をはじめこの辺の民家は全部床上浸水であった。浜から水が上ってくる前にイモ畑のあっち、こっちから水がブクブクと湧いてきた。私の家の前まで水が上ってきている。

北浜町(山田)三番 私の家はたたみの上六〇cmほど浸水し、たたみがあっち、こっちに動いていた。(チリ津波の場合は自然増水の形なので増水と共にたたみも浮き上がり、そのままもと通りになっていることの方が多い)

海岸に私の家の倉庫があり、漁具をはじめ米なども収納しておくのだが全部流されてしまった。それから海岸にあった大きな船が増水と共に浮いて動きだし寄せ波と引き波でこの辺の田んぼや住宅地を動き回り、そのぶっつかった勢いで壊れた家も何軒かあった。この船も岡にいすわった。

この通称釜谷洞地区は低地であるし、関口川が流れているなどの関係から山田では大きな被害を受けた。殆んどが床上浸水であり壊れた家、流された家、倉庫など大変なものであった。民家の屋根だけがかなり奥の田んぼまで流れていったことからもわかる。

北浜町(山田)一番 私の家は床上五〇cmぐらい道路向いの海岸端の家では階段の中位まで水が上がった。

家の二m近くもある大きな鉄釜が引き潮で一〇〇m近くほどももっていかれた。

中央町二番(山田) 道路向いの海岸端の家はほとんど床上浸水であったが道路よりこちら側は地盤が少し高くなっているので浸水しなかった。

中央町六番(山田) この辺からはまた地盤が低くなっているので道路のこっちの方まで水がきた。私のところは庭に入った程度であった。場所によっては床上浸水になっている。

中央町十三番(山田) 道路端の家で土間から一mほどの高さまで浸水している。

中央町十五、十六番 十五、十六番も床上浸水で、八幡町の四、六、八番の一部が床下浸水になっている。地盤が低いことと川を上ってきた水の勢いのためである。

中央町十一番(山田) 土間から二m近くの浸水で家の中の物は殆んど流され、浦の浜の方に漂流していた。また、網が隣の家の中を通りぬけて次の家に入っていた。

川向七番(山田) 床上浸水であった。渡辺製材所事務所で土間より三十cmほどの浸水で敷地内の材木が一時浮き上がった。道路を越えて線路ぎわまで浸水した。

八幡町九、十番(山田) 川向七番から道路をへだてた八幡町九、十番の道路端の家は床下浸水であった。川を上ってきた水の勢いによるものであった。線路ぎわまで浸水している。

川向八、九、十八番(山田) 駅、駅前広場は地盤が高くなっていて周辺は浸水しなかった。道路沿いでは田老建設のところの十字路まで水が来ている。田老建設は当時道路より地盤が低くかったため床上浸水している。

川向十九番(山田) 十九番の道路沿いでは川を上ってくる水が道路にあふれ、ここでは床上三十cmほどであった。一部線路を越えて田んぼ(境田の二二番)にも浸水した。

境田五、六、七、十二、十三番 鉄道に沿ってある道路端の家は床上、一部床下の浸水であった。国道側は土間から一m以上の浸水であり、十三番の現在細道に掘り井戸のあるところまで水がきている。

境田十六番 安西製材所の事務所は道路よりやや高かったので事務所の一部に浸水があった程度であった。国道では安西事務所と国道沿いにある昭和八年後につくられた防潮堤の端を結ぶ線のところまで浸水している。

境田十番 十番では旧防潮堤(昭和八年以降)のほぼ高さまで浸水している。

境田十五番 十五番の海岸端に長屋があったが軒下までの浸水であった。十五番は海岸がすぐ高くなっているので一部床上、一部床下で被害を全く受けないところも多かった。

織笠十三地割(細浦) 当時は今のように家も多くはなかったが、高台にある菊池泰治氏の屋敷の石だんの下のところまで浸水している。

織笠十二地割(細浦) この辺も当時は家が少なかったが鉄道線路の土手のところまでと山ぎわまでの広い地域にわたって浸水している。

織笠十一地割(跡浜) 国道があってすぐ山手があり高くなっている。その間に何軒か民家があった。

従って、静かに増水し、静かに減水したかたちであったので床上一m以上の浸水ではあったがタンスの上の金魚ばちもそのままであったし、たたみも汚れていなかった。

即ち、寄せ波も引き波も弱かった。織笠小学校に通じる坂の細道では、東商店のところで床上浸水でそれより坂の上の方では浸水はなく低地の田んぼが浸水した。

織笠三地割 織笠川をのぼってきた水は新田に行く道路の山際まできている。ここに流れてきたさつぱ舟やカキだな、たきぎ、家の壊れた破片、などがたまった。

織笠九地割ワカメの口あけに行っていて異常な引きに気潮に気づき、津波になるのではないかと考えた。知らせようと思ったが地震もないし後で笑われたりしてもと思って知らせなかったがやっぱり津波だった。私の所は少し高くなっているが庭先の道路の所まで水が寄せてきた。

織笠十一地割(森) 野菜をつくっていて店に出しているので、この日も朝早く畑に行ってみたら畑に水の来た跡があっておかしいと思っていた。そのうちに津波だという声を聞いて二階に上ったがだんだん水が川の方から上がってきて、どんどん水かさを増してきたので屋根の上に上がった。水は軒下まできた。水に浮んで流れてくる家もあった。さつぱ舟も流れて来た。流れてきた家がぶつかって壊れる家もあった。全く生きた心地がしなかった。水が引いてから急いで裏の高台に逃げた。

二階から流れて来た舟に乗って逃げた人もいた。家の中のものは流れ出し、とにかくめちゃめちゃであった。たきぎをはじめ家の外においてあったもの、小屋も全部流されてしまった。

織笠十一地割(森) 目を覚ましたらフトンが水でぬれていた。それからとび上がって避難した。

織笠十一地割(森) そこに新しい家が建っているがそこは埋め立てして高くなったが前は田んぼであった。水はその田んぼまできた。

織笠十一地割 外でヒソヒソ何か話し声がするので目を覚まし、津波らしいということで急いで避難した。農協の建物が浮き上がって流れて来てすぐ近くにいすわった。家にもどってみたら畳から七〇cmぐらいのところまで水の上がった跡があった。畳は水に浮いたらしく上の方はぬれていなかったが畳を上げてみたら下の方はドロンコだらけであった。

農協の倉庫が五〇mくらい流され、たくさんの炭やまきも流された。流された家と家のぶつかる音がし、とにかく恐かった。

引き水で石がきがくずれたところもあった。鉄橋の下を舟が波に流されてのぼっていった。引き波のあと屋根だけがそのままそっくりのこっていた家もあった。

むかしの家は土台の石の上にのせたものだったので水に弱く、水かさが増すと浮いてしまった。

織笠十一地割(森) 気がつくのが遅かった。家の中に入って来た水はたちまち水位を増し、たたみに乗ったまま浮き上がってしまった。窓から逃げだし屋根に上がって助かった。もう少し気がつくのが遅ければ死んでいたと思う。

織笠十一地割(森) 結婚した次の年であった。「津波だ」と聞いてすぐ裏山に逃げた。家の軒下まで水に浸り、嫁入り道具も全部流されてしまった。

織笠十一地割(森) 「津波だ」の声ですぐ裏山に避難した。高台から見ていると水位がどんどん増し、浮き上がる家があり、浮き上って流される家あり、流れて来た家とぶつかって壊れる家あり、カキだるやカキだな、さつぱ船、板きれ、家具などが水に浮いて流れてきた。まるで山田湾の更に奥の湾のように広い範囲にわたって海面が広がった感じになってしまった。

自分の家がいつ浮き上がって流されるかと思って気が気でなかった。

織十笠一地割(森) 織笠中学校入口ののぼり坂の下のところまで水が来た。私の家は床ぎりぎりのところまで水が来た。

織笠十一地割(森) 私のところは大部高くなっているが、牛乳工場のところまで水が上ってきた。どこかの家がすぐ近くの畑に居すわった。

織笠一地割 ここは少し高くなっているが、すぐ下の田んぼまで水が上ってきた。

船越四地割 海岸からすぐ地盤が高くなっている。海岸ぎわの低地は完全に水をかぶってしまった。

船越八地割 船越湾から低地を浸水してきて山田湾にぬけている。また、山田湾からも浦の浜の低地からの浸水があり、一時両方の湾がつながった。浦の浜側では引き波のために堤防が決壊した。浦の浜の松林のかなり高いところに流れてきたゴミのくっついた跡があった。海蔵寺あたりは地盤が高くなっているので浸水しなかった。

船越十地割 地盤が道路からすぐ高くなっているがせきの低地を水が上って来た。一部床上、床下の浸水があった。海岸の低地にあった家は流された。

船越十一地割(早川) ここは道路の部分が少し高くなっていたのでこの道路のすぐ下のところまで水が来た。

船越十二地割(田ノ浜) ここは道路の下の海岸ばたに家があったが少し高くなっているので井戸のところまで水がきた。床下浸水ということになる。

船越十五地割(田ノ浜) ここ(田の浜公民館)は少し高くなっているがこの土手のすぐ下まで水がきている。下町というところだが田ノ浜ではここが一番被害が大きく殆んどが床上浸水で流された家、壊れた家もある。

船越十五地割(田ノ浜) 私の家は流されなかったが土間から一mぐらい上まで水が上がった跡があった。

船越十五地割(田ノ浜) さつぱ船が流れて来て私の家を壊わし通り過ぎて上の家のところに流れついていた。

土間から一mぐらいの所に水の入った跡があった。

船越十五地割(田ノ浜) 家にもどってみると戸ははずれ畳の上はドロだらけで押入の中、タンスの中も全部水に浸って使いものにならなかった。ひどいにおいだった。水に流され泳いでようやく助けられた人もいる。

船越十五地割(田ノ浜) 庭に積んでいたたきぎが全部流されさっぱ船が横たわっていた。とにかく家の中はドロが上がりめちゃめちゃであった。

船越十三地割 道路から山手に向って右側の十五地割は地盤が低くく、当時は田んぼも多かったが浸水面積が広かった。道路左側では佐賀氏宅屋敷内に浸水があった。田ノ浜タクシーあたりは地盤が高くなっていて浸水はなかった。

従って佐賀氏宅と田ノ浜タクシーを結ぶ線の十三地割で床上、一部床下の被害があった。

船越二十三地割(大浦) ワカメの口あけで浜に出たが桟橋のところの水面がいつもより高くなっていておかしいと思っていた。そのうちに水が引いていった。タライ島の普段見えない下の方まで見えたが下の方がかなり大きく広がっている大きな島であった。三回目の水は床すれすれのところまできた。桟橋のこわれる音が大きく、浮いて少し移動していた。

大浦(海上で) 朝、舟に乗っていたが舟が大島、小島の方に流されていった。寄せ波と引き波がぶつかって大きな音ををたて渦を巻いていた。

船越二十二地割(大浦) 軒下が海という状態の家だった。水がせきに上ってくるのに気がつき近くの高台に避難した。水がひけてもどってみると障子の上の方まで水の上がった跡があり、中の家財道具は一切流されていた。

船越二十二地割(大浦) 「津波だー」と聞いて二階に上がって窓から見ていたが干上がっていて沖の方に歩いていけるようだった。間もなく水位がどんどん上がってきて波打ぎわの道路を越えて家の中まで水が入って来た。下に下がって行って見たら階段の下段の方まで水が入っていて店の品物が水面に浮いていた。

船越二十地割(大浦) 「津波だー」と聞いて裏の高台に避難して見ていたが道路を越えて田んぼの方まで水がどんどん入っていった。

船越二十二地割(大浦) 水が引いたので避難場所から家にもどってみると私のところは土間の所まで水が入ってきた跡があった。

幸い床の上まではきていなかった。同じ位置でも石がきなど組んで少し高くなっているところは石がきのところで浸水がとまっている。

船越二十二地割(大浦) 私のところは少し地盤が低くなっており土間から一mほどのところに浸水の跡があった。

2、警報、避難

この日は、若布解禁の日で漁師たちは早朝より浜に出ていて引き潮の異常に気づいている。第一波は二時三十分ごろ、第二波は三時ごろ、そして第三波は四時二十五分過ぎ頃、海面が段々高くなってきて、見る間に護岸を突破した。この第三波は間もなく引きはじめ海岸より数百m位の沖合まで遠く干上がった。第三波は波高が最も高く、山田で三・一m、織笠で四・〇m、大沢で二・七mであった。この第三波も引き、第四波までは大きな波であったが第五波以後のものは比較的大きくはなかった。

浜にいた人たちは引き潮に気づき「津波だー」と叫けびながら大きな声で知らせ歩き、我が家にもどった。浜にいた消防団員はすぐ引き返して消防屯所の警鐘、サイレンを鳴らして大事を知らせた。魚市場のサイレンも鳴した。午前三時三〇分、警鐘、サイレン吹鳴によって他の消防団員も出動し、消防車等により広報活動を展開し、至急高台に避難するよう連呼するとともに三時四〇分から四時にかけて田ノ浜、大浦、織笠、山田、大沢の海岸地区住民を附近の高台、学校、公民館に誘導した。

殆んどの人達は漁師を中心とした隣り近所の掛け声で避難していた。一方、三時五〇分頃山田警察派出所に対して地区民から「津波のおそれがある」旨口頭で届け出があり、所員は具体的に事情を確め、三時五十五分頃町役場に連絡した。役場では、宮古測候所に問い合わせたが心配ないとのことであった。心配ない旨住民に伝えるため広報活動に入ったとたんに津波がやって来た。派出所員高橋警部補以下四名は未だ家庭に残留していた同地区住民約一〇〇人を山田小学校に誘導した。

