復興まちづくり情報

第六節 情報、記録

目次

  1. (一)、初出情報
  2. (二)、遭難記、美談、余譚
  3. (三)、津波体験記
  4. (四)、田中舘博士、貴族院に於ける演説

(一)、初出情報

この突発的な大災害を新聞は、どうとらえたか、岩手日報において、それを見ることにする。

○岩手日報(昭和八年三月三日)

岩手日報(昭和八年三月三日)

(宮古町五時一〇分発)警部補派出所以南の家屋全部二五〇戸流失、船越田の浜方面は全滅した模様、人畜に被害はなく、港内碇泊中の船は全部流され乗組員の生命安否が不明である。

○岩手日報(三月四日)

本社田村営業次長は、新聞社務を帯びて釜石に出張中であったが、大津浪突発の写真を携行、三日午後六時急遽帰社した。

以下其の談である。

「地震があったので、津浪でもあるんじゃないかと皆んな戸外に飛び出した。浜は総出で警戒した人達は不思議な地震だとてみんな一様に不安な予感があった。

然し、今の処津浪が来そうにも見えなかったが、そうしている間に三時頃、突然波の山が盛り上がって、其の山から物凄い青い光りを発し凄惨を極めた。‥‥と見る間に、津浪だ‥‥津浪だ‥‥逃げろ――と云う声が起り、我先にと山手をめがけて逃げ出し、子供は親を呼び、親は子を呼んで阿鼻叫喚を文字通り見た。裏山は急坂且つ赤の土ため這って登らねばならんので、後から来たものは先の者の手足にすがりつくので、少し上れば亦下まで引っぱり下ろされ、引張ってくれ、助けてくれなどとわめきながら、山をめがけて逃げ出した。そうしている間に須賀海岸に発火の原因がわからない火を発し、警鐘がけたたましく鳴り出した。一方場所前にも火災が起り、火事だ火事だと叫んでも津浪を恐れて逃げる人達は火を顧みず、焼けるに任せて安全地帯を目がけて急坂をよじ登った。水は津浪の為に道路に溢れて家財道具は悉く流失し、避難する人達は、火事どころの騒ぎではないと言って、命からがら裏山へと逃げた。消防も流失した家財道具其の他の手の施し様もなく、燃えるに任すよりほかに術はなかった。津浪は二、三十分置き位いに四、五回続けて押し寄せ、其の度毎に避難の人達はドヨめき夜明け迄不安にかられて、漸く五時半頃からポツポツ我家の安否を気ずかいながら山を下りた。消防は、此頃から漸く専心に消火に努力したが其の中に後の山に飛火し、遂に山火事を起した。

三月四日の岩手日報の写真

津浪のため町内に流れ出した品物は大変なもので、身動きもできんほどで、信用組合の金庫は行方不明になった。浜辺には死体累々目もあてられぬ惨状である。」

○岩手日報(三月六日)

寝ずの番で津浪襲来の現場をはっきりと目撃した。宮古測候所の佐々木正三君は、当時の有様を語る。

「最初の地震でハッとした私は、伯父が当直であるため、早速事務室に行きましたが、引続きの地震で、地震計は故障を生じ、記録を取るため修理してから寒さをしのぐため、ストーブの薪をとりに外へ出かけたところ、何だか薄気味の悪るい風の様な音がしてきたので、じっと沖を見ていますと、勿論電気は停電していたので、あたりは暗黒であったのですが、宮古湾の中央向山辺りに一直線の白波様のものが見えたのです。直感的に「アッ津浪じゃないか」と思った時は、既に非常な勢で言い知れぬ圧迫をうけ、見る見る一丈余の波が間近に迫り、思わず事務所に飛び込む。

所員一同も物凄く聞える波のうち来る音に驚きと恐怖におののいていたのでした。

その中に遠くの方から人の叫び声等が無気味に聞こえて来ましたが、全く生まれて初めてあんな恐しい思いをしました。」

○岩手日報(三月七日)

町民を救った三嬢の機転

電話で直ちに急報被害甚しい割に死者尠し

(山田にて松本特派員発)五日夕山田に向ふ、山田町の前、大沢村で中央気象台の本多技師、館沼技手一行の自動車と行き違ふ、田老宮古方面に行く筈。大沢村では県道筋の家並は殆んど倒壊、木材その他がノコノコと山の手に打ち上げられている。被害程度も甚だしく全村約二百戸の中八十五戸の家屋が倒壊しているが死者は一名。

愈々山田町に入る。この夜山田町役場に行くと玄関には高張提灯がまたたいている、役場で被害につき全戸数一千八十三戸の中流失倒壊三百六戸半壊百七十三戸浸水二百三十九戸被害総戸数七百十八戸及び発動機船破損二十艘漁船流失三十一艘、同破損百二十二艘、百数ケ所の桟橋はキレイさっぱりと流失したがこの損害約五十万と調査結果を発表した。これによって山田町の水害は釜石町のそれを遙かに越している、通信機関不通で今まで知れずにいた真相が判明した訳であるが損害が多いのに比すれば死者は僅か十名内外に止まったのは不幸中の幸だった。

津波の夜、地震襲来に山田町民は枕を蹴って直ちに飛び起きたが間もなく大槌郵便局から只今沖が鳴っているから津波が来そうだとの報が山田郵便局に入った、山田郵便局の当直交換手沼崎ツイ子、内館アキ子、湊チヤ子さんらは突嗟に先づ念のため一応再び大槌郵便局に問い合せて見ると今度は電話の音波に乗って津波だ津波だと言う声がかすかに聞こえて来た、この報に三人の交換手達が直ぐさま百余の加入者全部に津波襲来をつげ町民はこれを聞いて時を移さず竜昌寺、八幡神社境内役場等山の手高台方面へどんどん逃げ出したので死者を少なくし得た、大槌並に山田郵便局交換手の気転又偉大なものがある。

○岩手日報(三月八日)

町を救った交換嬢、ちえ子さんあわれ美談の裏に比悲話

(山田電話)死者八名の内最も可哀相なのは、山田郵便局の殊勲の交換手沼崎ちえ子(二一)さんの家族で、兄の海産物商熊太郎(三一)は中風で臥床中の父松蔵(六五)を背負って、境田の自宅から山の方面へ逃げ出す途中水魔に呑まれてしまい、更に熊太郎長男熊次郎(六つ)君は津波と同時に行方不明となってしまった。夫にも拘らず、ちえ子さんは町の人々の為に他の局員と共に郵便局付近迄水が来る迄、通信連絡の為に働いた。遺族は、ちえ子さん母のぶ(五〇)と弟の堅良(一五)、永昌(一二)の四人になってしまった。この健気な女丈夫ちえ子さんの遺族の為暖い救援の手を待たれている。次に仲町菓子商佐々木寿郎(二五)君は常に高台の桜山に別居していたが、その夜実家を案じて下山し、その足で鈴木弥市郎君宅に行くとて去った儘死体となって浮上った、あとの死亡者は皆独り住居の人達で境田の漁夫佐藤亀太郎(五〇)、川向の佐藤丑松(七一)、同石山ゆう(四五)、同高橋なつえ(五八)の四人が犠牲となった。

恐ろしい海嘯襲来の夜、山田郵便局に当直し、大槌局から津波襲来の報を受けるや、直ちに電話各加入者に急を告げて避難させ、家屋被害に比し死傷少なからしめ、山田町民から感謝されている山田局交換嬢、右から湊チヤ子(一九)、内館アキ子(二〇)、沼崎ツイ子(二一)。

三月八日の岩手日報「町を救った交換嬢、ちえ子さんあわれ美談の裏に比悲話」の記事の写真

(二)、遭難記、美談余譚

津波の起った昭和八年頃、当然のことながら、これについての種々の報告、記録等が、相次いで出版された。県内に限って言えば、津波記録の集大成とも言うべき「岩手県昭和震災誌」、町内では、山田小学校編集の「昭和八年三月三日津浪誌」、船越小学校の「昭和八年三月三日三陸津浪襲来状況報告書」等がある。

これらの中から、遭難記、美談、余譚、など拾って、津浪と個人との関りを追ってみた。

○印象 断片 山田小学校訓導 沼崎徳受

△おそろしき地鳴させつつ襲ひ来し

地震の強きにとびおきにけり

三月三日、午前二時半頃――

生まれて経験したことのない大地震が襲来した。あまりの強震に驚き、寝床をとび起きた。家内の者は、わくわく身震ひしている。附近では、戸外に飛び出した者もあるらしく、方方で、がやがや騒しくなった。その中に地震も穏かになり、五分―十分と経つに随って、戸外に飛び出した人達も皆家に入ったらしく静かになった。