一部海岸地区の消防団員は海岸に部署し津波の来襲、引き潮の見張りを行ない状況を逐一本部に連絡した。

(1) 消防団による警報警戒(救援)活動

当時第四分団班長 山屋光一(織笠)53歳

昭和三十五年五月二十四日、その日は天然若布口開きのために、漁夫達は午前二時半頃にはみんな起きていたと思います。空はどんよりと曇り、今にもポツリと落ちてきそうな空模様というよりも、上から押しつぶされそうな不気味な様相でした。一寸先も見えないとはこのような時でしょうか。当時、若布は天然物しか無く、全部天気乾燥仕上げでありましたので、誰もが「このあんべえだば止るべえなあ」と思うのです。

川口に繫いでいた大きな舟にたどりついて少々待って居りますと、組合の方で「止ったぞ」と誰か叫ぶ声がしました。「それ、みだんせ」(この時はもう舟出した人もありました)三時三十分頃家に帰るべく小舟で川を上る時、舟が速いのです。いつもの倍ぐらいの速さです。「天候が悪いために潮がくるっておりやんすなあ」などと話し合いながら家に戻りました。時化の場合このような現象はよくあることですし、誰もがあまり気に止める様子もありませんでした。働らくにも暗く、又床の中にもぐりました。四時前後だと思う。ウトウトした頃、隣の母さん(昆キノエ)が「兄さん(私のことを近所で兄さんと呼ぶ)なんだか潮のぐあいがおかしいから見でけだんせ」と呼んでいます。おやじが先にかけ出しました。今寝たばっかりなのにと思いながら出てみますと、水の高さは秋の高潮ぐらい(一米七、八十糎)だと思います。でも変です。流れがおかしい。隣の母さんと父と私の三人で「これは津波だごった」と云うことで自動車に母と子供達を乗せて「つなみだー」と叫びながら、またクラクションを鳴らしっ放しで小学校へ避難させました。

学校には未だ誰も見えません。道路に子供がポツポツいたように思います。私は一人飛ぶように家に帰り井戸を見ました(家で使用しているのは掘抜き井戸で、三十八米底から湧いています)。水が湧いていません。父は津波だと云って近所をかけ廻っていました(地震がしたら井戸を見ろ。川を見ろ。水がなければ津波が来る)と云われています)。津波に間違いない、と川を見ました。静かに水がひいています。私は消防団員でありますので屯所へ走りました。誰も居ません。「津波だあー」と叫びながら半鐘を乱打しました。この時五時五分頃でしょう。人々は家から飛び出て来ました。「山光さん何だべえ」と口々に云います。「津波だでば」「地震もねえのにどこから津波がくるのす」「見だんせ水がひいでいるがら」と云ううちにも潮は次第に速さを増してひいて行きます。私は火の見櫓から降りて橋へ様子を見にかけ戻りました。お年寄りの人から「どうでござんすべえ」と聞くと、「津波に間違いながべえな」と云うことなので、すぐに火の見櫓に戻りました。櫓から見た川口は滝へ水が流れ落ちるような感じで急に落ち込んで行きます。川から下る水がおそいのでしょうか、山田湾から水が無くなるのではないかと思う程です。織笠の波板崎から小島まで歩いて渡ることが出来るのではないかと思いました(ここは平常水深約十七八米位)(後で聞まきしたが、その朝私を起こした母さんは夢の中で亡き母親に「お前は寝ているどごでない早く起きろ」と云われ目が覚めたら飼猫が家中とびはねて戸口をかきたてるので起きたそうです)ポンプ自動車は警戒の為にサイレンの音もけたたましく出動して行きました。その時仮宿(大浦山の北側に落ち込んだ突出している崎、山田湾の南入口)が白く高く波の押し寄せるのが見えました。

それ来たぞ、私は二度目の半鐘を乱打しました。五時五十五分位と思います。津波の押し寄せる状態は崎々島々を白く包むように見えます。本当に来た。黒くと云うよりは濃紺の土堤が押して来るようです。私は必死に叫びました。半鐘を打つ木槌も壊れんばかりに叩きました。人々が走って行くのが火の見櫓の上から手に取るように見えます。橋の上の人々も元織笠役場の方へと逃げて行きます。女郞島が見えなくなりました。波板崎も白くなりました。さわさわと音がします。波頭は立ちません。水が底から湧き上りながら押して来るようです。速いです。物凄く速いです。駅前舟揚場の建物が流れて行きます。未だ潮は堤防を越えていません。橋の方から人が走って来ました。何かをかついでいます。其の時行手には水が来ています。まだ私は半鐘を叩いています。後で聞きましたが、この人は山岸へ流されて助かったそうです。まだ女の人が走っています。私は思わず頑張れと叫んでいました。舟が流れて来ました。堤防を水が越え、舟も越えて民家に当り、家も壊れて流れ出しました。そちこちでバリバリゴウゴウと凄まじい音です。人が屋根に上るのが見えました。逃げおくれたのか、あぶない、大変だ、どうすることも出来ません。火の見櫓の元にも水が来ました。逃げようと思う気持は全く起きなかった。近くにいた人達が「危ない降りろ」と云っています。屋根の上で手を振り叫んでいるのを見ながら櫓を下りました。水の深さは膝位にあり、後も見ずに逃げましたが、百米位走った所で振り向いて見ると、火の見櫓は流され跡形も見えません。見ていた人達の話しでは私が三十米位走った頃流されたそうです。助かったと云う感じもありませんでした。夢中でしたから。そのまま小学校に向って走りました。学校下で先刻の女の人に出逢いました「良かったね」と声をかけた時安堵したのか、がっくりと力が抜けて行くような気がしました。学校に沢山の人が避難していて「どうでござんす」と聞いていました。今浪の高さは三米位いか、今迄は単独行動でした。後は消防団指揮下に入りました。

〔小学校から見た状態〕

先ず自分の家が残っているのが目に入りました。だが一週間前建てたばかりの車庫がそっくり流れています。水が引きはじめたので家に帰ってみると云う人が出はじめました。消防団員は必死になって帰ってはいけないと叫んでいます。巡視派遣隊が組織され、私も選ばれました。六名で十分位で帰れとのことでした。津波の寄せた場所はもう歩くことは出来ません。家の残骸が一ぱいです。豚が歩いています。腹を膨らませて死んでいるのもいます。目を覆う惨状です。吾々はさき程屋根の上に残った人達を救出しなければなりません。家は流れないので大丈夫でしょう。どうにか二人を救い出し、残骸をとび越え走り帰りました。潮は遠くまで引いています。跡浜の高台に居た団員が島と島との間を歩いて渡ることが出来ると云って連絡に来ました。又来たぞの声がします。今度は前より大きいようだと叫んでいます。今度は自分の家も流されてしまうと思うと、手が自然に目を覆い、体に力が無くなるのを感じました。成程、今度はたしかに大きい舟は駅前の道路を越えて流れて行きます。先に残った家も今度は壊れて流れます。「おらの家が流れていった」と泣いている人が居ります。時間はわかりませんが、前の水から一時間位いは経っているでしょうか。この波が一番大きかったと思います。私の家で三米七十位いでしょう。

〔警戒に就いて〕

どこから出たのか炊出しがありました。波も次第に少なくなり、夕方には五十糎程度となり、五分団の応援も来ました。警察の方々も来ています。元織笠役場を本部にしました。流失物の警戒体制が編成され、四分団二班、五分団も二班だと思います。家は残って家財道具は流されているのです。簞笥等はそのまま沖に流れました。川上の方の田んぼの中に残っているのもありました。畳はそのまま浮上り、又落着いた様な状態の所もありました。高台に親戚のない人達は小学校に宿泊し、約百名位は居たと思います。食事は役場からの炊出しをいただき、おむすびだけを食べていたようです。家庭には電気はつきません。消防団員は三昼夜位い警戒に着いたと思います。灯りは無く、決壊した堤防に火をたき交代で寝たり起きたりの状態でした。

私の家も中壊ですが、家に帰り復旧作業を手伝うことは出来ませんでした。父と妻と豊間根の親戚の人達で復旧させた事でしょう。地域内の復旧は御存知の通り豊間根の消防団及び自衛隊の皆様の御努力に依り早急に復旧成りました。小学校に避難された家族の人々は十日位いで家に帰ったようです。

当時第十分団長 千代川堅次(大沢)60歳

三十五年五月二十四日、午前四時、若布の口開けに出ようと、さっぱ舟を出しに川におりて行ったら、新開地の福士義夫さんが舟を曳いて川に入って来た。そして「若布どころではない、大変なことがおきるぞ、大きなよだがくる。いま弁天島まで漕いで行ったら急に海の水がなくなり、弁天島が大きな山になった。夢中で引返して漕いだら忽ち潮に追いつかれてここ迄流されて来た」と云った。話しているうちに引いていった潮はもくもくと護岸を越えてきた。大変だと思い家にとって返し「津波が来るかも知れねぞ」と家族の者を起し、「今すぐ貴重品と子供達のカバンを持って新開地の伯父の家に避難する様に一刻も早く、俺は家の事はかまっていられないから当にしないで行動する様に」といってはんてんをつかんでとび出した。農家生まれの家内と、小学校五年と四年、三歳になる末っ子のおびえた顔をふり向く余裕もなかった。それから今の公民館、当時の支所に走り、(福士三蔵)支所長を起して消防本部に電話したら、山田でも今から警戒体制に入るからそっちでもやる様にとの返事であった。それからすぐ分団の運転手(中釜忠良さん)に連絡をとり、自動車ポンプで団員の至急集合と津浪警戒警報を連呼して廻った。

分団本部を支所におき、川向、袴田と上條、中條と下條と三つに分けて分団員を配置して警戒体制に入った。支所も駐在所も高台にある為に、避難、見張りなど等、警察との協力体制であり、分団員の活動も渋滞する事はなかった。警戒警報は津波警報と変り、避難命令となり村は混乱した。老人、子供の避難、大きな荷物を持つ者、リヤカーに積む者、右往左往する人達の先頭に立って三十名の分団員は誘導と手助に声をからしながら敏捷に活躍した。海は二十間位沖まで凄い速さで潮が引き、おしてくる時は人間が走る位のゆるやかさで何度も満干を繰り返していた。潮の引き方が速いものだから、魚がとり残されてあっちにもこっちにも魚がパタパタしていた。それを籠や、よこだを持って拾いに出る度胸のよい人達を止めようと分団員は見張りと叱咜にかけまわらなければならなかった。そうしているうちに、ごう、ごう、ごうという音と共に潮が引き、無気味な程遠く迄海底がさらけ出された。村全体が息をのむ魔のときであった。

どれ位(二十分~三十分)の間があったろうか。引いていった潮は、のん、のん、のんと、湾口にもり上り押し寄せて来た。岩壁をのり越えて、発動機も、モーターも、さっぱ舟も、只々おし上げて来た。地震の前ぶれもなく、津波は一瞬にして村をおおい、支所前の石垣の所まで波はよせて来た。その時、村人全部の避難を終らせたと思っていたのに助けを呼ぶ声に驚かされた。みると支所前の民家の二階で女の人が助けを求めていた。が、とてもその時の状態では救助に向う事は出来なかった。必死に叫ぶ声に今行くからと元気づけて潮の引くのを待った。まもなく潮が引き始めたので行動開始、現場について二階にかけ上ったら、恐怖のあまりか、しがみついて救い出すのに非常に困難した。一刻もゆるされない状態に仕方なく強行手段でやっと脱出したと同時に第二波がおしよせて来た。第二波は第一波より大きいと思った。最初の波でさらっていった船や、ドラム缶、かき樽、流木、板片、などが村中に浮んだ。潮が引いてゆく時その大、小の浮遊物は川口に向って吸い寄せられる様に集まっていった。ドラム缶のぶつかり合う音。橋桁に船のぶつかってこわれる音、引潮の渦巻く轟は警戒の任にあたっている者達にも恐しさを感じさせた。それから段々と小さくはなったけれど、一日中潮の満干が繰り返された。

夜は避難して無人になった村を交替で仮眠をとりながら盗難防止などの警戒にあたった。翌日は山の様な惨害のとりかたずけ作業は消防団の仕事であった。豊間根消防団の応援を得て先づ道路に打ち上げられた船や、桟橋の残がいなどをかたずけて交通状態をもとにもどす事が先決問題であった。

翌々日は、田んぼやずっと陸まで打ち上げられている、使える船は海岸までおろし、使えなくなったものはかたずける作業など、又ガソリンスタンド(丸田屋)より、ガソリンの入っているドラム缶を探して欲しいと要請などがあり、班を編成してそれぞれの事に協力した。

三日目、一応の取りかたずけも終り、又本部からの通達もあって津波対策本部は解散した。その三日間、三十名の分団員は毎食にぎり飯を食べながらの活動であった。はんてんは着たままであり、自分の家を顧みる事は出来なかった。また村の大半が罹災者であるために、毎日の炊出しを引受けて下さった支所長夫人や、お寺の奥さん、駐在所(松本さん)の奥さん達の御苦労も並大抵のものではなかったと思う。第十分団の分団長として自分には重すぎる程の任を終えて我が家の前に立った時、鯨油と泥に汚れ、がらんとした室内をみた時ほど、消防士という任務のきびしさを感じた事はなかった。

消防士として二十四年、あのチリ地震津波は忘れ得ぬ思い出の一つである。

当時第九分団長 佐藤光作(山田)62歳

山田消防署から突然サイレンの警報が入った。私自身は丁度朝仕事に妻と一緒に出かけ、杉苗の移植作業中であった。先ず火事かと思って周囲を見回し、早く帰宅すると同時に津波の情報が入り、直ちに屯所に急行し、分団員の把握に努め現場に急行して本部の指揮下に入り、配備される瞬間、二番波襲来に出合うと同時に町民の避難を手伝い、危険箇所を防備いたしました。

その時、初めて地震のない津波の意勢さを目認し、恐れたら各救援分団一体となり活動いたし、特に人命救助を重点に活動いたしました。又、二番波浸水跡地を逃れ、魚市場附近の商品の徘徊物を守った。水は、南山田駅前約三十米前方まで押寄せて来た。

その後、三番波からかなり波も静かにおさまり、北は鉄道線路で止まり、午前九時頃、津波警報解除発令に成り、後、消防本部は更に被害地の救援に配備をして活動する。

北浜「釜谷洞」地区及び駅前の食糧公団倉庫の浸水地のかた付作業、又、下谷地附近の小舟並びにドラム缶のかた付けかた、沢田前の流失物品のかた付、一方、道路の破損箇所の復旧を行ない、連続約四日間救援、分団第五、九、十二、十一、十三各分団が続行いたしました。

最後に各分団の夫々活動した所見講評が出た。

私は今回の津波の救援活動をどう考えるか先づ地元分団は大部分被害分団であるし、此の様な有事の際に何んと申しても他分団の協力が必要である。また、車輛の通行が困難では手遅れに成り勝ちであるので、今後災害事に対し迂回路を海岸から離して安全地帯にほしい。また、大巾道路が必要であることを主張し、今後とも津波に対して完璧を期していらなければならない。今回は犠牲者がなかったのが幸いであった。

本団及び各分団長と対策の仕方について今尚語り続けている次第であります。

(2) 気象台の津波情報

仙台管区気象台の津波予報が二十四日の午前五時二〇分「二十三日午前四時ごろチリ中部海岸におきた地震により日本の太平洋沿岸では弱い津波があります。なお、北海道および三陸沿岸では津波の勢力が集る関係で、相当な津波になるおそれがあります」の津波情報第一報をだしている。

しかし、この時はすでに現地においては三回目の津波が来襲しており、大騒ぎをしている状態であった。

いずれ、この日は若布の開禁の日で、漁師達が早朝より浜に出、異状な引潮に気づき、はやく情報を流したことが一人の犠牲者も出さずに済んだのである。

津波情報

気象庁においてチリ地震津波情報として24日以後に発表した津波情報は、次のとおりである。

津波情報第1報

昭和三十五年五月二十四日午前五時二十分気象庁観測部発表

23日午前4時ごろチリ中部海岸におきた地震により、日本の太平洋沿岸では弱い津波があります。なお、北海道および三陸沿岸では津波の勢力が集る関係で、相当な津波になるおそれがあります。

津波情報第2報

昭和三十五年五月二十四日午前七時〇〇分気象庁観測部発表

南米チリ付近の地震による津波は、目下日本の太平洋沿岸の各地に来襲中でありますが、この津波は、なお数時間つづくものと思われますので警戒して下さい。

津波情報第3報

昭和三十五年五月二十四日午前九時十五分気象庁観測部発表

昨23日午前4時ごろ、南米チリ中部の海岸におきた地震により、日本の太平洋沿岸に津波が襲来しておりますが、今後の見通しは、なお、多少の消長を繰り返えしながら、本日夕刻ごろまで継続する見込みであります。

津波情報第4報

昭和三十五年五月二十四日午後二時〇〇分気象庁観測部発表

今朝から始まっている津波は多少の消長を繰り返えしながら次第に減少していますが、まだ、相当勢力が残っておりますので、今日午後の満潮時には充分注意されますようお願いします。なお、今夕の満潮時は北海道、三陸海岸では午後3時半前後、東海道沿岸では午後4時から5時半頃、南海道から九州では午後6時前後になります。

津波情報第5報

昭和三十五年五月二十四日午後十一時五十五分気象庁観測部発表

チリ沖の大地震による津波は、その後次第におとろえており、九州、瀬戸内海沿岸では津波警報はすべて解除されましたが、四国から北海道に至る太平洋岸ではところにより、なお、一ないし二mの津波があり、引続き警報発令中です。

津波情報第6報

昭和三十五年五月二十五日午前三時三〇分気象庁観測部発表

チリにおきた地震により、24日未明から日本各地に襲来した津波は、三陸沖を除き最早危険状態を脱したと思われます。

なお、今後も海水の異常は続きますから注意して下さい。

津波情報第7報

昭和三十五年五月二十五日午後三時〇〇分気象庁観測部発表

きょう午前8時20分ごろ南アメリカチリ国に地震があった由報道されていますが、この地震の日本における記録にもとずき地震の規模をはかりますと、6程度でありますので、日本まで襲来するような津波は起らないと思われますす。流言にまどわされぬようにして下さい。

津波情報第8報

昭和三十五年五月二十六日午前十時四十分気象庁観測部発表

25日午後5時30分チリでまたかなりの地震がありました。これにより、あるいは海面異状があるかもしれませんが、前ほどのことはないものと思われます。もしあるとすれば、日本にくるのは、午後3時頃と推定されます。なお、ハワイからの報告によれば、東部太平洋上の島々では、すでに海面異状を観測しておりますが、いずれもわずかなものであります。すなわち、バルボアで15cm、ラホヤ変化なし、クリスマス島5cmありまして、ハワイのホノルルでは、津波到着予定の8時頃までには何も異状を観測しておりません。ただし、気象庁では目下引きつづき監視をしており、さらに情報入手次第逐次お知らせしますから、今後の情報に注意して下さい。

津波情報9報

昭和三十五年五月二十六日午後〇時四十分気象庁観測部発表

その後、ハワイからの入電によれば、現在のところ異常はなく、ハワイ島の津波警報は10時28分に解除された由です。

日本においても、同じく異常を認めず、目下のところ心配ない見込です。しかし、気象庁では海面の監視など、万全の注意を払っておりますから、今後の気象庁の津波情報発表に注意して下さい。

津波情報第10報

昭和三十五年五月二十六日午後三時〇〇分気象庁観測部発表

昨夕5時30分ころのチリ地震による津波の影響は、今後ないものと推定されます。なお、午後2時現在、近海の海面は、24日の大津波の余波が引続き残っており、この状態はしだいに衰えながら、なお数日続くものと思われます。したがって、ここ数日間は海岸での作業や潮干狩はなるべく避けた方がよいと思われます。

〔津波の名称の発表〕

昭和三十五年五月二十五日午後三時三十分気象庁観測部発表

24日未明から日本沿岸に襲来した津波を、チリ地震津波、と呼ぶことにします。

〔地震の規模6の解説〕

昭和三十五年五月二十五日午後三時四十五分気象庁観測部発表

本日午後3時発表の津波情報で使いました地震の規模6とは、大体大正12年9月1日の関東大地震の一〇〇分の一程度で、この規模の地震が日本近海に起きたとしましても津波の発生がないほどのものであります。

「三陸津波誌」

(九) チリ地震津波による被害

1、被害原因及び被害の概況

第一回目の来襲が二十四日の三時ごろ、第二回目が三時三〇分ごろ、第三回目が四時三〇分ごろ、以後四、五と続き、朝方になって落ちついた。地震がなく不意に来襲したので住民は半信半疑のうちにかなり混乱したが、知らせがはやかったため人命には異状がなく全員避難することができた。それと人員に損傷がなかったのは一、二回目に来襲した津波が海岸沿いでわずかに道路に浸水した程度であり、第三回目の津波が来るまで時間があったためである。

家屋の流失、その他の破壊は第三回目及び第四回目に来襲した津波によるものであって、基礎工事の薄弱な建物の流失及び船舶、その他障害物の激突時によって住宅が破壊されている。

本町における波高の最高は織笠で四m、山田で三・一m、大沢で二・七mであった。

特に山田町釜谷洞地区、織笠地区の被害が大きくその惨状は目を覆うものがあった。

2、山田町の被害状況

一夜明けて‥‥

家は壊され、倒され、流され、浸水し、道路は丸太や板きれ、カキだる、漁具、空き箱、ドラムカン、家具の壊われたもの、戸板、窓枠、たき木、畳ごみなどで埋まり、さっぱ舟があっち、こっちに横たわり、道路や護岸は決壊し、電柱が倒れ、家の中はドロで汚れ、タンス、押入れは水浸しになり、中のものは汚れて使いものにならず、工場のモーターは壊れ、商店の品物は売り物にならず、全く手の施こしようのない惨状であった。

水道も止まり、電話は通せず、路は通れず列車も不通となり、夜になって電灯もつかず、山田町は特に織笠は一時完全な陸の孤島と化してしまった。

田んぼも広い範囲にわたって塩水に浸り、ドロで覆われ、板きれやごみでいっぱいになり舟まで横たわっていた。田植えした後の田もだめになってしまい、植えなおさなければならない始末である。新聞も屈かず、停電、水浸しでラジオも作動せずまわりの情報も一時は全然わからなくなってしまった。

家屋の被害の最も大きかったのは関口川河口の釜谷洞地区、織笠川河口の森地区であった。なお各地区の養殖施設は全滅であった。

3、津波被害状況(大沢の場合)

(一) 被害の概況並びに応急措置

一 人及住宅船舶の被害

イ、人
死傷なし
罹災者世帯数 二一一世帯
罹災者数 一一七〇人

ロ、住宅関係

家屋

○流失 二戸 鈴木新八郞 中釜聖二

○全壊 一戸 平野英一

○半壊 八戸 岡田吉次 千代川富二 大川国治 阿部伊勢松 大町信夫 大川軍治 高木久五郞 千代川貞治

○床上浸水 住家 一七五戸 非住家 七一戸

○床下浸水 二〇戸

ハ、道路損壊 一ケ所

ニ、板塀倒壊 一ケ所

ホ、防波提決壊 一ケ所

へ、船舶の損壊

○沈没船 一〇隻 小漁舟 流失 七隻 破損 二三隻

(二) 産業上の被害

イ、水産業上の被害

別紙の通り

大沢漁業協同組合

組合長 鈴木甚左エ門

参事 佐々木清助

理事 箱石常弥 大川寛一郞 阿部倉之助 阿部春松 佐々木勝太郞

監事 佐々木周吉 千代川弘

一、大沢牡蛎養殖組合

組合長 鈴木専一

副組合長 箱石熊治

会計 佐藤三夫

二、大沢海苔組合

組合長 大川忠三郞

副組合長 道又盛

会計 中村武夫

三、大沢漁船団

団長 福士福松

副団長 中村武夫

会計 鈴木松三

大沢漁協

大沢漁協の被害の表
種別 被害区分 被害総額 流失 大破 中破 小破
数(件) 金額(千円) 数(件) 金額(千円) 数(件) 金額(千円) 数(件) 金額(千円) 数(件) 金額(千円)
共同施設 五四 四〇〇 三〇〇         一〇〇
非共同施設 桟橋 八四 八、四一〇 八四 八、四一〇            
漁具倉庫 四七 三、一〇〇 一二 七〇九 一三 一、三〇五 一七 八九〇 一九六
かき処理場 五一 一、〇五三 一三五 二二 七三四 一二 一三六 一〇 四八
のり製造場 七〇 五〇     二〇    
水産加工場 一一 一、一七〇   八九〇 二三〇 五〇
一九五 一三、八〇三 一〇四 九、三〇四 四一 二、九二九 三四 一、二七六 一八 二九四
漁船 動力船 〇トン~二トン 四二 二、七九七 一、〇三三 七、七六二 一七 三〇〇 一二 一〇五
二~五 一四五         一三〇 一五
五~二〇 一四〇         六〇 八〇
二〇トン~一〇〇トン 三〇〇             三〇〇
一〇〇以上                    
五〇 三、三八二 九九九 一、四〇二 二一 四九〇 一六 五〇〇
無動力船 〇トン~二トン 七〇 七三〇 二二 四四七 一二 一三四 二〇 一一五 一六 三四
二~五                    
五以上                    
七〇 七三〇 二二 四四七 一二 一三四 二〇 一一五 一六 三四
定置漁業 二〇、五一〇 二〇、五一〇            
小型定置漁業 四、八九〇 四、八九〇            
その他の漁具 一二一 五、三一四 一二一 五、三一四            
その他の船具 二四 六〇四 二四 六〇四            
養殖施設 のり 二八 四、二七二 二八 四、二七二            
かき 三五七 一四、一〇二 二四七 一〇、八六八 六九 二、四二九 三〇 六六〇 一一 一四五
水産加工施設 一三 一、三六七 一三 一、一三六七            
その他 一四 六五七 一四 六五七            
  七〇、〇四〇   五九、五三二   六、八九四   二、五四一   一、〇七三
生産被害 のり                    
かき 一八五、二四六kg 一九、六三六 一八、二四六 一九、六三六            
その他 四七五 四七五            
  二〇、一一一   二〇一一一            
合計   九〇、一五一   七九、六四三   六、八九四   二、五四一   一、〇七三