△すは逃げよ、山に逃げよと叫びつつ

はや山の手に逃ぐる人あり

大地震後三十分程過ぎた頃である。戸外で再び騒しくなった。津浪だ!津浪だ!逃げろ!と叫びながら馳せて行く者があった。それっ!と、取るものも取りあえず、戸外へ飛び出した。凄寥たる人々の叫声、泣声が夜間に響く。

△泣き叫ぶ声を後にひたすらに

背戸の山辺にかけ上りたり

真暗闇の中を裏手の山畑に逃げ上った。山畑にはもう二、三十人も避難していた。ひゅうひゅう吹き上げて身を截る潮風、襲来する怒濤の轟、半鐘の響、叫声、泣声――あ、何たる凄愴の極みであろう。

△土の上に布団を敷きて脚腰の

たたぬ弟は寝かしめにけり

骨膜災で身の自由を失った弟は恐怖と寒さの為めにふるへている。もう、水はポンプ小屋の辺まで来たらしい。警戒の消防夫等の提灯が水に写っている。

△吹き上ぐる潮風寒き山畑に

大海嘯の夜を明しつる

夜が明けかかった頃、学校に行くべく山畑を降りた。水をこいで行くと上林商店のところに大船が流れて来て、道を塞いでいた。跳ね越えて行くと、半潰の家などが見える。其処此処に鰯粕俵、木材其他いろんなものが散乱している家の中をのぞいたら、諸器物や外から流れ入った木片、鰯粕俵等々散乱し汚水泥土に塗れるの惨状である。学校へ登って行ったら校舎内外に大勢の避難民が居た。跡浜は最もひどいだろうと思ったら意外にも被害が少かった。

△あれ狂ふ濤にうたれて且つ沈み

且つ浮びつつ流れ行く家

夜明けの海は未だ濤荒く水は湾内をぐるぐる狂ひ廻っている。山田、大沢方面の被害は相当大きいらしい。潰れ家と覚しいものが濤に翻弄されて流れているのが遙かに見える。

△田をこえて山ふところの畑には

大きな漁船の打ちあげられぬ

細浦の惨状!鰯粕製造場、納屋は跡方もない。ここに寝ていた母娘三名も行方不明とのこと、溺死したのであろう。尋常二年の昆信子の俤が眼につく――。

遙か田の向ふに打ちあげられた大小の漁船等、織笠へ通ふ旧道へも大きな漁船が打ち上げられて横たわっている。新しく架けた橋も見えない―。湾口から襲来した怒濤と船越湾から浦の浜へ乗り越えた怒濤とが衝突して方向を変へあんな大惨状を呈したのであろう。

△屍を捜す船ならし折々に

方向はかへつつひた走りをり。

(山田尋常高等小学校編「津浪誌」)

○遭難記 山田小学校訓導 鳥居新六

明治廿九年六月、三陸沿岸を襲った津波の記憶は、当時の遭難者にとっては今尚消え去らうともしないかに見える。

私は、物心ついてから最近まで、毎年のように、その当日になると、時の遭難者から当時の津波の災害が如何に悲惨を極めたものであったかを聞かされたものであった。

津波!!津波のそれには未経験ではあるが、その惨害が言語に絶したものであらうの恐怖感は、少年にして既に私の脳裡に重圧的に印象づけられていた。文献にも明らかである様に、過去に於てしばしば津波の来襲した三陸沿岸に住む私達は、嫌でも次に来るべき津波を予想の中において生活しなければならない運命にある。不安な予想、その予想が突如現実の姿となって、私達の生活を戦慄すべき混乱と困惑の中に投げこんだ。

昭和八年三月三日午前二時半頃、私は恐ろしい動揺に夢を破られた。元来、私は地震を恐れる方であるけれども、就寝前に少しばかり飲んだ酒の酔が醒めないでおったので別段に狼狽もしなかった。

――恐ろしく大きな地震だな――そんなことを考へ乍ら、うとうと眠りかけたが慌しい妻の呼声で、

――ただ事ではない!!――

はっきり目が醒めてパッと飛び起きると、表通りの方に人の走る様な物音を聞いた。

同時に

「大槌が津波だぞ、早く逃げろ、早く」

上づった声であった。すぐに

「津波だ――逃げろ」二声三声けたたましくわめき散らして行った人があった。

――来たな――案外落ちついているなと自分を思いながら、妻が真蒼になって二女に着物を着せているのを一寸呆然として見つめていたが‥‥‥

かなり震幅の大きい地震で、たって居かねるほどなのに、しっかり度を失った私は、肌着一枚でキョトンとしている長女を、そのままかつぎあげようとした。

――狼狽るんじゃない――強いて落ちつかうとしたけれど狼狽して、そして呆然としそうであった。手当り次第大急ぎで長女に着物を着せて、しっかりと背負ふと妻にオイとかサアとか言った様であった。

電灯が狂ったように、非常な揺れ方であった。外の方で獣の叫声に似た声がした様であったがその後がひっそりと何の物音も聞えない様であった。

「何をぐずぐずしているんだ」

私は戸を開けて途中で転ばない様にと靴をはき乍ら妻をどなった。妻はタンスの中から何か取り出して、風呂敷包みにして私の懐にねじ込んだ。

「いいか、離れるんじゃないぞ」

手を取り合って、細い小路から表通に馳せ出した。電灯は消えずにいた。声帯でもないのかの様に黙りこくったり、物怪にでもつかれたかの様な姿で、私達の前後を、少数の人々が走って行くのが見えた。

――避難する人数があまり少い――

――逃げおくれたのは私たちや、この人達だけではないだろうか――不安とも恐怖とも言い様のない感じが私を逆上した様な感情に捲き込んだ。

パッと街灯が一せいに消えた。これが私の不安や恐怖を一層大きなものにした。街は無気味な未知の迷路とても云った様な感じであった。遠くの方に遠雷の様な潮鳴りが聞えた。伊藤酒屋の前迄逃げると、今で考えるに、多分第一番目の波であったのであろうか、夜目にも黒々と、まるでコールタールでも流した様にのろのろと川から水が乗り上げてきて私の足を洗った。

――もう駄目かな――

絶望的な緊張した気持ちになって、背負った長女の重みで難渋を感じながら、意志や本能以外の力に作用されでもしたかの様に走った、走った、逃げた、何処の町だか。どう逃げてどこへ行くのか、考える事もなしに、ただ逃げた、ただ走った。足は自然に学校に向いていた。馳せて、めくらめっぽう、そして校庭の入口まで馳けつけて、どんどんたかれたたき火を見た時は、喜びに胸がふくれる様に思へてならなかった。

どんどんたかれたたき火を囲んで、悄然として沈黙を守っている人、無暗に興奮して喋りちらしている人、立っている、しゃがんでいる、歩きまわっている。呼んでいる。こんな人々の群れでざわめいている校庭は、踵接する避難の人達で一杯になった。たき火が一つ一つ増えた。若い者が二、三人づつ組んで街の様子を見に行って帰って来ては、いろんな流言飛語がそれからそれと飛んだ。

――先ず命は拾った――

――若し逃げおくれでもしたならば――

――今頃は死んで居るか、死なぬ迄もろくな目には会っては居まい――戦慄が全身を馳けぬけた。

――助かったぞ――叫びたい様な気持ちだった。さうでもして自分に言い聞かせないと、うまうま避難しおほせた事が信じられない様な気がしてならなかった。極端な緊張から放たれて緩慢んだ私の神経は、理由の解らない焦燥と、甚だしい疲労とに呵責まれた。

――一休みしたい、ゆっくり眠りたい――

そんな気持で家族の者を宿直室に連れこんで火をおこして横になったが、なかなか眠れなかった。皆が無言で長いことぢっとしていると四時の時計の音を聞いた。

「四時だな、早く夜が明けるといいが」独り言を言った時に弟が長靴のまま這入って来た。疲れ切った様な蒼ざめた顔をしていたが、私達の無事な姿を見て眼だけを喜びに光らしながら、家の方は桟橋全部を流失しただけで、家族にも家屋にも別状がないこと、私たちの避難して居さうな場所は方々尋ね歩いたが、見つからないので最後に学校へ来たことなどを語って、何時までも宿直に居れまいから一先づ実家に帰り山手の知人の家で休むことにした方が好都合と思って迎ひに来たと言ふのだった。

私は、実家の方もいろいろ心配だったが異状がないと知ったし、実は一歩も歩きたくなかったのでそのまま宿直に残って、妻や子供達を弟に連れて実家に帰ってもらった。

それから暫らく騒音のために寝つかれなかったが何時か深い眠りに落ちたか校内を馳ける足音で驚いて目をさました。

ぼやぼやしながら教員室へ行くと先生方が四、五人、火鉢を囲んで、津浪の話で持ち切っていた。流失したであらう借家の跡も見に行きたいと思ったが、まづ町全体が如何な様子になったかと学校の後の山へ登って見た。