災害等による徴収猶予申請書

宮古税務署長殿 申請者 職業 捕鯨 岩手県下閉伊郡山田町大沢
電話 山田一五三番 日東捕鯨株式会社取締役社長柳原勝紀
災害をうけた月日 昭和三五年五月二四日 災害の種別 津波
災害の状況(住宅等の被害程度、全倒壊、流失、半壊、棄損、床上浸水、床下浸水)
災害財産の区分 (1)災害直前に有した価格の合計額 損害額の合計額 保険等に於ける補塡額 (2)差引損害額 損害率(2)/(1)%
住宅 一五九、五九九千円 山田事業所 四一、一〇五千円 二五、七五
家財 三二、八七三千円
商品原料品・ 霧多布事業所
営業用材・ 八、二三二千円
営業用品・等 計四一、一〇五千円

国税徴収の猶予申請

昭和三五年五月三一日

納税すべき税額 申請税額
税目   納期 税額 税額 期限
法人税 三四 昭三五、五、三一 三〇九、四四〇 三〇九、四四〇 昭三五、五、三一

5月24日津波被害状況報告書

A山田関係

(1)概要

五月二四日午前三時半頃より潮の様子がおかしく、四時すぎ弊社当直警備員の警告により避難態勢に入るべく準備を始めた所、四時二五分すぎ頃自然増水の形で海面上昇見るまに護岸突破、場内最高一・三m(満潮面では約二・五m)に及ぶ冠水、場内は瞬時にして、ドラム缶及其他流失物の洪水となり水勢は塀を破り工場外の山手よりの田畑を海と化した。

此の津波は間もなく引き、弊社桟橋の先端附近迄海底露出引き続き第二波来襲、第二波は最大にして、約一・五m冠水、続き第三波一・二mと約三〇~四〇分の間に三回にわたり猛威を振った。地震海鳴り等通常津波の前触れとも云う可き現象も感知も出来ず、津波と云うよりは高潮とでも云うか増水と云うか、それだけに不意を衝かれた形であった。

其の後も潮の間断なき満干が続いていたが護岸線すれすれで突破は前三回のみであった。

(2)被害状況

今回の津波は右記の如く自然増水の如く来襲且前触れもなく警報から来襲迄殆んど一〇数分であったため、避難も所謂着のみ着のままと云う様な次第で、機械設備の着水、製品、仕掛品、資材の流失、冠水等、全般にわたり被害状況は大要次の如くであった。

イ、建物

工場、倉庫、事務所、社宅等場内建物は悉く一・二mから・一五mの浸水にて扉戸の流失、外板大破等あり畳は全部冠水使用不能となった。

ロ、機械工具

機械の流失はないが部品工具等一部流失あり全般に冠水しおる為、モーター類の修理を要し、脳油、骨油缶等は基礎倒壊の為の据付替を要した。

ハ、製品、什器、備品

冠水、流失あり。

ニ、資材

空ドラム缶、トロ箱は殆んど全部、場外、山手及び海に流失した。その他現場の器材等も流失あり、残存せるものも冠水等により廃棄又は手入をせねばならない。段ボールその他包装資材類も半数冠水使用不能となった。

(3)被害額

山田関係被害額の表
区分 名称 摘要 金額  
製品 鯨油、塩蔵品、鯨肉品、缶詰 一七、八八〇、五九二 鮮肉二、五五〇、〇〇〇円
一K一〇〇円
建物 工場住宅事務所等 一、七二九、五〇〇  
構築物 塀、桟橋、護岸、水道、その他 四、二〇〇、〇〇〇 塀一、四四〇、〇〇〇
桟橋一、〇〇〇、〇〇〇
護岸八〇〇、〇〇〇
機械 コンプレッサー、バーナー、モーター類海水ポンプ、真空包装機等 一、三七〇、九三〇  
資材 段ボール、ドラム缶、ロープ其他 三、八二五、四一〇 ドラム二、〇〇〇本
生箱三、〇〇〇箱
什器備品 炊事関係、事務消耗品 一三八、四〇〇  
復旧費   三、七八八、七五〇  
    三二、八七三、五八二  

B霧多布事業場関係

被害額

霧多布事業場関係被害額の表
区分 名称 摘要 金額
建物 工場等 四六〇、〇〇〇
製品 鯨肉、鯨油、塩蔵品、缶詰、さらし 五、九八〇、〇〇〇
資材 ドラム缶、缶詰、空缶 四二〇、〇〇〇
機械 モータープレスギィラー 五七五、〇〇〇
復旧費   七九七、〇〇〇
    八、二三二、〇〇〇

ロ、農業上の被害

田の冠水 一三町六反五畝

畑冠水 四町

農業救援状況

一、救援苗 一八、三七四把

二、種子もみ 八俵 半額助成金

三、同大豆 四俵 同右

四、同小豆 一斗 同右

被害によって

二年間荒地として放置した水田は川向日東捕鯨前の水田にして当時津波によって、日東捕鯨の重油ドラム缶及タール缶、鯨油等多量の冠水油のため作付不能にして捨て水田、捨て畑となる。

しかし当年は未曽有の豊作にして他の水田、畑は増収あり、三六年度も豊作なりしがそれ以上の収穫を得たのは不幸中の幸であった。

(三)学校の被害

中学校は校庭の土堤迄襲来約五寸位上位になれば全校庭に浸水の危機に至った。しかし、土管より浸水校長住宅の床下約五寸位に至る。鯉の沼は全面浸水、西側道路の襲来波は校舎西非常口の処迄至り、日東捕鯨のドラム缶はそこ迄流れ来る。校庭の前の田圃はドラム缶及鯨肉流失山をなし重油、鯨油は田圃及道路を全面被う。

罹災生徒数

中学校

半壊三人

床上浸水六三人

床下浸水二〇

小学校

半壊一一人

床上浸水一五六人

床下浸水一九人

(四)交通通信機関の被害

電話線は不通、電灯線や電柱は破壊され、数日連絡不通にして、ラジオも聞えず、陸のトラック、徒歩により、山田との連絡あるのみであった。

救護応援

一、政府、県の救援活動

早速、盛岡自衛隊、工兵隊、トラックの応援あり、決壊堤防及道路の応急修理に来る約一ケ中隊活動の目覚ましいものがあり住民に感謝される。

二、国会県会の災害善後措置一億四千万円工事

防浪堤及港湾構築の計画等の計画があり翌年よりその工事に着手し着々進捗しつつあり管原建設の工事担当なり、見舞品、慰問品、救援物資次々と間断なく続けられた。

三、医療救護

町役場に於ては防疫のため夫々予防薬散布下水道路各家庭内にも至る。

四、内外各地並に各種団体の救援

各新聞社を通じ日赤岩手支部、各町村長会、全国町村長会、各漁業組合。

大沢中学校救援物資

大沢中学校救援物資の表
救援者名 金品 備考
岩手県教員組合 一四、一〇〇円 床上浸水 一人 三〇〇円 三〇〇×六三人
全半壊 一人 五〇〇円 五〇〇×三人
全国校長会一回 四〇、二〇〇円 同 一人 六〇〇円 六〇〇×六三
同 一人 八〇〇円 八〇〇×三
全国校長会二回 七、六三八円 同 一人 一一四円 一一四×六三
同 一人 一五二円 一五二×三
岩手県PTA連合会 二、七九〇円 同 一人 四〇円 四〇×六三
同 一人 九〇円 九〇×三
合計 六四、七二八円  
岩手県教員組合 ノート 四五五冊  
町役場経由 定規 六六組  
十二神自衛隊 ノート 一〇〇冊  
町役場経由 ノート、鉛筆、梱包 三ケ  
尾半商店 ズック靴 一〇〇足  
鉛筆 二グロス  
町役場経由 古着類 大梱包三ケ  
ユニセフ ズック 六六足  
ノート 一八〇冊  
ランニングシャツ 一  
ミルク 三一五kg  
東京都荒川区荒川中生徒会 下着類 二四点  
地教委経由 上着類スカート 三九点  
革靴 二足  
ノート 六冊  
鉛筆 一六ダース  
三角定規その他一 一点  
町役場経由 白米 一俵  

(五)復旧事業

(1)復旧計画

イ、海岸の護岸防浪提の復旧修築に着手と共に漁業協同組合の津波対策計画第一期工事として新たに大沢全海岸の護岸を堅固にする為東は沖の洞鈴木宇之助氏宅前岸より西は魚賀波間神社迄沖前方三六m(海岸線)延長は八四〇米の埋立その間を更に防浪堤を築き約一億五千万円の予算にて三六年二月より工事に着手せり
この工事責任者は管原建設であり
当時の漁業協同組合長は鈴木甚左エ門氏なり

ロ、各住家製造場事業所の復旧状況
国庫、及県補助金及各金融関係団体の後援の本にて漸次復旧の槌音高き従前より文化的住宅と事業所の建設は逞しいもので禍を転じて福となす気運が向いているのは喜ばしい事である。

(2)功労者表彰

大沢消防団分団長千代川堅次氏は津波襲来を知るや全村に速報避難の伝達に当り、団員を督励し住民の適切なる避難と援護に当り人命の安全を身を以て率先しその活動顕著であった尚直後の復旧と整理に当り、その功は永く後世に伝えるべきものがあった為に当時の県知事、町長より以下の表彰を受ける

功績証

山田町消防団

分団長 千代川堅次

昭和三五年五月二四日のチリ地震津波の際災害の予防警戒に特別の功績があり他の模範である。よって岩手県消防表彰実施要項第五により功績章を贈りその名誉を表彰する。

昭和三五年八月九日

岩手県知事 阿部千一 印

感謝状

山田消防団第十分団

(全文省略)

昭和三五年八月二五日

山田町長 佐藤善一 印

4、新聞に見る被害状況報道

当時新聞から被害状況の報道を拾ってみた

海面一杯に家具、家財山田町山越えでようやく連絡

山田町は陸路の連絡と通信もたえて孤立状態だったが、山越えの旧道を通ってようやく連絡がつき、宮古市から五十キロの山道を苦心して、救援物資を運んでいる。ほとんど全域が津波の被害をうけ、湾内は海岸から沖合まで約五十キロにわたって、家具や家財が海面一ぱいにただよい、二十五日朝からこれを拾う町民の小舟がむらがっている。

○‥日東捕鯨会社では製品の九割、生肉の五割を失い残ったものは水びたしで、売物にならないと悲鳴をあげている。また鯨油のドラムカン約九百本が、湾内と町中に散らばっている。同会社の施設の復旧には十日以上もかかり、折柄ミンク一頭を射とめて二十四日入港予定の第二正邦丸(三八〇トン)が、やむなく船上で処理した。

○‥被害のひどいのは大沢、釜谷洞、織笠、船越などで部落は町営住宅十むねがふきぬけ、国道上に漁船がのり上げ、商店、漁家、倉庫などまでたたきつぶされたような惨状だ。

○‥昭和八年の津波でも大被害をうけたが、その後もっともひどかった個所につくった防波堤が、逆に潮のひくのを妨げて水たまりをつくったため、町の人たちは屋上で四時間余も恐怖の時を過ごした。

(毎日新聞 三十五、五、二十六)

三陸カキは絶望 養殖場が“全滅”やり直しも手遅れか

チリ地震津波で沿岸漁業は壊滅的な被害を受けたが、とくに種付けを終ったばかりだった養殖カキが全滅、県漁政課では広島県に種カキを手配するなど手を打っているが、すでに種付けの時期が過ぎており今冬の採取には間に合わず平年作で一億七、八千万円に上る三陸カキのことしの生産は絶望となった。

県下にカキイカダは約四千七百台あったがこのうち約四千台が流失、大破しており残った七百台も種カキは全部流された。イカダを新造するには二十日間以上もかかり、また種カキを仕入れてもすでに時期が相当に遅れているのでこれからの順調な成育は望めず、明年秋でなければ採取できるまでにならない。今冬は同様の被害を受けた宮城県も含めて地元産のカキは食ぜんから姿を消すことになった。

しかしカキ養殖者約千五百人としてはカキ養殖で生活をたてているだけにたとえ成育が悪くとも今冬の採取をめざしイカダをつくり直したいという希望があり、県漁政課では例年種カキを仕入れている宮城県も同様被害を受けているので、広島県に問い合わせたところ種カキは十分あるが値段は一連約百円(宮城県ものは普通約七十円)で非常に割り高。このためすぐ種付けをやり直せる人は三分の一もないのではないかとみている。

二百四十八戸を建設県で被災地に応急仮設住宅

県はチリ地震津波により災害救助法を発動した四市二町に応急仮設住宅二百四十八戸を建築することになり、二十六日戸数を割り当てた。面積は一六、五平方メートル(一平方メートル二万円)県有財産として二年間貸したあと市町村に譲る。

△大船渡市百八戸△陸前高田市四十四戸△下閉伊郡山田町三十九戸△宮古市二十九戸△上閉伊郡大槌町二十四戸△釜石市四戸。

「ワクにとらわれず融資」片岡中金公庫理事

津波被害地の中小企業者への復旧融資のため中小企業金融公庫理事片岡亮一氏は同仙台支店長布施健一氏とともに二十七日朝盛岡を訪れて記者会見、青森、岩手、宮城の三県で約二十億円の融資を見込んでいると次のように語った。

(1)商工業界の被害額や復旧資金需要額が未判明だが融資資金はこのさいワクにとらわれず実情に即し弾力的に取り扱う。青森、岩手、宮城三県で二十億予定、各支店、代理店で申し込みを受け付ける。