すばらしい上天気であった。夜中のあの怒号と狂乱、死と破壊とを乗せて荒れまはった海のこれが姿であろうかと怪まれる程、鏡の様に凪いで、おびただしい材木や崩壊した家屋などで湾の大半が黒々とおほはれていた。

境田、川向は一帯の荒野と化し、田一面ごみごみした汚物の推積が見られ、傾むいた家屋、半潰の家屋などが所々に、みじめな姿をさらしていた。

所々に、たき火の白い煙が、ゆらゆらとたちのぼり、蟻の様に、しかし力なげに動く多くの人影を、しばらく茫然として私は見つくしていた。

(山田尋常高等小学校編「津浪誌」)

●美談

船越村田の浜加藤久米太郞氏の長男寅三郞君(十九)は安全地帯に避難せしが、附近岡市三郎氏方にては家族五名、同居人二名共逃げ遅れ家屋諸共流失せしが、同居人藤原半兵衛は鮪建網用竹製の浮朋、電柱、漁船等の間に腹部を圧せられ暗黒の彼方に悲鳴をあぐ、されど次ぎ次ぎと激浪来襲するを以て危険甚だしく、且つ人家少なき場所とて人手少なく救助に向う者なし、此の時加藤寅三郞君は単身提灯片手に声をたよりに現場に接近せしが、第四回目の波来り危険にて近寄る能わず、波の引くを待ちて救わんとせしも大船の下敷きとなり如何とも手のつけようなく、このまま放置せば寒冷と圧迫とより死を待つのみ、救助するには刃物を要すれど流失せるを以て小学校に来り手工用鋸を携へ一名と共に危険を冒して現場に到り、経五、六寸の竹七、八本及電柱を切断して漸く引出せしが此時は全く人事不省に陥りたるを背負ひ来りて焚火して暖を採らしめんも生命危篤に陥り、夜明けて医師の診断を受けしも絶望と言われしが看護宜しきを得て漸く蘇生するに至れり。之れ加藤君の燃ゆるが如き義俠心により救助せられたるものにして引続く大波に、何人も出向うことは困難なりしなり。

船越村田の浜、加藤幸太郞氏次男秀夫君(廿二才)は、津浪来襲を目前にしながら逃げ後れたる幼児を抱えたる一婦人より幼児を受取り婦人を助けて疾走中、遂に激浪に呑まれ婦人は軽傷を負い、加藤秀夫君は引浪と共に海上遠く持去られ、家屋の木材及漁船等の為幾度か打砕かれんとして遂に幼児を見失い全身重軽傷を負い漸く岸に泳ぎ上りたり。自分一人なれば無難に助かりしが一婦人を救わんとして危く一命を捨てんとせり。

又、田の浜佐々木庄助氏三男喜蔵君(十九)は、津浪直後、尚激浪治まらざるに暗夜危険を冒して田の浜区、船越区間の連絡をとりたるため各区の被害状況の大略を知ることを得たり(船越尋常高等小学校編津浪襲来状況報告書)

下閉伊郡山田町の佐藤コツルさん(二五)は、津浪だ!という声に驚いて、永らく病床にある兄を負うてようやく家を出たが、其時はもう漫々たる水が前後に迫っていた。兄はこうしていては二人とも溺死を免れないと覚って、妹に向い「自分は日ならずにして死ぬ身だ、自分にはかまはず逃げてくれ」と促したが、兄思いのコツルさんは之を聞き入れず、しっかりと兄の手を取り必死になって逃れようとした。其中、水は見る見る膝を没し、やがて胸に及ぼうとする。兄は頻に早く逃げよと急きたてたが、そう言われれば言われる程病身の兄が不憫に思へて「兄一人を死なしてはならない、死なば一緒に」と懸命に兄を護っていたが、突然何かに躓いて倒れると同時に兄妹の手は離れた。兄は波に呑まれたのかもう姿は見えなかった。渦を巻いて闇を流れる濁浪の中である。探さうにも手だてがないコツルさんは今は是迄と自ら自分の身を励ましやっと安全な場所にたどりついた。

船越村漁業組合の使丁金沢清吉君(二二)は、津浪の当夜、前須賀海岸の事務所に就寝中、山田郵便局から津浪が来ると言う電話があったので、直ちに田の浜及び大浦部落に特設の私設電話で其旨を急報した後、就眠中の附近民家へ避難するよう警告を与え、自分は一物も携えず最後に避難した。同部落が百八十余戸を流失したのに死者は僅かに一名に止まったのは、金沢君の機敏な行動に依るものと賞讃されている。

(岩手県昭和震災誌)

●余譚

下閉伊郡山田町の阿部喜代治さん親子は、漁に出て大島附近に差しかかった際、最初の地震に出合った。波が余り激しくゆれるので引き返したが、干潮のため自分の桟橋に船を着けることが出来ないので、飯岡漁業組合の埋立地へ回漕中波に追われ、船もろとも押し流された。親子は運を天に委せ手を束ねて漂流している中、喜代治さんは或る人家の屋根に摑まり、子は船に残されたまま親子は離れ離れになってしまった。家はあっちへこっちへ漂流した後、陸地に打ち上げられた。屋根から這い下りて、子の行方を探したが附近には見当らない。もう溺死したものと諦めて帰って見れば、家は流されて跡方もない。家族の名を呼び歩いても応えがない。浦島太郞のやうな気持で、久しい間ぼんやり闇の中に佇んでいたが、夜が明けるとお互に死んだと諦めていた親子家族の無事な顔が揃って、皆々その幸運を喜び合った。

(岩手県昭和震災誌)

阿部 亀太郎

津浪の夜、私は釜石港の桟橋の下に漁船を着けて、其の中に寝て居りました。ミリミリと大きな地震が来たなと思うと沖の方で凄じい音がしました。間もなく第一回の津浪がやってきて私の船が顚覆し、私は木の切れに摑まって桟橋の下を漂うている中、ゴーゴーと凄い音を立てて三丈位もあろうと思う大波が押し寄せて来ました。逃げようたって逃げる暇もありません。私は大波に呑まれてしまい無我夢中で波の下を泳ぎ廻りました。気がついて見ますと、水の中に居る筈の自分が何処かに寝て居ります。手で探って見て倒壊した家の屋根であることが分りました。無意識の中に流れてきた家に縋って、一緒に釜石の町の中に押し上げられたらしいのです。其の中に火事が始まりました。青年団や消防の人々が来て、私をかつぎ上げた迄は分っていますが、後はもう何も知りません。皆さんの手厚い介抱で危い命を取り戻し、翌くる日(四日)津浪後初めての船で郷里山田に帰りました。

(岩手県昭和震災誌)

船越村田代忠平氏の祖母様は病床にありましたが、津浪襲来の報に家人が運搬しようとしましたが頑として聞き入れず、やむなくそのままとしましたが、家屋と共に流され、幸にも家屋の中に海水にも浸れず無事だったと言う。

(船越尋常高等小学校編津浪襲来状況報告書)

(三)、津波体験記

前(二)遭難記其の他は既刊本から借用させていただきましたが、この(三)では、直接、御本人の津波体験を、いわば追想のかたちで御寄稿をお願い申しましたところ、御多忙のところでしたが、左のような精細な、そして確度の高い御記録が寄せられました。厚く御礼申上げます。

1、津波体験記

船越 佐賀昭二 (54歳)

昭和八年三月二日の夜、私は小学校に入学する為に、準備が整ったばかりの新らしい着物、袴、帽子、立派なラランドセル、履物等を、枕許に揃えて、入学の日を指折りながら床に入った。

当時私等が住んで居たのは、船越村漁業組合の事務所で、父が書記をしながら宿直を兼ねていた。どの位眠ったろうか、父母のさわぐ声で、目がさめるとものすごく大きな地震で、建物が、グラグラと、ゆれていた。非常に長く感じられた。

おそろしさの余りか、私には、二度も三度も地震がよったという記憶がない。ただ非常に長い、大きな地震だとしかおぼえていない。

そのうちに浜を見にいった父が戻って来て、「なんでもなさそうだっけえ。ねろねろ」と言いながら落ちたもの等をかたずけて床に入ろうとした時、電話のベルが、けたたましく鳴った。今でこそ各戸に電話があるが、当時は、船越には、村役場と漁業組合にしかなかったのである。受話器をとった父が、次の瞬間「大槌が、津波だ」と大きな声で言った。

そして金沢さん(元船越漁協参事)に近所へ通報させると共に、自分も大声で外へ「津波だあ―」と何度も怒鳴った。

地震があってからこの時迄三十分位なもの(母の話)だったろうか。金沢さんに背負われて、湾台へ逃げたが、やっとの思いで、高台へたどりついた時、第一波が来た。逃げる途中で聞いた子の名を必死に呼ぶ声や、悲鳴等が、今でも耳の底に残っている。