(2)すでに第一・四半期(四、五、六月)は貸し付けずみと思うが残している場合は災害復旧融資に振り向ける。また第二・四半期分の繰り上げ融資を大蔵省と折衝する。

(3)被災者には元利金償還貸し付け期間を延長する。なお災害救助法適用地区の貸し付け金は年利六分五厘(一般貸し付けは九分三厘)に引き下げられる可能性がある。

特別措置法制定を災害対策費で副知事が陳情に

チリ地震津波の県被害は二十六日夜第一次集計の結果総額八十二億三千三百二十六万余円に達し小川副知事は同夜次のような応急対策、恒久対策、財政措置の陳情書を携えて上京した。

応急対策 (1)災害対策費に対する国庫負担金を伊勢湾台風の例に準じて特別措置法を制定する。(2)復旧促進のための特別措置として△災害復旧用木材の特別払い下げ△農林漁業資金のワクを増額△被災者子弟に育英資金の応急貸与と給食費の補助などはかる。

恒久対策 △海岸保全事業の促進△農業共済制度の強化△津波防止施設△漁港修築事業の促進など。

財政措置 △交付税のくり上げ災害復旧費、応急費などを特別交付税の算定にくり入れてもらいたい△災害復旧のための起債措置を講じてもらいたい△税の減収、応急対策費に対する財源補てん。

復興計画に“対策本部”

なお県では二十七日小川副知事を本部長とする「三陸沿岸津波災害対策本部」を設けた。さる二十四日設けられた県災害救助隊本部は対策本部に吸収される。

対策本部は本庁の部局長、次長、関係機関の職員二―三人で構成し復興事業の総合企画、復興計画実施の促進を中心に進める。

被害額県第一次集計

△建て物二十六億一千九百四十四万円△土木九億一千三万円△耕地=農地二億一千七百七十万円△農業用施設二億三千八百八十万円△農作物二億二千四十九万円△林業二億四千三百二十四万円△畜産三百三十六万円△水産二十二億八百九十四万円△商鉱業十二億七千八百二十二万円△教育施設二千三百二十万円△公共施設二億六千七百七十三万円△公営企業二百八十万円。

県財政、またピンチに津波被害でたのみの綱は高率の補助

チリ地震津波被害で、せっかく立ち直った県財政もピンチを招きそうだ。

県はさる三十年財政再建計画適用を受け、本年度で計画終了するがさる三十二年から健全財政を堅持するため積みたてていた財政調整基金が現在まで三億二千万円になった。ところが津波で大きな被害を受けたため出費がふえた。災害復旧についてはまだ国の補助率が確定してないため、県の支出もハッキリしないが、場合によっては一億円くらいの支出はあるものとみている。

国の災害復旧費補助は六割五分だが、昨年の伊勢湾台風被害には公共施設災害復旧負担法ができ、特例により九割補助となったので、県はこんどの災害も当然適用してもらいたいと小川副知事が関係官庁に高率補助を陳情する。

高率補助がもらえなければ公共施設復旧には県の支出が多くなることは明らかで、県は特別交付税か起債をたよることになり、将来県財政にシワ寄せされると心配している。

いずれにしても県費支出はあるわけで、その分の財源が問題となり、場合によっては財政調整基金の一角をくずすことになるだろうと関係者はみている。なお津波被害によって財政再建計画の延長は絶対ないといっている。

(読売新聞 三十五・五・二十八)

復旧見通し立たず

山田線(磯鶏―豊間根)大船渡線(陸前高田―盛)

盛鉄局施設部の調べによると、津波による鉄道関係被害は復旧工事関係の直接費だけで約一億円にのぼった。復旧工事は山田線吉里吉里―大槌間と八戸線八戸―陸奥湊間が応急復旧したものの、山田線磯鶏―豊間根間と大船渡線陸前高田―盛間は二十四日午後六時現在復旧の見込みがたたず、ことに大船渡線は冠水している区間がかなりあるためめ、被害の詳細もわかっていない現状である。

山田線豊間根―磯鶏間の道床約二キロの流失復旧には日鉄釜石鉱業所から砂利二千立方メートルを緊急輸送する一方、盛岡、北上両保線区からも応援を繰り出し、現場には宿舎代用に客車を利用する。このほか盛岡市内などから一般請負業者の応援を求めるが、現地は一般民家もかなり被害を受けているため、復旧作業用の人夫が集められるかどうかを心配している。

盛鉄局管内の鉄道被害は全線不通または一部不通となった八戸、山田、大般渡、気仙沼の沿岸支線区のうち八戸線八戸―陸奥湊間が二十四日午後四時五十分開通、山田線吉里吉里―大槌間は同夜六時四十分開通した。八戸線は二十四日上りは鮫発午後五時十分の四三二列車、下りは尻内発同五時四十五分の四三一列車から開通。山田線吉里吉里―大槌間は二十五日一番列車から釜石―豊間根まで運転する。また全線不通の気仙沼線は二十五日中に開通の見込み。

家屋流失(山田町)、全壊八十戸、半壊五十戸、床上浸水八百戸、床下浸水二百戸。

(岩手日報 三十五・五・二十五)

水産関係にも大打撃

津波の被害と対策

本県沿岸を前ぶれなしに襲った“太平洋沿岸津波”は、係留中の漁船や、夏漁の最盛期を迎えて設置されていた定置網、種苗を下げ終わったばかりのカキだななどを破壊した。水産関係の被害総額は昨年一月のシケによる四億円をはるかに上回るとみられている。ことに養殖関係の被害が大きく、三―四割の大巾な減収が予想されており、沿岸漁民は重なる災害に悲嘆のドン底に突き落とされている。港湾施設などが十分であれば、被害を最少限に食い止められたという声も強いが、災害状況をみながら、こんごの対策について、県、県漁連、関係者の意見を求めてまとめた。

カキだな五百台失う

収穫前のワカメも痛手

採貝草=施設としてカキだな約五百台が流失破損したほか、ワカメ、アワビも相当流失した。ノリがほとんど収穫を終わっていることが養殖業者のせめてものなぐさめだが、カキだなの被害は最も悲惨だ。ちょうど種苗を垂下したばかりで、直径三センチ程度になったところを、一瞬にして失ってしまった。イカダ一台の施設費が種苗費も含め四万円といわれるが、収穫が一台平均三百五十キロで、五万八千円というから、漁民の悲嘆は大きい。その上、こんどの津波が全国的なので、やり直しの種苗も求められないとみられており、県漁連は決定的な被害になったと事態を重視している。

また、全国の半数を収穫する本県のワカメの被害も大きい。例年ならすでに全収穫の約半分を採っているが、ことしはシケと天候不順が災いして生長が悪く、まだ一割ぐらいしか採取されていなかった。ワカメはほとんど自然に岩礁に付着しているものを採取するので、はっきりした被害はつかめないが、年間一億九千トン、三億五千万円の収穫の大半が失われることにもなると心配されている。

このほか、津波による潮の急激な増減のため、アワビの流失も多い。本県のアワビは年間四億円と大きな水産収入源になっているが、四割ぐらいの減収が予想されており、早急な人工築磯対策が望まれている。

天災法で低利融資を

新船失った嘆きの漁民

漁船=漁船の被害は動力船約百隻、無動力船百数十隻だが一万二千隻の県内漁船総数からみるとごく一部に過ぎない。しかし、苦しい経営の中から建造に踏み切った漁民が多く、新船を失った漁民の嘆きは大きい。沿岸整備事業による補助をうけた者はまだしも、借金だけで建造した者はばく大な負債を背負い込むことになった。

ここ二、三年の造船ブームは漁民のフトコロが豊かになったものでなく、二十年も前の老朽船では遠洋漁業に使用できなくなり、補助、融資などでやっと新船に切り換えたばかりなので、借金を残して漁船の沈没、流失の憂き目をみた漁民は、全く窮地に陥った。また損傷船は今後の保険評価額が大巾に減るためこれも被害が大きい。

これら漁民は天災法による低利融資に望みを託すほかはないと県漁連はみている。なお、浜に揚げられるようなサッパ舟といわれる無動力船は、倒れた家屋など建造物の下敷になって損傷が大きく、これら零細漁民にも救いの手が待たれる。

定置網三十カ統流失

盛漁期をのがしそう

漁具=夏漁の最盛期を迎え、本県沿岸一帯で、定置網約三十カ統と刺し網二百反が流失した。定置夏網総数は百五十カ統で、これによって水揚げされたブリ、サバ、イカ、マグロ、マスなどは六千九百トン、年間約四億円の収入である。定置網は全体の二割程度の流失なので、こんごの漁獲減は八千万円以上にのぼるとみられる。しかも一カ統百万円もする定置網は一朝一夕には入手できないので、みすみす盛漁期をのがすのではないかと憂慮されている。

“海岸保全”はいつの日

被害、予想より少なかったが

漁港=県内約五十の漁港は大は宮古、大船渡、釜石から小は堀内、平井賀など県北の漁港までここ数年来、国庫補助を受け、県または町村工事として着々修築が進められていたが、港自体の被害は予想より少なかった。もっとも大きいのは釜石の小白浜で堤防が十五メートル決壊したことだが、そのほか桟橋などが係留船や倒壊物によって損傷されたことにとどまっている。港湾の安全はなんといっても防波堤によって約束されるとみられるが、大船渡は港の背後地の施設が津波で全滅的被害を受けており、施設の検討が望まれている。

ところでこれまでの漁港整備事業は、三十七年度完工の計画で普代村大田名部港など十七港の修築事業のほか、三陸村鬼沢港など四港の局部改良事業、久慈市久慈湊港の海岸保全事業が進められているが、今年度も二億九千万円の工事費で継続して行なわれている。また今年度から二カ年計画で山田町大沢港など二港の修築、宮古市石浜港など三港の局部改良、陸前高田市両替港など二港の海岸保全工事が新たに三千四百万円で進められているが、進行率は修築事業が五〇%、局部改良が三〇%、海岸保全が四・三%、また前年災害の復旧状況は三十三年分八〇%、三十四年分五〇%とこれまた半分程度という状況。

しかも、激浪の洗うにまかせている修築対象の未改良港が三港、局部改良三十五港、海岸保全三十一港もある。したがって漁港整備は現在、主要港がある程度進んでいるだけで、県内各漁港が防波堤で外浪の波足を食い止める日はまだ遠い。

このような港港整備の遅れについて県漁港課は工事費の国庫負担率の増加を望んでいる。防災事業は海岸保全の津波対策や高潮対策などにもっとも必要だが、この海岸保全事業費の地元負担は県が四~五割、町村が一割である。一方、修築事業は県二、五~四割、町村一~三、五割なので、県負担が多い保全事業は敬遠する傾向がある。県が負担率の少ない事業を行なおうということはわかるが、そのためにこれと逆に地元町村の負担が増加しており、県の重荷とはいえ、やはり根本的な海岸保全にも力を入れるべきだと沿岸漁民はいっている。

また漁港利用が年々ひろがっているが、政府にも国庫負担を増額するなど、重点的に事業を進めるように望まれる。

災害復旧資金を出す

農林漁業金融公庫

〔仙台支社発〕三陸津波で沈没、流失した漁船の資金対策が望まれているが、農林漁業金融公庫仙台支店の後藤第二営業課長は、これについて次のように語った。

県からまだ報告がないが、被害がかなり大きいようなので、調査書が出来しだい、農林漁業金融公庫からも災害復旧資金を出すが、被害が大きいと伊勢湾台風のような特別な融資措置をとる。

(岩手日報 三十五・五・二十五)

5、山田町の被害状況調べ一覧

(1)罹災者数

山田町の罹災種別罹災者数の表
  部落名 流失 全壊 半壊 床上浸水 床下浸水 合計
戸数 人員 戸数 人員 戸数 人員 戸数 人員 戸数 人員 戸数 人員
山田 境田         三一 一六三 七八九 一五 七三 一八五 八九三
川向         一〇 五二 二〇七 九九五 一一 六一 二二八 一、一〇八
南町         七三 四〇五 一六 八九 九一 五〇二
仲町         二〇 一一六 一二 七四 三三 一九八
三日町             一三 一〇三 一二 六九 二五 一七二
荒浜木         一三 八五 一三 七一 二七 一五九
釜谷洞 一六 七〇 二三 一〇一 四一 二〇二 一三六 八六六 三二 二二二 一、二七一
柳沢     三一         四〇
船越 田之浜 二五 二八 二五 一三一 一三 五二 五三 二四四
大浦         一七 三一 一四六 二五 三九 一八八
織笠 織笠 二一 一三一 五五 二六六 一二九 七一九 六〇 三六三 三三 二七一 一、五一二
大沢 大沢 四二 一七〇 一、〇三三 一八 一〇五 二〇〇 一、一九一
  合計 四八 二三九 八八 四一五 二一〇 一、一一一 九一一 五、〇二一 一二六 六七五 一、三八三 七、四七八

(2)公共施設土木関係災害調

(昭三五・五・三〇)