後日の父母の話。津波の数日前に、父が新らしいポータブル蓄音器を買ってきたが、逃げる際に、その蓄音器に、手を掛けた。けれども、組合のものを何一つ持ち出せない時に、こんなものを持っては物笑いの種と放り出してしまった。そして母が私の着物を手にしているのを見ると「何も持たなくていいから早く逃げろ」と言った。言われると母も折角手にしていた着物を放り出して逃げたと言う。後でとても口惜しがっていたが、そのおかげで無事だったのだから、どこに運があるかわからない。組合に大きな金庫があった。それが三浦医院の下のタンボ迄、建物もろとも、押し流されていた。直線距離にして、三百米位もあろうか。おそろしい程のエネルギーである。

間もなく海軍の軍艦が救援物資を積んでやって来た。古着が多かったけれども、暖かい物資の配給をうけて、子供心にもどれ程嬉しかった事か。入学の為に買ってもらった、ランドセルを流してしまったので別に買ってもらったが、前のに比べて、いささか粗末なものだったので、内心不平だったけれども、口に出せず、我慢して過した事が、今はなつかしく思い出される。それから今でも不思議に思うのは、津波の数ケ月位前だと思うが、子供ながら、その時すでに津波の恐ろしさを何かで知っていて、今にも津波の来そうな予感におびえながら、父に「津波あ、こながべえが?」と問いかけては、「ぜってえ、こねえすけ、しんぺえすんな」と、返事を聞いては、安心すると言う事が、何回かあった事である。それは、私だけでなく、一緒に遊んだ子供達も、津波が来ると言う事を口にして居た。子供には何となく予知能力があるのかも知れない。

ちなみに、電話で各地へ津波の通報を入れた交換手嬢は、その働きぶりをみとめられて、表彰されたということである。

山田 木村保 (70歳)

昭和八年三月三日午前二時三〇分、三陸沿岸地方は震度七の強震があり、三分位続いて二回で、三回目より震度は下ったが、世界の地震史上最大の規模であった。遂に三〇分後の午前三時過ぎ三陸沿岸に大津波が襲来した。山田湾内の町村の被害は明治二十九年の津波に比較すれば僅少であったろうが、山田町では犠牲者七名、流失と全壊で三百二十戸以上となっている。船越は犠牲者四名、流失全壊二百二十戸以上。大沢は犠牲者一名、流失全壊で百戸以上と記憶されている。織笠は此の津波の場合、地理的であったのか流失家居一戸程度で被害少々で済んだようだった。津波の規模は最大のものとなっているとは言え、山田湾内で犠牲者が十二名も出たと言うことは、一旦避難には向ったが大事な物を忘れたと家に戻った人達が半分だった。

山田の街は南町半分より南方境田まで全壊流失してしまった。今は立派な街に整理されているが、昭和八年の津波当時はまだ飯岡地区は全面田と畑であった。今は何所に当るか飯島と言う小高い森があった筈だが、昔はその飯島まで海だっだそうだと古老達は言っていた。其の飯島の前まで家財道具やこわれた家が打上げられて大変災となった。無論境田川向の街形は少しも無くなった。

当時海辺は石垣を簡単に積んだ程度であったが、流失してしまって陸と海の境は何所かと思うような箇所も出た。飯島の前の田の中に流れ込んだ家財道具等は泥だらけになってしまった。それを泥だらけになって自分の物を探し回って居つた罹災者達は、自分の簞笥を見つけて開けて見ればからっぽだったり、泥棒に遇ったと悲鳴を上げて居つた罹災者もあったそうだ。予想もしなかった大津波に一瞬に我が家を奪われ、共に親兄弟を失なった悲惨な現状は体験者でなければ想像がつかないと思う。罹災者達の中には再建の道は全く立ちませんと目をくもらせて居つた罹災者もあった。全く津波は恐ろしいと何んとなく上を向いたら驚いたことに、電線にわかめや海草などが巻き付いて風が吹いても落ちようともせず、津波は電線まで届きましたと証明してあった。津波の恐ろしいことは体験者でなければ想像がつかない。

昭和八年の津波当時は、まだ山田線も通って居らず、境田、川向は現在の様な街巾ではない。津波の襲来してから街巾も整理されたが、何ケ月も淋しい感じだった。何ケ月か電気も所々に淋しそうにぼんやりと付いただけ、津波の襲来した後を何年か見つめて居ったが、淋しい街並となり夜は人通りも余り見られずひっそりと静まりかへっていた。

昭和八年の津波が襲来してより川向境田の街巾も整理されて現在の街並になった。罹災者達の中には津波に合って家は流された外に、今度は屋敷を道路に取られるのかと役場へ苦情を訴えて居る罹災者も沢山あった。

三月三日の津波であったから春気分ではあったものの、まだ肌寒い寒風が吹いている季節であったので、津波で簞笥を流した罹災者達は着たままの人達もあり、何より衣料品に困った。だが数日経って全国の同胞より次ぎ次ぎと救援物資も届き配布されるようになり、罹災者達の顔色も段々とよくなって来たが、思い思いに親戚に身を寄せ合って家族もろ共に災難にあっている。又何所かの納屋に仮住居をして居る。人家の被害の残材を集めて仮小屋を建て、しょんぼりとして居る罹災者達の中には、誠に哀れな場面も見られた。こんな哀れな生活をすることになって、いっそ母と共に行けばよかったと涙を流して居った罹災者もあった。予想もしなかった津波のために生まれ変って、再建に努力出来るか出来ないか半信半疑の思いで只呆然として居った罹災者もあったが、津波のために病いに倒れた人もあった。

山田湾内で犠牲者が少なかったのは、当時の電話の交換の女性達が津波の襲来の速報を知り、山田湾内の町村に避難の連絡を取ったためもあると記憶されている。山田湾は斯様に恵まれた湾であり乍ら、津波が来るのはどうかと云って居った人もあった。津波が襲来しても大したことがないだろうと思うことは大間違いだ。津波の規模は知ることが出来ない。山田湾内の町村の人達は避難が早かったから犠牲者も少なかったが、田老の場合はどこと連絡を取ることもなく大地震だから津波だろうかと思ったが、余り津波が来る気配もないからと、又布団の中に入ったばかりで津波が襲来したため大惨事となって九百数十人、千人近い犠牲者が出た事になって居る。

亦田老の場合は地理的にも昭和八年の津波には直襲されたと田老の人は話していた。田老は高台に建ってあった家だけが残って、まさかここまでかと思う所まで流されてしまった。犠牲者は家と共流してしまったと驚ろいていた。田老に津波の翌年行って見たら、恐ろしい事に山田なら大畑位の所まで津波が上り、立木なども倒れてあった。これまでこんなに津波が上るなんて信じられませんなと言ったら、田老の人達の話では他町村からおいでの人達は皆驚ろいて見ますと言っていた。

明治二十九年の津波でやっと町並が出来たと思つたら、今度は昭和八年の津波に襲来され津波の後仕未ばかりして居るようですと、田老の古老様は言っていた。明治二十九年の津波には山田では一家全滅となった家が三十数戸あったと聞いている。昭和八年の津波には田老では何十戸かがあったらしい。津波は忘れた頃にやって来る。予想もしなかった津波に一瞬にして地獄化した昭和八年三月三日は、我等は忘れようとしても忘れることの出来ない日である。三月三日と言えば、当時はまだ旧小正月気分であり、のんびりとして居った時代の惨事であった。

昭和八年は満州事変も起きたり、世界は何んとなく身の引締るような年であった。我々の時代に又津波が来なければよいがと考えて居る中に今度はチリ津波が襲来して、我々を恐ろしい目に合わせた。然しチリ津波のような津波は別と考えるべきではないだろうか。昭和八年の津波が又襲来することは覚悟しなければならないではないか。昭和八年の津波当時は今のような交通の便のよい時ではない。自動車だって数の少ない時代で、電話も山田湾内に百三十六しかない時代の大惨事だった。今の社会人には考えられないだろう。物資の配給をするとしても、荷車や背負いかごで運んだり、津波でごったがえし泥だらけになった物は関口川で洗濯したり、無論境田川向の用水井戸など使用することは出来ず、関口川と西川の水をたよりにして津波の後仕末をした時代であった。あの時の姿は今になって見れば信じられない気がする。境田川向の罹災者達の住宅の復旧に数軒に助勢したが、其の罹災者達の中には家は建てたが何もない。食べて寝るだけで仕事に出かけようと思っても何も無い。するめを釣に出るにも道具も無ければ舟も足りないと言う仕末で、口を揃えて津波にだけは会いたくないと涙を溜て居った。「人間は生きて行くには困難と苦労は付きものだよ木村さん津波のために様々な体験をしますよ」と夜になるとこれから先の生きる道をお互い話合って、寝るのも忘れるより寝ても眠れないことだった。明治二十九年の津波は親達時代で親達の苦労が此の津波でしっかり目に見える様な気がしますと言う罹災者もあった。明治二十九年、昭和八年と津波を二回も体験した古老達は何んと言っても津波にだけは会いたくない。だが漁師で生活するには此処でなければならないし、災難は忘れた頃にやって来ることは覚悟で居らなければなりませんと言う体験者もあり、私は罹災者達に同情して昭和八年の津波は貴重な体験であります。お互い努力致し合って一日も早く再建の道を開き、幸せな生活を願いますと夜になれば罹災者達に加勢して上げたこともあった。

昭和八年の津波が襲来してから今年で四十九年も経っているが、あの恐ろしかった津波も今はもう忘れ去らんとしている。いや体験者達は忘れることが出来ないと言っていた筈だ。困難と苦労は何年たっても忘れることは出来ないだろう。あの当時は幸いにして出漁すればいくらかするめが釣れた。たまには大漁もあったりして、罹災者の方々はほとんどが漁師であったから、するめを第一の生活の資本として居った時代だったから生活はどうにか生き抜いた。二人、三人集まれば津波での苦労話になり、先づ互いに励まし合い助け合い努力して生き伸びましようと話り合って居る中に、ほろりと涙を落したりする罹災者もあった。津波のため再建に努力して居る中に健康状態が悪くなり倒れた人もあった。

明治二十九年の津波には伝染病も発生して折角助っても病いに倒れた罹災者も出来たことになっているが、昭和八年の津波の場合は幸いにして斯様な伝染病など無くてよかった。現在のような水道の時代ではないため、津波があれば伝染病が発生したことだったと思う。津波は忘れた頃にやって来る。これでは駄目だと昭和九年から着手して立派な防波提が出来たが、此の防波提が昭和七年頃にでも出来てあったら、あんな大惨事は僅少で済んだろうと思った人は沢山あった。津波が襲来しても惨劇、悲劇を出さないようにお互い自覚しなければならない。津波が襲来すれば町の発展は数十年の停滞を見るようだと古老達は言っていた。地震が起き、津波警報が出れば昭和八年三月三日の津波の朝が思い出されます。

当時山田町の人口は六千八百余人であったが、罹災者の大半は漁師の方だった。今の山田湾漁業協同組合は、当時は飯岡浦漁業組合であったが、組合長郡司幸次郞氏は罹災者漁民の再建復興に決死的努力をされた。又石川敏蔵町長も罹災地区の区画整理等、復旧を一日も早く進行すべく寝食を忘れ、奮闘努力されたことは当時の山田町民が記憶して居る筈である。

織笠 鈴木伊勢松 (79歳)

災禍は忘れた頃に起る。其の間隔は凡そ三十五年乃至四十年位である。時に昭和八年三月三日午前二時三十一分に三陸地方を襲った強震並びに津波は諸君と共に忘れ難き惨事である。今其の記憶を辿り乍ら追求して其の津波の実態を明記するものであります。

私が思うに惨事の起きる前日前夜迄、例年に変り無く春麗な日和が続く中で斯の様な惨事が起きるとは思わなかった。勿論お釈迦様でも知る由もなかった。私は前日二日早く海苔仕事を終え、乾燥した海苔の後仕末を済まして帰宅の途中、いつもの様に明日の気象を眺ると、それは静かで四方に光く星空が明日を励まして呉れる様な気配がした。処が其れも束の間、南東に棚引く淡い雲が現れた。そして砲煙が上る様に見える。すると不図も何んでもないのに哀愁を禁じ得無い心境となり噫嫌だと思った。帰宅して妻にその事を話したが、妻は話に乗って呉れないので私事にして床に着いた。それから睡眠すれば夜は更けて寝返りし乍ら、うちうちして居ると物凄い音が山鳴をして来るので、之れは大地震だと察知した。豈図らんや瞬間にして軽震から強震と約六分に及んだ。其の震動は十勝沖地震は比較にならない程で、立って居るのも容易ではなかった。棚の鍋、茶椀に至る迄落ちた。私の住宅は海岸より約二百米位離れた丘で、海抜約二十米の地点であっった。先づ海嘯には余り心配する処では無かったので、家内共に着物着せて避難の準備をさせ、直ぐ下にある昆文穂氏庭にある岩井戸に行って様子を見ると祖父母の教えた通り井戸の水は空空であったので、家に引返して津波が来ると言うと間もなく停電となった。すると気味の悪い船越の方から聞ゆる慟哭の声が手に取る様に聞えるので、思い切って津波だぞと叫んだ。

此の事からして考えれば、此の津波は南の方が早い事が分る。私が叫んだ時は最早釜石方面は津波が襲来している事が分る。私が津波だと叫んだ時二時五〇分頃だった。跡浜の人の大半は私宅の庭で焚火燃して時の過ぎるのと待つ老人や子供等は家に入れて休ませた。夜が明け渡る頃にはポツポツ各自が帰って行った。其の後私は海岸に行って様子を見ると、舟は一艘も無く、漁具も勿論なく、道路は障碍物で一杯だった。お待ケ鼻に近寄りに電柱の電線に沢山の塵芥が附着して吊り下っているのを見て津波の水位高さが分った。海面から約十二米位はあった。此処は海に近い出鼻で山も高い事から分に盛り上って居る。私の推測では此の津波の港内の速度は凡らく六十粁と鑑定した。細浦の関門で北側には伝作鼻と相対し細浦を形成してる処であり、元来船舶の避難の場所として利用されて居た。処で此処に弐艘の発動機船が沈んで居った。此の船が細浦の奥約千米地点まで移動して阿部久三郞氏の畑地に乗り上って居た事は私の見た事実である。細浦の中間にあった昆徳七氏所有の倉庫は浸水四米と津波の速度六十粁位の煽りを受けて一瞬にして流失されたのである。却説此の中に昆徳七氏の妻ミサオ三十三才、長女ノブ子九歳、三女サキ子二歳の嬰女が寝て居り、あっと言う間に流されて遂に溺死した。生憎父徳七氏は此の夜礼堂に泊って居た。次女昆ミカ子様は昆徳七氏の実家の祖父母の家で父の帰りが遅いので此処に泊ったので死を遁れた。

ともあれ翌日三人の死体を捜しに跡浜総出で綱等を打って、而かも三日間に亘り捜索したが、遂に見つけず打切った。其れから百日が経ちました。恰度百日忌に当る日ミサオ様の死体が発見されました。既に腐り果て浮んで流れて居る処を発見され、続いて三女サキ子が発見され、長女ノブ子は遂に発見されず海底の藻屑となった訳であります。発見された仏は家族達に依って手篤く葬られました。併せて竹内雄太郞氏の父竹内留三氏も此の津波で亡くなり、併せて四名の溺死者を出しました。

皆摘んで申上ぐるならば、此の津波は震源地は金華山沖三〇〇粁、マグニチュード八度位の大地震で明治廿九年の地震マグニチュード七・五より一寸大きいと云う。然るに規模は震度の少ない明治廿九年の津波は遙かに大きく、昭和八年の津波は反対に規模が少ない。之れ等はいづれも日本海溝の断層裂落の格差に他ならぬものである。此の事は海底火山に依る爆発力に比例して相違が異る。主として三陸沖三〇〇粁地点、水深タスカロラ海溝に臨み約五、五〇〇米であると云う。之れ即ち地震と津波は付きものであるが、海嘯は直接的と間接とに考え理解を深めなければならない。これ迄は直接的な事のみ申上げた。間接的なものではチリ津波である。チリ津波は何の前触れも無く襲来したが、それとて元々チリではマグニチュード七・五度の地震が観測されて居る。日本とは地球の裏側に当り、一〇、〇〇〇粁も隔ている地震等分る筈はあるまい。時速三七〇粁で太平洋を横断して東北地方沿岸に大きな被害を齎した。幸に朝から昼の事で港内で時速約三〇粁と私は推定した。浸水家屋の多くは海辺では屋根迄届いたが、流失少ないのも速度と圧力が少い事にある。

大沢 千代川栄雄 (67歳)

昭和八年三月三日午前二時三十分頃、地鳴とともに大きな地震が揺れ出した。初めの中は今止まるか、止まるかと思っていたが、とまるどころか益々大きくなり、揺れ方も土の底から上に突きあげるように上下に揺れて家が潰れそうなので、これではだめだと思ってはね起きようとしたが、なかなか起きられなく、やっと起きたが、何かにつかまらなくては立っていられない状態で身動きが出来なかった。