公共施設土木関係災害調査結果表
施設区分 被害箇所 工種 数量 復旧費概算(千円) 附記
建設省 国 山田地区柳沢 道路 二六〇m 七、二七七、〇〇〇 道路欠壊流失 路面舗装
〃細浦 一六〇m 四、四三四、〇〇〇 舗装路欠壊
〃釜谷洞 橋梁 一八、二m 七六三、〇〇〇 宝来橋
〃〃 河川 五四七、四m 一〇五、三三六、〇〇〇 関連三、〇五五m
船越地区前須賀 海岸保全防潮堤   二二、三一七、〇〇〇 〃五二二、五m
農林省 県 大沢地区川向 護岸排水路 二〇、〇m
八、五m
八二四、〇〇〇 大沢漁港
山田地区柳沢 護岸 一三、三m 五、七四四、〇〇〇 山田漁港
〃釜谷洞 二一四、五m 一六、五七六、〇〇〇
〃飯岡 五七、〇m 二、五三四、〇〇〇
〃〃 舗装 一九六、九m 二六五、〇〇〇
〃境田 護岸 一三〇、〇m 二、九四二、〇〇〇
〃伝作鼻 一七五、五m 三、一八三、〇〇〇
船越地区田の浜 護岸 五四、六m 一、五六三、〇〇〇 船越漁港
〃 町 織笠地区松ケ下 護岸 二一八m 四〇、四一五、〇〇〇 織笠漁港
〃川口 六三三、五m 一九八、五〇〇、〇〇〇 関連を含む三、一四〇m
建設省 町 山田地区柳沢 公営住宅 木造平家建 九坪七戸 六〇〇、〇〇〇  
〃釜谷洞 〃 二九戸 一、六〇〇、〇〇〇  
〃浜川目 〃 一〇戸 二〇〇、〇〇〇  
厚生省 町 大沢地区大沢 簡易水道栓 二〇ケ所 五〇、〇〇〇  
山田地区山田 上水道水源地設備 七式 七〇〇、〇〇〇 三〇HP電動機二基、水位計、電柱、その他
船越地区田の浜 簡易水道給水栓 一三ケ所 三五、〇〇〇  

(農業施設)

公共農業施設土木関係災害調査結果表
施設区分 災害個所 工種 数量 復旧費概算(千円) 附記
農林省 県 船越地区浦の浜 堤防 一九三m 二四、一二四  
〃 町 大沢地区矢倉田 一七m 八五〇  
山田地区柳沢 水路 三七m 三〇〇  
織笠地区草木 三三四m 八、五八〇  
〃八幡前 農道 一八七m 八〇〇  
船越地区大浦 堤防 一四〇m 一二、二二二  
  総計     三一、一九〇  

(3)被害状況

(山田町役場調)

(イ)被害額総括表

被害額総括表
山田町 区分 建物関係(千円) 土木関係(千円) 耕地関係(千円) 農林畜産関係(千円) 水産関係(千円) 商工鉱関係(千円) 教育施設関係 公用及び公共施設関係(千円) 公営企業等施設関係(千円) 合計(千円)
  四八九、三一〇 四一、五〇〇 四三、五五八 四一、二三七 四八五、一二一 一九一、三七八   二三〇 八〇〇 一、二九三、一三四

(ロ)人の被害

人の被害額総括表
山田町 区分 罹災者総数 罹災世帯数 死者 行方不明 負傷 合計
重傷 軽傷
  七、四七八 一、三八三    

(ハ)建物の被害

建物の被害の表
山田町 区分 住家の被害 住宅の被害 非住家の被害 合計
全壊 流失 半壊 浸水
床上 床下
戸数 人員 被害額(千円) 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 被害額 戸数 被害額(千円)
  八八 四一五 一三二、 四八 二三九 八六、四〇〇 二一〇 一、一一一 一二六、〇〇〇 九一一 五、〇二一 一三六、六五〇 一二六 六七五 一、二六〇 一、三八三 七、四六一 四八二、三一〇 一〇〇 七、〇〇〇 一、三八三 四八九、三一〇
建築物被害状況表
湾名 位置 浸水高 地盤高 水深 構造物被害状況表 周囲
山田 山田 三・〇〇 一・七〇~一・八〇 一・三〇~一・二〇 木造安全 防潮壁前  
    三・〇〇 二・〇〇 一・〇〇 木造安全 防潮壁後  

(ニ)耕地関係等被害

耕地関係等被害の表
山田町 区分 農地農業用施設 被害額計(千円)
農道 水路 橋梁 海岸堤防
面積(ha) 被害額(千円) 面積(ha) 被害額(千円) 面積(ha) 被害額(千円) 箇所 延長(m) 被害額(千円) 箇所 延長(m) 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円)
山田町 一一〇 二二、〇〇〇 八〇 一二、〇〇〇 一九〇 三四、〇〇〇 一二 八二〇 六、五〇〇 七六〇 四、八〇〇 五〇〇 九五、〇〇〇 二三 一〇六、八〇〇 一四〇、八〇〇

(ホ)農作物関係被害

(主要農作物)

主要農作物被害の表
区分 苗代 水稲 雑穀 被害額計(千円)
冠水 麦類 大豆
面積(a ha) 被害額(千円) 面積(a ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(a ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(a ha) 数量(t) 被害額(千円)
山田町 四三三 二、六〇〇 一一〇 一六五、〇 一一、〇〇〇 二〇 三八、一 一、五八〇 一五 一、九 一〇三 一五、二八三

(主要特作物)

主要特作物被害の表
山田町 区分 特作物 農業用施設被害額(千円) 被害額合計(千円)
蔬菜 桑園 養蚕 その他 被害額計(千円)
面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 数量(箱) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円)
  一五、〇 四五〇 九、〇〇〇 二、〇 一九 一八三 二五 一八 二八、〇 三六四 四、九〇〇 一四、一〇六 一、五〇〇 一五、六〇六

(へ)林業関係被害

林業関係被害の表
山田町 区分 防潮林 一般林業施設 林産物
箇所 被害額(千円) 棟数 被害額(千円) 木材(石) 木炭(俵) 薪(石) 被害額(千円) 被害額(千円)
  二、九〇〇 一〇 四、六五〇 二、四〇〇 三、三〇〇 三六 六、一八〇 一三、七三〇

(ト)水産関係等被害

水産関係等被害の表
山田町 区分 漁港 漁業施設 水産施設
かき のり その他 共同施設 非共同施設
施設数 被害額 施設数 被害額 施設数 被害額 施設数 被害額 施設数 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額(千円)
  一三 三三、六三〇 一、二九七 四四、六一六 三、一五九 九、八九七     四、四五六 五四、五一三 二三 二二、〇二五 三〇六 一一六、一〇九 三二九 一三八、一三四
水産関係等被害の表
山田町 区分 漁船 漁具 生産物その他 計(千円)
動力船 無動力船 小計 定置漁業 その他
隻数 被害額 隻数 被害額 隻数 被害額 被害額 被害額 被害額 被害額
  一六五 四一、〇二二 三一二 四、九五二 四七七 四五、九七四 一九 三六、二五〇 四二八 二四、〇六九 四四七 六〇、三一九 一三四、九四一 四〇七、五一一

(チ)畜産関係被害

畜産関係被害の表
山田町 区分 家畜 飼料
大家畜 中家畜
頭数 被害額 頭数 被害額 頭数 被害額 数量 被害額 数量 被害額(千円)
      三一 三一〇 三一 三一〇     三一 三一〇

(リ)商工鉱関係被害

商工鉱関係被害の表
山田町 区分 工鉱業 商業 合計
事業所数 被害額(千円) 店舗数 被害額(千円) 事業所店舗数 被害額(千円)
施設 原材料製品 施設 商品 施設 商品等
  二四 二三、一三五 一四、三四五 三七、四八〇 二二四 一三〇、八〇〇 八七、二〇〇 二一八、〇〇〇 二四八 一五三、九三五 一〇一、五四五 二五五、四八〇

(ヌ)教育関係被害

教育関係被害の表
山田町 区分 小学校 中学校 高等学校 私立各種学校 公民館 合計
校数 被害内容 被害額 校数 被害内容 被害額 校数 被害内容 被害額 校数 被害内容 被害額 館数 被害内容 被害額 学校施設数 被害額(千円)
                          全壊 一、七〇〇 一、七〇〇

(ル)公営企業等関係施設被害

公営企業等関係施設被害の表
山田町 区分 水道事業 病院事業 被害額計(千円)
被害額 被害の状況 被害額 被害の状況
  八〇〇 水源池、ポンプ     八〇〇

(ヲ)公共土木施設災害

公共土木施設災害の表
山田町 区分 建設省所管
河川 海岸 道路 橋梁 都市計画
箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額(千円)
山田町 二三、四〇〇 六、四〇〇 一〇、六〇〇 一、一〇〇     四一、五〇〇
公共土木施設災害の表
山田町 区分 運輸省所管 農林省所管 合計
港湾 海岸 漁港
箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額(千円)
      九五、〇〇〇 一三 三三、六三〇 一五 一二八、六三〇 二三 一七〇、一三〇

最終的な被害総額は十二億九千三百十三万四千円に達した。 (チリ地震津波災害復興誌)

6、岩手県下の被害状況調べ一覧

岩手県下の市町村別の被害状況は次の通りである。被害額は百十五億一千三百万円にも達した。

(1) 市町村別内訳

岩手県下の市町村別被害額内訳表
市町村 区分 建物関係(千円) 土木関係(千円) 耕地関係(千円) 農林畜産関係(千円) 水産関係(千円) 商工鉱関係(千円) 教育施設関係(千円) 公用及び公共施設関係(千円) 公営企業等施設関係(千円) 合計(千円)
陸前高田市 四三二、六三〇 六六八、七〇〇 四四一、四一七 一三二、一八四 八三五、二五〇 五一、三九五 四五〇 七、七六〇 二六〇 二、五七〇、〇四六
大船渡市 一、一四九、九〇〇 二九五、九七四 八六、五七五 一五六、七六三 三三二、八二三 二、一五七、四八二 六、二三四 四、六七八 一、二〇〇 四、一九一、六二九
釜石市 一八五、二一〇 一一三、〇六七 一四、二二二 七九、〇八〇 二三六、二二五 一七〇、二二七 七八三 一二八   七九八、九三五
宮古市 二七二、四〇〇 二六五、六一〇 七三、七三二 七三、〇九八 二七三、七六九 五一、二二七 二二、八七五 一、五四三   一、〇三四、二五四
久慈市 七、三一〇 三、七四〇   一八、一一八 二七、八九七 二、五二六 八〇八     六〇、三九九
大槌町 三六四、三三〇 四九、二〇〇 三、九九三 四七、五七九 三三八、二七七 一五六、八四〇   二、九六〇 七〇 九六三、一九九
山田町 四八九、三一〇 四一、五〇〇 四三、五五八 四一、二三七 四八五、一二一 一九一、三七八   二三〇 八〇〇 一、二九三、一三四
田老町       六、〇五四 八九六         六、九五〇
岩泉町       一二、四〇三 五六九         一二、九七二
種市町 三、〇七〇 五九、二〇〇   五、一四三 三一、五一九     一〇〇   九九、〇三二
三陸町 七〇〇 三、二〇〇 二、二五〇 一七、七〇四 四一、五六一         六五、四一五
田野畑村     三二三 一、八八一 二一、二八七         二三、四九一
普代村   五、六一〇 四〇〇 一、七〇一 一五、〇七八         二二、七八九
野田村 一八、二、〇〇   六五、一六四 九、六一三 一七、二一七         一一〇、一九四
その他               二六一、五〇〇   二六一、五〇〇
二、九二三、〇六〇 一、五〇五、七九四 七三一、六三四 六〇二、五五八 二、六五七、四三九 二、七八一、〇七五 三一、一五〇 二七八、八九九 二、三三〇 一一、五一三、九三九

(2) 人の被害

岩手県下の市町村別人の被害内訳表
市町村名 区分 罹災者総数 罹災世帯数 死者 行方不明 負傷 合計
重傷 軽傷
陸前高田市 三、六八八 六八三 七人 一人 一人 九人
大船渡市 七、四六六 一、四八〇 五〇 二七 二七五 三五五
釜石市 六、五二四 一、三五一          
宮古市 三、七九七 七四〇      
久慈市 一九二 四〇      
大槌町 六、五四二 一、二五一    
山田町 七、四七八 一、三八三    
種市町 六四 一六          
三陸町 五五 一〇          
野田村 一三二 二〇          
三五、九三八 六、九七四 五七 三一 二七七 三七〇