地震は止まることなく、長く大きく揺れるし、家が潰れるのが、今か今かと思った事が二度三度あった。十分位揺れたが、その十分が三十分にも四十分にも思われた。

家では電灯をつけていたが、小部屋にはランプもつけていた。そのランプの芯が燃えあがって火事を出しそうなので、ランプを消さなくてはと必死の思いで消し止めた。やっと地震が止まった。ほんとに長い長い地震で生きた気がしない息がとまるような恐怖の瞬間であった。この地震で皆が震いあがって言葉もできず、歯がガクガクして鎮まらなかった。

父が「みんな起きろ」こんな時には何が起きるか分らないと言ったので、起きては見たが心の動揺は激しく、何をする気にもなれなかった。私は海の水を見ていうと言われ、海岸に出て海水の変化を監視した。

津波は海水が一旦引いてから来ると教えられており、あちこちの浜に人影が集まり、海水の増減に変化はないかと、固唾をのんで海を見つめていた。この夜は殊のほか寒く、とても立って居られないので、数ケ所で焚火がたかれ暖を取りながら監視を続けたが、薄気味悪い夜であった。

空を眺めているうちに、空の状態が普通でない事に気がついた。東南大浦と小谷鳥方面の空が昼のように明るく、月の出の明るさとは違い、銀色と白色に似た真昼のような明るさで、こんな空は初めて見たという人ばかりであった。太陽が水面より出る時のように明るくまぶしく、今の水銀灯のような光で約二十分位は、ひかっていたと記憶している。あの光が何であったか、津波と関係あるのか謎の一つである。

三十分程海水を監視していた人達は異常のないことを確め、各自家に戻り、海に変化のない事を報告し家族を安心させた。

父も地震がしてから三十分過ぎているから津波は来ないだろう、餅でも焼いて食べて寝ろと言った。旧三月正月にお飾りに使った餅が残っていたので、水木ダンゴと出して焼いた。

私は夜が明けると若布苅りに行くから食べないで寝ると、床にもぐり込んで、まだ眠らない中に海岸の方から「海の水が引いた津波が来る逃げろ」と、かん高い声で二度叫んだ人があった。

さあ大変、津波が来る、命はてんでに守れ、明治の津波に酒に酔って寝ている人を起して逃げおくれ死んだ人もある。高い小学校に逃げろ、逃げる途中人にはぐれても家に帰ってくるな、誰かについて高い所にゆけ、何も持たなくてもよい。早く早くと、せき立てられ、そのまま逃げ出した。

小さい子供達を先きに、私も一旦逃げたが、父が病気で医者にかかっていたのを思い出し、家の角口まで引返した。どうしたのか残りの者が出て来ない。母が末の妹を背負って戸口でころび、起きられなかったので遅れたとの父の話で、私達四人は後から逃げた。

暗さは暗しあかりはなし、前を走っている人は誰も声を出す者はない。ただ黙々として駈けていた。途中今の診療所の処で小休止した。その時海の方から、からんころんと石と石が打ち合って出る音を聞いた。また石に鍋や釜を投げて、こわれる音のようにも聞えた。それは津波の引け水による、石が低い方に転ぶとき起きる音であった。津波の引け水がいかに強いかを物語る証拠でもある。

小学校の坂道を登る頃より、人声が聞こえた。親が子を呼び、子が親を呼ぶ。校庭に着くに従い益々激しくなり、阿鼻叫喚となった。

ようやく小学校の高台まで着き、やれやれと胸をなでおろした。ここまで来ればもう大丈夫だ。ここまで津波が来て流されるようでは大沢も全滅だ。みんな安心せよと言ったので安堵した。

あたりの高い所を見ると提灯の灯が見え、叫び合う声が聞こえた。八幡の森も、高屋敷の稲荷の人も、これで大方の人が津波に追い付かれないで済んだなあと思い、ばらばらに逃げた人達の安否を確めあい安心した。

午前三時十分頃、ドカンと云う大砲の音に似た大きな音がした。あたりは暗くて何も見えない。今の音が津波だと教えてくれた人がある。身震いが先にたち何が何んだか分らない。

その音のした方を見ている中に、山田境田辺の電灯がつぎつぎに消えて行くのが見えた。

これが津波の第一波である。そして五十分位経てから今度は前よりも大きい波の音とともに家の壊われる音が聞こえた。その時、下から駈け上って来た人の話によると、今二番波が来て海岸沿いの家が流されたと云う通報であった。

私の家は大沢の中央よりやや西の寺川の海側にあったので、うちも駄目だなあと思った。津波の襲来時間は約四、五十分位で、一番大きな波は二番波であったそうだ。

夜が明けてから分った事で、津波を実際に見た人は大沢で十人位ではなかろうか。暗いのと皆逃げたので津波の恐ろしさを目の当り見た人は少ない。

夜が明けて津波の押し寄せる回数が少なくなってから我が家はどうしたのかと、かたづを呑んでおそるおそる学校の高台から下りて来た。海岸近くの家は流れたり壊われたり、それも元の処にはない。三軒も四軒も離れた所に行っていたり、桟橋の壊われたのや惨害家財道具の散乱の山、鰯粕の濡れたものや粕玉で足の踏み場もなく、おまけに水溜りが所々にあって、我が家にたどり着くのは容易でなく、少しの物音にもびっくり腰で落着けなかった。やっと到着してがっかりした。屋敷内には何もない。きれいさっぱりと流されて行った。

残ったものは栅に引掛っていた網切れの一端と薪が二、三片、石臼が一つ、家は流れて何処に行ったものやら、それに親類のおばあさんが泊っていたのが、どうなったか心配でならなかった。

親類の人が集って手分けして捜索したが、初日の日は見つけ得なかった。物を捜すどころか人を捜すのが先決であった。

捜し廻ってる間に自分の家を見つけた。百五十メートル位離れた、よその家を通り過ぎた裏に、柱はみんな折れ、差物(材料の一部)だけと屋根が残ってちょこんと座っていた。

それから三人で中に入り、もしやおばあさんが居ないかと、恐る恐る探したが、おばあさんは居なかった。

午前六時頃、大きな軍艦が山田湾に入港し大島沖に投錨した。三陸津波の通報を受けて罹災救助に出動したと知らされ「ありがたく」涙が出るほど嬉しかった。

上陸して壊われた家を片附けてくれたり、道路の障害物を整理したり、食糧品や毛布、衣類等を支給した。隣村の豊間根消防組や青年団は暗い中から半鐘を鳴らし人を集め、罹災者救援に駈けつけ救助作業に協力してくれたし、津波の情報を新聞で知った全国のみなさんから温い慰問品がそれから毎日とぎれることなく続いたので、お蔭様で衣食に不自由することなく飢え死にしないで済み、復興に精出せたのも皆さんの心からの善意のたまものと深く感謝しました。

津波三日目の日は寒い、みぞれの降る朝だった。おばあさんに似た死骸があがったと教えてくれたので現場に駈けつけた。母も一緒に行き莚をとってよく見た。まさしくおばあさんであった。昨夜まで一緒に話しあったばかりなのに、余りに変り果てた姿に涙がとめどもなく出て、声もかけ得ず感涙にむせび泣くのみであった。親類の人々と相談して葬式を済ませ冥福を祈った。

この朝生まれて初めて海の凍るのを見た。渚にみぞれと氷と一緒に雪が漂流していたが、やがて写真で見る流氷のように渚から凍ってゆく。人が乗れる程ではないが、一面に張り出していた。津波以来海に氷が張ったのを見た事がない。このも稀に見る現象と記憶に残っています。

つぎに津波の被害情況を簡単に書きます。

海水の浸入は八幡宮の鳥居から西北は旧県道に沿うて今の新開地道路下まで、田圃は中谷地半分まで、大沢川の両側については居磯権現まで、旧中学校の川藪には定置漁業で使う魚捕のとりゐが止まっていた。

柾屋小路は旧小学校の土堤下で、高屋敷小路は高屋敷の石垣までで青去の田圃にはイカ釣船の五トン、十トン級が数隻打ち上げられていた。

家財道具については大きな波が五、六回も来たので、下条の物が川向に、上条の物が下条にと入れみだれてあがっており、自分のものがどにあるのか見当がつかなかったが、大部分の物は海に流され何処に行ったか分らなく、小船もなくただぼんやりと眺めるだけだった。

殊に粕玉、粕俵については型、厚さ、大きさ皆同じであったから、各所でトラブルがおき騒動がたえなかった。

当時の水産業は冬期のことゆえ、イカ漁は休漁期であったため漁業の被害は少なかった。鱈及び鮫縄は宮古港を根拠に出漁した船が数隻で、養殖は海苔養殖が多く、のり道具の被害は多かった。