(3) 建物の被害

岩手県下の市町村別建物の被害内訳表
市町村名 区分 住家の被害
全壊 流失 半壊 浸水
床上
戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額 戸数 人員 被害額
陸前高田市 七一 三四六 一〇六、五〇〇 九〇 五六三 一六二、〇〇〇 一四三 七八八 八五、八〇〇 一九九 一、一五五 二九、八五〇
大船渡市 二一四 一、一五三 三二一、〇〇〇 二一八 一、一五三 三九二、四〇〇 五六七 三、一三四 三四〇、二〇〇 二五七 一、四一六 三八、五五〇
釜石市 一七 八三 二五、〇〇〇 一一 五〇 一九、八〇〇 二五 一一一 一五、〇〇〇 七六八 三、七七三 一一五、二〇〇
宮古市 三六 二〇一 五四、〇〇〇 七六 四〇七 一三六、八〇〇 七〇 四〇七 四二、〇〇〇 二一三 一、〇八二 三一、九五〇
久慈市 一、五〇〇       二〇 二、四〇〇 二二 六〇〇
大槌町 三八 一八六 五七、〇〇〇 四四 二二一 七九、二〇〇 一八九 一、三〇五 一一三、四〇〇 六三七 二、九九三 九五、五五〇
山田町 八八 四一五 一三二、〇〇〇 四八 二三九 八六、四〇〇 二一〇 一、一一一 一二六、〇〇〇 九一一 五、〇二一 一三六、六五〇
種市町       一、八〇〇       一五〇
三陸町                        
野田村       五八 一六、二〇〇 六〇〇      
四六五 二、三八八 六九七、五〇〇 四九七 二、六九四 八九四、六〇〇 一、二〇九 六、八八四 七二五、四〇〇 二、九九〇 一五、四六七 四四八、五〇〇
岩手県下の市町村別建物の被害内訳表
市町村名 区分 住家の被害 非住家の被害 合計
浸水
床下
戸数 人員 被害額(千円) 戸数 人員 被害額(千円) 戸数 被害額(千円) 戸数 被害額(千円)
陸前高田市 六七 四〇三 六七〇 五七〇 三二五五 三八四、八二〇 六八三 四七、八一〇 六九三 四三二、六六〇
大船渡市 一〇五 六一〇 一、〇五〇 一、三六一 七、四六六 一、〇九三、二〇〇 八一〇 五六、七〇〇 一、三六一 一、一四九、九〇〇
釜石市 五三〇 二、五〇七 五、三〇〇 一、三五一 六、五二四 一八〇、八〇〇 六三 四、四一〇 一、三五一 一八五、二一〇
宮古市 三四五 一、七〇〇 三、四五〇 七四〇 三、七九七 二六九、二〇〇 六〇 四、二〇〇 七四〇 二七二、四〇〇
久慈市 一〇 一〇 四八 四、五一〇 四〇 二、八〇〇 四〇 七、三一〇
大槌町 三四三 一、八三七 三、四三〇 一、二五一 六、五四二 三四八、五八〇 二二五 一五、七五〇 一、二五一 三六四、三三〇
山田町 一二六 六七五 一、二六〇 一、三八三 七、四六一 四八二、三一〇 一〇〇 七、〇〇〇 一、三八三 四八九、三一〇
種市町       一、九五〇 一六 一、一二〇 一六 三、〇七〇
三陸町             一〇 七〇〇 一〇 七〇〇
野田村       一〇 六六 一六、八〇〇 二〇 一、四〇〇 二〇 一八、二〇〇
一、五一七 七、七三四 一五、一七〇 六、六七八 三五、一六七 二、七八一、一七〇 二、〇二七 一四一、八九〇 六、八五五 二、九二三、〇六〇

(4) 耕地関係等被害

岩手県下の市町村別耕地関係等の被害内訳表
市町村名 区分 農地農業用施設
農道
面積(ha) 被害額(千円) 面積(ha) 被害額(千円) 面積(ha) 被害額(千円) 箇所 延長(m) 被害額(千円)
陸前高田市 一五七 三一、五〇〇 一一七 一七、六〇〇 二七四 四九、〇〇〇 三〇〇 六、五〇〇
大船渡市 一二〇 二四、〇〇〇 一七一 二五、七〇〇 二九一 四九、七〇〇 一五 六五〇 四、五〇〇
釜石市 七八、四 一五、七〇〇 五〇、五 七、六〇〇 一二八、九 二三、三〇〇      
宮古市 九二 一八、四〇〇 八二 一二、三〇〇 一七四 三〇、七〇〇 一八〇 九〇〇
久慈市     一、五 三〇〇 一、五 三〇〇      
大槌町 二七 五、四〇〇 一四 二、一〇〇 四一 七、五〇〇      
山田町 一一〇 二二、〇〇〇 八〇 一二、〇〇〇 一九〇 三四、〇〇〇 一二 八二〇 六、五〇〇
田老町 一〇 二、〇〇〇 一七 二、六〇〇 二七 四、六〇〇      
種市町     一〇 一、五〇〇 一〇 一、五〇〇      
三陸町 四〇〇 三三 五、〇〇〇 三五 五、四〇〇 五七〇 三、五〇〇
田野畑村 一、〇〇〇 一九 二、九〇〇 二四 三、九〇〇      
普代村 六〇〇 二三、五 三、五〇〇 二六、五 四、一〇〇 三五〇 二、〇〇〇
野田村 一六 三、二〇〇 三、四 五〇〇 一九、四 三、七〇〇 五〇〇 二、八〇〇
六二〇、四 一二四、一〇〇 六二一、九 九三、六〇〇 一、二四二、三 二一七、七〇〇 五〇 三、三七〇 二一、七〇〇
岩手県下の市町村別耕地関係等の被害内訳表
市町村名 区分 農地農業用施設 被害額計(千円)
水路 橋梁 海岸堤防
箇所 延長(m) 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円)
陸前高田市 五二〇 二、四〇〇     九、〇〇〇 一六 一二、九〇〇 六一、九〇〇
大船渡市 二〇 一、一〇〇 七、六〇〇         三五 一二、一〇〇 六一、八〇〇
釜石市           四、八〇〇 四、八〇〇 二八、一〇〇
宮古市 二〇〇 一、二〇〇 六〇〇 七、〇〇〇 一三 九、七〇〇 四〇、四〇〇
久慈市                   三〇〇
大槌町 三五〇 二、〇〇〇         二、〇〇〇 九、五〇〇
山田町 七六〇 四、八〇〇 五〇〇 九五、〇〇〇 二三 一〇六、八〇〇 一四〇、八〇〇
田老町                   四、六〇〇
種市町                   一、五〇〇
三陸町 三二〇 四、八〇〇     六九、四〇〇 一八 七七、七〇〇 八三、一〇〇
田野畑村                   三、九〇〇
普代村 二〇〇 一、五〇〇         三、五〇〇 七、六〇〇
野田村 一〇 九〇〇 六、〇〇〇 五〇〇     一六 九、三〇〇 一三、〇〇〇
六五 四、三五〇 三〇、三〇〇 一、六〇〇 一九 一八五、二〇〇 一三七 二三八、八〇〇 四五六、五〇〇

(5) 農作物関係被害

(1)主要農作物

岩手県下の市町村別主要農作物の被害内訳表
市町村名 区分 苗代 水稲 雑穀 被害額計(千円)
冠水 麦類 大豆
面積(a) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円)
陸前高田市 八二 四九二 一五七 二三五、五 一五、七〇〇 七八 一四八、九 六、一六二       二二、三五四
大船渡市 一六六 一、〇〇〇 一二〇 一八〇、〇 一二、〇〇〇 一〇五 二〇〇、二 八、二九五       二一、二九五
釜石市 一二七、五 七五〇 七八、四 一一七、六 七、八四〇 七、六 三一六 〇、六 三五 八、九四一
宮古市 三三 二〇〇 九二 一三八、〇 九、二〇〇 二八 五三、四 三、〇四〇 一八 二、三 一二六 一二、五六六
大槌町 一〇〇 六〇〇 二七 四〇、五 二、七〇〇 三、八 一五八 〇、九 四九 三、五〇七
山田町 四三三 二、六〇〇 一一〇 一六五、〇 一一、〇〇〇 二〇 三八、一 一、五八〇 一五 一、九 一〇三 一五、二八三
田老町     一〇 一五、〇 一、〇〇〇 一〇 一九、〇 七九〇 〇、六 三五 一、八二五
種市町           三、八 一五八 〇、二 一四 一七二
三陸町 一、三 三、〇 二〇〇 二一 三五、〇 一、四二五       一、六三三
田野畑村     七、五 五〇〇 一五 二三、三 一、一八五 〇、三 二一 一、七〇六
普代村     四、五 三〇〇 一〇 三〇、三 七九〇 〇、九 四九 一、一三九
野田村 四〇 二四〇 一六 三六、〇 二、四〇〇 一、六 二、九 一二六 〇、一 二、七七三
九八二、八 五、八九〇 六二〇、四 九四二、六 六二、八四〇 二九六、六 五六六、三 二四、〇二五 六三 七、八 四三九 九三、一九四

(2)主要特作物

岩手県下の市町村別主要特作物の被害内訳表
市町村名 区分 特作物 農業用施設被害額(千円) 被害額合計(千円)
蔬菜 桑園 養蚕 その他 被害額計(千円)
面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円) 数量(箱) 被害額(千円) 面積(ha) 数量(t) 被害額(千円)
陸前高田市 三〇、〇 九〇〇 一八、〇〇〇 四、〇 三八 三七五 六〇 四二 五、〇 六五 八七五 一九、二九二 四、一五〇 二三、四四二
大船渡市 五〇、〇 一、五〇〇 三〇、〇〇〇 七、〇 六六 六五六 八五 六〇 九、〇 一一七 一、五七五 三二、二九一 八、一〇〇 四〇、三九一
釜石市 三〇、〇 九〇〇 一八、〇〇〇 七、〇 六六 六五六 三〇 二一 四、五 五八 七八七 一九、四六四 三、三〇〇 二二、七六四
宮古市 一三、〇 三九〇 七、八〇〇 五、〇 四七 四六九 一六〇 一一二 一八、〇 二三四 三、一五〇 一一、五三一 三、一五〇 一四、六八一
久慈市       一、五 一四 一四一 二〇 一四       一五五   一五五
大槌町       三、〇 二八 二八一 一〇 二、〇 二六 三五〇 六三八   六三八
山田町 一五、〇 四五〇 九、〇〇〇 二、〇 一九 一八三 二五 一八 二八、〇 三六四 四、九〇〇 一四、一〇六 一、五〇〇 一五、六〇六
田老町                 二、〇 二六 三五〇 三五〇   三五〇
種市町 五、〇 一五〇 三〇〇 一、〇 九四       三九八   三九八
三陸町 一〇、〇 三〇〇 六、〇〇〇           二、〇 二六 三五〇 六、三五〇 一、六五〇 八、〇〇〇
田野畑村                 一、〇 一三 一七五 一七五   一七五
普代村 五、〇 一五〇 三〇〇           一、五 二〇 二六二 五六二   五六二
野田村                 〇、八 一〇 一四〇 一四〇   一四〇
一五八、〇 四、七四〇 八九、四〇〇 三〇、五 二八七 二、八六〇 三九五 二七八 七三、八 九五九 一二、九一四 一〇五、四五二 二一、八五〇 一二七、三〇二

(6) 林業関係被害

岩手県下の市町村別林業関係被害内訳表
市町村名 区分 防潮林 一般林業施設 林産物
箇所 被害額(千円) 棟数 被害額(千円) 木材(石) 木炭(俵) 薪(石) 被害額(千円) 被害額(千円)
陸前高田市 七、〇〇〇 三、七五〇 二、八〇〇 二、一〇〇   八、一一〇 一八、八六〇
大船渡市 二、〇〇〇 二七 六九、七五〇 一七、〇〇〇 四〇〇   四八、三四〇 一二〇、〇九〇
釜石市 四、〇〇〇 二、一〇〇 三、四〇〇 一、五〇〇   七、三四五 一三、四四五
宮古市 一、二〇〇 二、九五〇 四、六〇〇 七〇〇 三、六〇〇 一六、〇八五 二〇、二三五
久慈市 二、六〇〇 一、五〇〇 二、〇〇〇     四、〇〇〇 八、一〇〇
大槌町 二、三〇〇 四、三五〇 七、〇〇〇 七、五〇〇 三六 一九、一四〇 二五、七九〇
山田町 二、九〇〇 一〇 四、六五〇 二、四〇〇 三、三〇〇 三六 六、一八〇 一三、七三〇
田老町 三、〇〇〇 二〇〇 一〇〇   三六〇 一三、三六二
岩泉町 二、三〇〇             二、三〇〇
種市町 二、五〇〇             二、五〇〇
三陸町 二、〇〇〇 一、四五〇 二、三〇〇 三、四〇〇   六、七三〇 一〇、一八〇
田野畑村 九二〇   一五〇   三〇 九五五
普代村                  
野田村 二、〇〇〇     一、〇〇〇     一、七〇〇 三、七〇〇
三三 三四、七二〇 七一 九〇、五〇七 四二、七〇〇 一九、一五〇 三、六七二 一一八、〇二〇 二四三、二四七

(7) 水産関係等被害

岩手県下の市町村別水産関係等被害内訳表
市町村名 区分 漁港 漁業施設 水産施設
かき のり その他 共同施設 非共同施設
施設数 被害額(千円) 施設数 被害額(千円) 施設数 被害額(千円) 施設数 被害額(千円) 施設数 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円)
陸前高田市 一二、四〇〇 一九五 一一、三六〇 三、五五〇 一一、四五〇     三、七四五 二二、八一〇 二四 一五、四二六 一四四 四三、〇五四 一六八 五八、四八〇
大船渡市 一五、一三〇 二、四二二 六一、三九九 七〇六 二、二五九 八〇 六四〇   六四、二九八 二〇 八、八二四 一六二 二七七、四五〇 一八二 二八六、二七四
釜石市 二五 三〇、三九〇 三五五 八、四九〇 二、〇九二 二、六二四 六〇 二、四五二 一一、一七四 三九 一九、八一 一一二 二二、九四一 一五一 四二、七六二
宮古市 一一、四〇〇 四三〇 二一、四四〇 三、九九八 一九、五〇〇     四、四二八 四〇、九四〇 一二 一一、八五〇 四二八 二九、八五三 四四〇 四一、七〇三
久慈市 七七〇         五〇 一、〇〇〇 五〇 一、〇〇〇 三、〇〇〇 一一八 三、一六五 一二三 六、一六五
大槌町 一一 七八、八一二 一一三 二、五一〇 一、八六四 五、八六六 一〇二 一、三四〇 二、〇七九 九、七一六 一三 一九、四六五 四二 七一、〇四七 五五 九〇、五一二
山田町 一三 三三、六三〇 一、二九七 四四、六一六 三、一五九 九、八九七     四、四五六 五四、五一三 二三 二二、〇二五 三〇六 一一六、一〇九 三二九 一三八、一三四
田老町 六〇〇                            
岩泉町                                
種市町 二一、〇〇〇         二、二〇〇 二四〇 二、二〇〇 二四〇 二、二三三 六三〇 一七 二、八六三
三陸町     一二六 四、二八四 三六二 一、一五〇     四八八 五、四三四 八〇〇 一八 九四〇 二六 一、七四〇
田野畑村 四一八                            
普代村 二〇〇                     八〇 八〇
野田村 四、〇〇〇                 一、三九九 一八 二、六八五 二五 四、〇八四
七七 二〇八、七五〇 四、九三八 一五四、〇九九 一五、七三一 五二、七四六 二、四三七 三、二八〇 二三、一〇六 二一〇、一二五 一六〇 一〇四、八四三 一、三五八 五六七、九五四 一、五一八 六七二、七九七
岩手県下の市町村別水産関係等被害内訳表
市町村名 区分 漁船 漁具 生産物その他 計(千円)
動力船 無動力船 定置漁業 その他
隻数 被害額(千円) 隻数 被害額(千円) 隻数 被害額(千円) 被害額(千円) 被害額(千円) 被害額(千円) 被害額(千円)
陸前高田市 九三 二八、四三〇 一一六 三、八七〇 二〇九 三二、三〇〇 三三 四三、六一六 一六三 一一七、六九〇 一九六 一六一、三〇六 二〇、三一八 三〇七、六一四
大船渡市 一五 六、九六〇 一八四 六、八四〇 二〇一 一三、八〇〇 一六 一一、二〇七 二〇六 一九、二〇四 二二二 三〇、四一一 九五、五一九 五〇五、四三二
釜石市 三七 三、〇五八 八九 一、九五〇 一二五 五、〇〇八 二〇 六三、五七九 三一七 二〇、一〇九 三三七 八三、六八八 二三、九九八 一九七、〇二〇
宮古市 五五 一七、九〇〇 三五二 七、五〇〇 四〇七 二五、四〇〇 一六、三〇〇 二三 一五、四〇〇 三一 三一、七〇〇 四三、五一五 一九四、六五八
久慈市 八三七 三〇 一、四一〇 三七 二、二三七 九、三〇〇 四一 四六〇 四九 九、七六〇 四、八四〇 二四、七七二
大槌町 一〇三 二五、三三三 二一七 三、九六〇 三二〇 二九、二九三 二五、四二〇 一一一 一九、一三七 一二〇 四四、五五七 四五、五二九 二九八、四一九
山田町 一六五 四一、〇二二 三一二 四、九五二 四七七 四五、九七四 一九 三六、二五〇 四二八 二四、〇六九 四四七 六〇、三一九 一三四、九四一 四〇七、五一一
田老町     二〇 八二 二〇 八二       六八五
岩泉町         一五四 一五四   一五九
種市町 一〇 四七〇 三九 九八〇 四九 一、四五〇 四三〇 三一八 一七 七四八 一七六 二六、四七七
三陸町 一九 二、七六〇 八二 一、四〇五 一〇一 四、一六五 二〇 二四、七五四 一九 二、一五〇 三九 二六、九〇四 五、〇一二 四三、二五五
田野畑村 二〇     二〇 二、四〇〇 三〇 二、四三〇   二、八六八
普代村 一、六〇〇 一四 五一〇 一七 二、一一〇 一二、四〇〇 六五 一二、四六五   一四、八五五
野田村 四、五六〇 五三 一、八五〇 六一 六、四一〇 四〇〇 二〇 九〇〇 二二 一、三〇〇 一、二一七 一七、〇一一
五一七 一三二、九四〇 一、五〇九 三五、三一四 二、六二六 一六八、二五四 一四八 二四六、〇五六 一、三四四 二一九、六八九 一、四九二 四六五、七四五 三七五、〇六五 二、一〇〇、七三六

(8) 畜産関係被害

岩手県下の市町村別畜産関係の被害内訳表
市町村名 区分 家畜 飼料
大家畜 中家畜 数量(俵) 被害額(千円) 数量 被害額(千円)
頭数 被害額(千円) 頭数 被害額(千円) 頭数 被害額(千円)
陸前高田市 一八〇 一五 一五〇 一八 三〇〇     一八 三三〇
大船渡市     二〇 二〇〇 二〇 二〇〇 一、五〇〇 一、二〇〇 二〇頭
一、五〇〇袋
一、四〇〇
釜石市     二五 二五〇 二五 二五〇     二五 二五〇
宮古市     六二 六二〇 六二 六二〇     六二 六二〇
久慈市                    
大槌町     四五 四五〇 四五 四五〇     四五 四五〇
山田町     三一 三一〇 三一 三一〇     三一 三一〇
一八〇 一九八 一、九八〇 二〇一 二、一六〇 一、五〇〇 一、二〇〇   三、三六〇

(9) 商工鉱関係被害

岩手県下の市町村別商工鉱関係の被害内訳表
市町村名 区分 工鉱業 商業 合計
事業所数 被害額(千円) 店舗数 被害額(千円) 事業所店舗教 被害額(千円)
施設 原材料製品 施設 商品 施設 商品等
陸前高田市 五、七〇〇 一七、三〇〇 二三、〇〇〇 五八 一三、二八〇 一五、一一五 二八、三九五 六七 一八、九八〇 三二、四一五 五一、三九五
大船渡市 九六 四四三、三〇〇 二三五、三一〇 六七八、六一〇 四一八 九一四、四七〇 五七三、一二〇 一、四八七、五九〇 五一四 一、三五七、七七〇 八〇八、四三〇 二、一六六、二〇〇
釜石市 四一 八六、〇四八 二八、三七七 一一四、四二五 一八八 一七、七一六 四一、四〇八 五九、一二四 一五九 一〇三、七六四 六九、七八五 一七三、五四九
宮古市 一、二〇〇 一五、五〇二 一六、七〇二   二、九二〇 二、九二〇 一三 一、二〇〇 一八、四二二 一九、六二二
久慈市         四〇〇 八〇〇 一、二〇〇 四〇〇 八〇〇 一、二〇〇
大槌町 一九 七一、一五〇 五二、八三〇 一二三、九八〇 七五 四一、六七〇 一三、一八〇 五四、八五〇 九四 一一二、八二〇 六六、〇一〇 一七八、八三〇
山田町 二四 二三、一三五 一四、三四五 三七、四八〇 二二四 一三〇、八〇〇 八七、二〇〇 二一八、〇〇〇 二四八 一五三、九三五 一〇一、五四五 二五五、四八〇
一九四 六三〇、五三三 三六三、六六四 九九四、一九七 九七五 一、一一八、三三六 七三三、七四三 一、八五二、〇七九 一、一六九 一、七四八、八六九 一、〇九七、四〇七 二、八四六、二七六

(10) 教育関係被害

岩手県下の市町村別教育関係の被害内訳表
市町村名 区分 小学校 中学校 高等学校
校数 被害内容 被害額(千円) 校数 被害内容 被害額(千円) 校数 被害内容 被害額(千円)
陸前高田市             大破三四坪 三〇〇
大船渡市 校地三〇坪 一五〇 校地 一五〇 船舶一
実習田六三八坪
実習設備
一、五〇〇
六三八
八〇
釜石市 全壊二八五坪 九〇〇 二、四〇〇          
宮古市 給食設備半壊 二二五       船舶四
漁具その他
六、五四〇
八〇
久慈市             船舶二
実習設備等
三〇五
一三六
山田町                  
  三、六七五   一五〇   九、五七九
岩手県下の市町村別教育関係の被害内訳表
市町村名 区分 私立各種学校 公民館 合計
校数 被害内容 被害額(千円) 校数 被害内容 被害額(千円) 学校施設数 被害額(千円)
陸前高田市             三〇〇
大船渡市 九〇坪全壊 三、一〇〇 全壊大破 五、〇〇〇 一一 一〇、六一八
釜石市             九〇〇
宮古市               九、二四五
久慈市             四四一
山田町       全壊 一、七〇〇 一、七〇〇
  三、一〇〇   六、七〇〇 一七 二三、二〇四

(11) 公用及び公共施設

岩手県下の市町村別公用及び公共施設の被害内訳表
市町村名 区分 庁舎及び附属建物 社会及び労働施設その他被害額(千円) その他施設 被害額合計(千円)
県有 市町村有 鉄道施設 電信電話施設
建物 建物 線路 その他 回線(被害) 電柱 ケーブル 被害額(千円)
被害額(千円) 被害額(千円) 流失(粁―) 被害額(千円) 被害額(千円) 被害額(千円) 電信 電話 (流失) (流失)
陸前高田市 三〇〇     四―〇                     七一〇
大船渡市 三、二〇〇                           三、二〇〇
釜石市 九〇〇 八一                       九八一
宮古市 二〇〇     八〇〇                     一、〇〇〇
久慈市 二四〇                           二四〇
岩泉町         一〇〇                     一〇〇
その他           (国)七、八
(私)〇、八
一二〇、〇〇〇
一、九五〇
三〇、〇、〇〇
二、五四四
一五〇、〇〇〇
四、五〇〇
回線
回線
一、六四三
回線
一、六五一

二六〇

八、四
一〇七、〇〇〇 二五七、〇〇〇
四、五〇〇
一四 四、八四〇 八一 一、三一〇 八、六 一二一、九五六 三二、五四四 一五四、五〇〇 一、六四三 一、六五一 二六〇 八、四 一〇七、〇〇〇 二六七、七三一

(12) 公営企業等関係施設被害

岩手県下の市町村別公営企業等関係施設の被害内訳表
市町村名 区分 水道事業 病院事業 被害額計(千円)
被害額(千円) 被害の状況 被害額(千円) 被害の状況
陸前高田市   給水施設(市分)三ケ所二〇m 二六〇 県立病院浸水 二六〇
大船渡市 一、二〇〇 配水管二九〇m
消火栓五本(市分)
    一、二〇〇
大槌町     七〇 県立病院施設浸水 七〇
山田町 八〇〇 水源地ポンプ     八〇〇
二、〇〇〇   三三〇   二、三三〇

(13) 公共土木施設災害

この津波による公共土木施設被害総額は表に示すとおり二五四個所一九億円におよぶものであった。この内訳は建設省所管一四億円、運輸省所管一億円、農林省所管三億九千万円となっている。

岩手県下の市町村別公共土木施設災害の被害内訳表
市町村名 区分 建設省所管
河川 海岸 道路 橋梁 都市計画
箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円) 箇所 被害額(千円)
陸前高田市 一二五、二〇〇 四六七、〇〇〇 七五、〇〇〇 一、五〇〇     一二 六六八、七〇〇
大船渡市 一二二、三〇〇 三二、〇〇〇 六、九〇〇 四五、五〇九 二四 六、二七四 三九 二一二、九八三
釜石市 八九、四〇〇     一八、〇〇〇 一、三〇〇     一六 一〇八、七〇〇
宮古市 五二、八〇〇 一三九、六〇〇 一三 六七、四六〇         二〇 二五九、八六〇
久慈市         一、八九〇         一、八九〇
大槌町 四四、九〇〇     四、〇〇〇 三〇〇     四九、二〇〇
山田町 二三、四〇〇 六、四〇〇 一〇、六〇〇 一、一〇〇     四一、五〇〇
種市町     五三、八二〇             五三、八〇〇
三陸町         一、二〇〇 二、〇〇〇     三、二〇〇
普代村     二、五〇〇 三、一一〇         五、六一〇
二五 四五八、〇〇〇 一〇 七〇一、三〇〇 三九 一八八、一六〇 一二 五一、七〇〇 二四 六、二七四 一一〇 一、四〇五、四四三
岩手県下の市町村別公共土木施設災害の被害内訳表
市町村名 区分 運輸省所管 農林省所管 合計
港湾 海岸※ 漁港※
箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額 箇所 被害額
陸前高田市     九、〇〇〇 一二、四〇〇 二一、四〇〇 一九 六九〇、一〇〇
大船渡市 二七 八三、〇〇〇     一五、一三〇 一五、一三〇 七一 三一一、一一三
釜石市 四、三六〇 四、八〇〇 二五 三〇、三九〇 二九 三五、一九〇 四八 一四八、二五〇
宮古市 五、七五〇 七、〇〇〇 一一、四〇〇 一二 一八、四〇〇 三六 二八四、〇一〇
久慈市 一、八五〇     七七〇 七七〇 一七 四、五一〇
大槌町         一一 七八、八一二 一一 七八、八一二 一九 一二八、〇一二
山田町     九五、〇〇〇 一三 三三、六三〇 一五 一二八、六三〇 二三 一七〇、一三〇
種市町 五、四〇〇     二一、〇〇〇 二一、〇〇〇 一三 八〇、二〇〇
三陸町     六九、四〇〇     六九、四〇〇 七二、六〇〇
普代村         二〇〇 二〇〇 五、八一〇
田野畑村         四一八 四一八 四一八
野田村         四、〇〇〇 四、〇〇〇 四、〇〇〇
田老町         六〇〇 六〇〇 六〇〇
四八 一〇〇、三六〇 一九 一八五、二〇〇 七七 二〇八、七五〇 九六 三九三、九五〇 二五四 一、八九九、七五三

(チリ地震津波災害復興誌)

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総務課 情報チーム 文書・広報係

電話:
0193-82-3111
Fax:
0193-82-4989

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