カキ、ホタテの養殖は、どこでも養殖しておらず、天然の若布はこの年は豊作であり、一回苅った跡でも十日もすればすぐ生えて苅られたし、最終期には、めん棒を使って満船するほど積んで来た。

この状況を後世の人に伝えるため建立した三陸大海嘯記念碑につぎのことが銘記され、旧小学校校庭の東南にある。

碑文の一部

「昭和八年三月三日午前二時三十分上下ニ動揺スル強震アリ続イテ三時頃ヨリ大音響ト共ニ大海嘯ノ襲来アリ三時十分頃最モ被害アリ

大沢村ノ流失戸数七十二戸半潰三十三戸、溺死者一名」(以下省略)(朝日新聞社寄附ニヨリ建立ノ旨ナリ)

大沢村長大久保喜重治

●津波についての教訓

一、大きな地震がしたら海水の引け具合を見て津波を判断せよ。水の増減差により津波の大きさが分かる。

一、海草のゴモが生えなくなったら気をつけろ、ゴモの生えない年には津波が来るのが多い。

一、地震がゆったら井戸水を見ろ、井戸水が涸れたら、津波が来ると思え

一、津波は地震がしてから起きるがユダは地震がなくても津波は来る。

(ユダとは外国で起きた地震により起る津波で、日本では地震を感じないが津波は来る。)

昭和三十五年南米チリ地震津波がそれである。

豊間根 佐々木兼次郎 (69歳)

三月三日、その日は山田市日の日だった。高台の山々には雪があり、その頃は零下をくだる寒い頃だった。私は当時豊間根村長内の外舘清之助氏が鉄道枕木の事業をして居り、その時、川代山に枕木取りに清之助氏の次男外舘豊吉さん(当時二十四歳)と一緒に仕事に行っていた時のことだった。

当時の川代は、交通が不便で船が物を運搬する頃でした。部落には加倉神社という神様があり、下に番屋がありました。第一回の地震と同時に部落の人達は皆起きました。そしたらおかの水が引けていました。沖の状態は良く波のけしきはなかった。「又ねやんすべ」と皆と番屋に帰り寝た。でもねむっていなかった。津波はそれから約四十分頃やってきた。笹山に火がついたような音が聞こえてきたので、寝巻のまま夢中で逃げました。波にあたったりして、半分死んだようになり、気がついた時は神様の近くの高さ十一尺位のくるみの木に靴を片っぽもったままぶかさがっていた。靴は津波の時はいて逃げようと思い準備しておいたものだった。水の高さは三米位上った。分校の高台まで上った。この津波で川代では六人が流され、三人死んだ。同郷の外舘豊吉さんも津波に流され死んだ。一週間死体をさがしたがみつからなかった。

私は津波にあって感じたことは、津波が来る時は水が引けていく、その時は逃げること。逃げる場合、逃げやすいと思って川沿いに上っていく事は危険である。水を飲んだりしたら医者の診断を必ず受ける事。潮が引いた時、魚を拾って食べない事。津波の直前には下らない事。又、自分の持物にはしるしをつけておく事。流された時の所在の確認の為此の様な事を痛感しました。私は津波の水を飲んだ為か、体がはれて五年位病みました。

2、昭和八年津波に際し、一身の犠牲も顧みず、津波襲来の予報伝達に挺身した当時山田郵便局勤務石村ツイさん(旧姓沼崎)、菊地アキさん(旧姓内舘)、東海林チヤさん(旧姓湊)、御三人にお願いして左のような御玉稿をいただきました。御三人に対し心から感謝申上げます。

石村ツイさんの写真

当時山田郵便局勤務

田の浜 石村ツイ (68歳)

忘れもしない昭和八年三月三日午前二時三〇分電気も消え震度七の強震あり、三分間続いた。道路はいっぱい津波々々で恐ろしく叫んでいく。私は当夜山田郵便局で交換手で宿直勤務でした。一番から百三十六番まで責任が重い重大と思って逃げませんでした。大槌の佐藤さんに様子を聞いてみたら津波だと言って、逃げているとの返事でした。途方にくれて局長(八木万次郞)さんに指示を求めたところ、動揺しては困るから暫らく静観と云う事であったが、津波襲来と言えば瞬刻も猶予出来ないと思い三人で相談した結果、至急速報することを決め、一番から順次“急いで避難して下さい”と連絡しました。一三六戸の電話加入者があり、普通ならば全戸連絡に一時間以上要するが、無我夢中でした。二〇分間位で一三六番最後の連絡は船越役場であったと記憶しております。

翌朝第一番の金たかの御主人に、夕ベの交換手は誰かと聞かれ、次々にお陰で助かったとお礼をいただきました。自分の家が流れたことも、亦姉の主人親子が海苔のカンバの下敷になって溺死したことも知らないで、一週間郵便局で寝起きしながら勤務いたしました。一週間目で家に戻ったら、境田は砂浜のため水が一度に上って家もこわれ、人命は思ったより、すくわれたかと思います。世の中は非常時(満州事変)であり、亦若さでもあったと思いますけど、よくみなさんと共に頑張ったものだと、今年老いてつくづく考えさせられます。

文明分化の時代で、其の時代は電話もハンドルで精一杯でした。ハンドルを廻わしたことが実に光栄でした。今の時代はボタン式です。時代の波にさからって私も生きております。二十歳の時代と今の六十八歳の時代、私も少し考えてもう少し人間一生の基礎を築きたいと思います。

 

菊地アキさんの写真

当時山田郵便局勤務

田の浜 菊地アキ (67歳)

昭和八年三月三日、突然の大きな地震でとび起き、津波が来るのではないかと感じました。幼ない頃、母親から大きな地震があった時は、津波が来るから高い所ににげる様言いきかされて居りました。

それが突然思い出され、市外の様子を聞いてみたらと思い大槌局を呼び出して聞いたら、町では津波が来たと言って騒いでいるとの事でしたので、私達三人も早く加入者に知らせてあげようという事になりました。

それから私は局の下に降り、郵便物を袋に入れ荷車で避難させたあと、おろおろして出たり入ったりしている内に、二番波到来らしく、川向もやられたと言って通る人もおりましたが、局は床下浸水になっただけでした。三番波も終り、避難した人達が帰りはじめても余震は時々ありました。

薄暗い内から電報の受付、東海林さんはじめ送信、受信で局内は大忙しでした。

十数日後、ようやく自分の家の荒れあとを見に行き、ただおどろくのみでした。

父と姉が病気の母をおぶって早く逃げてくれた事が、一番うれしく思いました。

チリ津波、十勝沖津波は昼でしたので、海のそばに住んでいる私は、津波の来る様子がよくわかりました。

大きい地震、外国から来る津波等、どれをとってもこわいと思います。

 

東海林チヤさんの写真

当時山田郵便局勤務

山田 東海林チヤ (66歳)

宇宙何億年の間から見れば何十年ぐらいは一瞬の間と言いますが、後日談をと求められ、まさに昨日の出来事のように思われ、その当時の事が走馬灯のように思い出されて懐かしい、それにしても十九、二十歳で(今流に言えば十七、八ということでしょうか)よくもあれだけの行動ができたものと感慨ひとしおである。

地軸をゆるがして鳴動する大地震に、今や交換台も崩れんばかりの揺れ方に一時は階下に退避したが、こうしてはおられないと、再び交換台の場に立ち戻った。直ちに宮古局(回線経路上一番早く出る)コードを差し込んで聞いたら、田老方面に海鳴りがしているらしいとのこと、すぐそのことを大槌局を呼んで知らせると共に大槌の様子を聞いたら、大槌は特に変化は無いようだとの返事だった。再び宮古局と情報のやりとりをするなかで、被害の状況はもう遅疑しゅんじゅんを許さないように切迫しておると感じられ、すぐに大槌局に通報すると同時に(新聞記事では大槌局から山田局へ知らせたとあるが、これは逆で、山田から大槌へ知らせた)沼崎、内舘さんにはかり加入者におしえることにし、機をうつさずに手分けをしてコードを差し込んだ。加入者と交換手の対話による電話から、中には何を夢見てこの時間に津波なんかくるものか、うわ言を言ってるように嘲笑する加入者もあった。津波の襲来は目の前に迫って恐怖の危機感におののき乍らも、早く避難をと告げてるのに、それは又どうしたと言うことでしょう、階上の交換台に伝ってくる町の避難する人々の暗闇の混乱混雑は、筆や舌で表現するに言葉なく、まさに阿鼻叫喚の生地獄さながらで、今にしてその無気味な有様は脳裡から消え去ることがない。

その日から局に踏みとどまり、まさに不眠不休の通信業務活動だった。一週間後私共三人はどうなっているか見て来ましょうと町に出た。安西製材所から現在の駅前通りあたりまでは完全に箒で掃いた如くで、所々に電柱の倒れたのや護岸工事の為につくってあった一平方米ぐらいのコンクリートのかたまりが転ってるだけで、津波の波の力とその及ぼした被害力のすさまじさにはただただ驚くばかりであった。その途中、現在も健在だが、金鷹屋主人、関義雄様(当時三陸水電所長)が私共を見つけ「コレコレお前さん達のお陰で命拾いをしたがえ、おおきにえ」、とねぎらいの言葉をかけてくれた時は十八、九の私共のやった事が無駄ではなかった、何かのお役に立ったんだなと、どんなに嬉しかったことでしょうか。一生涯忘れる事の出来ない感慨なのです。

あれからチリ地震津波や水害等の外、この辺に大きな災害がなかったとは言え、十勝沖、宮城沖等々の大地震があったし、防災面が昔より整っているとは言っても、何時あのような大災害が突発せぬとも限らないことだし、これ等被災誌を纒めた記録にとどめて後世に伝えるということは、今の世を生き抜く人々のつとめでもあり、意義深いことと敬意を表わします。“災害は忘れた頃にやってくる”は、かの有名な寺田寅彦博士の諺ですが、私共はその諺の持つ意義の深さを忘れずに、常日頃の心構えとしなければならぬものと、昔日を偲ぶ度毎に痛感するのであります。

 

3、昭和五十三年、三陸沿岸地震津波調査のため来町した某大学研究所員の来訪をうけ、その調査に協力した関治郞氏菊地義三氏の体験談の速記録を両氏の了解を得て掲載しました。

昭和八年三陸津波体験談

山田 関治郎(72歳)

明治四十二年十月二十六日生まれ、昭和十二年に漁協に入り三十五年間在職した。チリ地震については良くわかるが、昭和八年のは若くて良く覚えていない。その時十五歳か十六歳で中央町に住んでいた。蔵で休んでいた。津波だというまでの間、たなのものが全部落ちた。蔵からやっと下におりた。十メートル位隣りに郵便局があった。表に大きな窓があり、二階に交換手がいた。情報が一番はやいからそこにたっていた。二十五人から三十人位たっていた。五分もたったら大槌が津波という情報が入り、井戸の水が涸れて、津波が来ると二階から交換手の情報が入った。それで津波が来ると言うことになって逃げて家へ帰って来た。ズボンをはいて準備した。おばあさんが明治の津波の話しをしてくれた。火事が出てたくさんの人が死んだという。蔵の中に人がはいって流されたうちが焼けて蔵の中で何人かが死んだ。

私の父はすり鉢を火にかぶせて出た。その時はもう水が来ていた。それから小学校にいった。公民館の方が近いのに、その時は小学校に集中した。夜、暗くて足もとがまったく見えないという状態で集まった。寒いし、終ったというので下に降りて来た。わらぞうりをはいていた。家に帰って蔵に行って見た。下がぬるぬるする、何かなと、思ったがわからない。暗くてわからない。またそとに出た。

朝になってわかったのであるが、便所のたまりが流れて浮んでいた。家は一メートル水があがった。仲町は流されるという事はなかった。岸壁、岩をかさねたものが五尺から六尺あった。まん中に、そのためにあがらなかったのであろうと考える。停車場の下の浜に建物のこわれたのが全部集中した。八年の災害では、家族は誰もなくならない。集中して流された人も、そこでたくさん出た。今考えてみれば、昔たくさん人が死んだというのは、川が氾濫したのが大きな原因だと思う。

チリ津波はかなりひいたが、これまでの津波よりは少なかったと思います。

問 津波の潮のひき方や襲来の状況など、チリ津浪と比較してどうでしょう

チリ津波は、岸壁から三十メートル位ひいたかな。大島のすそが全部出て倍位の大きさに見えた。その大きさにはたまげた。チリ津波の時、提防が中央までできた。割と被害がない。逆に北浜の方は被害が多かった。というのは提防がなかったから水が全部向うにいった。低い所をねらう。という経験はチリ津波で海岸に防波堤があって三尺位すけているところがある。そこにチリ津波のとき入って来た。六尺の高さから三尺のところを吹いて通る。提防がある所の外は三尺しか外に出ない。チリ津波の時は干潮で大きな被害がなかったが、北浜の方はたくさん水がいった。北浜の田は全部水が入った。チリで地震があって、ハワイを通過したことは放送で知っていた。来るとは考えていなかった。それは海岸をみて知る。この辺では地震があると海岸をみる。ひければ来るものと考えている。そういう昔からの経験があるから皆そうする。ひけた時はゆるやかで魚とりに行った。

昔の津波は暗いから、どういうかっこうで来たのかわからない。電灯がその当時は完備してないから、チリの時はみな昼間だから魚とりに行った。そこに歩いていけば水がとまる。とまったら、そこから来るから、その時は逃げなくてはならない。走っても追いつかれる程の波の速さではない。昔の年寄りの話しでは、波がかぶってくる。とのことであったが、チリ津波の時は、そんなことはなかった。時間がけっこうあるという事は漁師たちが船を岸壁につけようとして来て、その時水がひけて、それから丘にあがって逃げた、という事である。水がくるのを見れば逃げなくてはならないのであるが、ゆるやかであった。高潮みたいな感じに皆見ていた。昔のは提防がなかったから全部流されて当然であると思う。ぶつかるところがないから、そのままおされてくるから、それに昔の家は基礎工事とか何とかなく、石の上に建っているのだからほとんど流されたと思う。

今想像すれば、昔の津波は大きかった様な気もする。チリよりは。というのは大きな出っぱながある。昔の津波の水のさわった高さは七割ぐらいいった。考えてみれば、その当時は岸壁がなかった。じかに海だから直接水が行ったた。行けば押す力があるから、五尺のものが七、八尺にもあがる。その為に高くなったとも考えられる。あの高さで来たら山田の家は全部屋根から水をかぶっていることになる。それほど大きなものではなかったと思う。今は岸壁ができたから少々のものは防げるのではないかと思う。何故かと言うと、北浜の地理の関係から言って、提防がないので大きな被害をうけた。提防ができたら被害が小さいと思う。今は漁業はやっていない。

問 漁場は津波の規模が小さくともだいぶ荒されるという事であるが。

津波というのは底から来るものだという感じがするが、上ばかりでなく、下もだいぶおしてくるのではないかと思う。養殖漁業も盛んであり、重りをつけておさえているのが動かされる。来る水はざあっと来るのではなく、もくもくと下から持ち上がる様に来る。砂浜の水がひけたあとを見るともくもくと押して来る様に見える。だから丘へ来れば泥水になっている。住宅を流す時の水はそうである。十勝沖の時は、おどけっこでほとんど被害がない。水はたくさんあがったが、一メートルから二メートル上がった。よほど水がひける段階のものでなければ、大きな津波は来ないということになるのではないか。

問 二十九年のも夜、昭和八年も、大きいのは肉眼で見えにくい時に来ているが、あの様に大きいのは、どーんと来るのですか。

ど―んと来るということはない。岸壁を洗うということはない。そんな勢いでくれば、岸壁を波をたててこなくてはならないが、そんなことはない。そこでこんなりくつがある。深い所深い所と来る訳である。そこにさきに水がたまるから、川と同じで浅い所にどんどん水が流れて行くんだという理屈で、増水が大きくなるのではないかと思う。底を動かしているんだ。と解釈している。あがっている水はとにかく泥だからもう昔の津波はわからないが、「さあ、津波だばあ」と来る様なものではないと思う。ただ、来た時はどの程度かはわからないが、自動車で津波を見に行くということは危険だと思う。動きをとれなくなると思う。水が来たとなれば、水の多くなる時間が早い。ひけるのも来た時と同じ。チリが印象が強い。

問 三陸沖で起こったのと、地球の裏側で起こったのとでは大部来方がちがう様ですが。

それはあります。そうだから昔の夜来たものはどの程度かは誰もみてない。ただしチリの時のものから想像すると、かぶるという様な大きな波ではなくて、ものにあたってはじめてあがって行くものだと思う。

口を開けて来る事はないと思う。丘の上にあがると大きな所から狭い所に集中するから、その勢いが速いわけである。河川が危険ということはそう言うところにある。やっぱりせまい所は、被害が出たが、広い所はそう潮の勢いが強くないから、狭いと狭い程被害が大きい、何故そう考えるかというと、昭和八年の時、釜石から泊まりに来ていた人がいて、子供をおぶって行ってみた。津波の一週間位後、両石に行ってみたら道のカーブのところまで下から家が押されて流れて、川のところまでたまっていた。せまいからやっぱりほかからみるとせまいところに被害が集中するということが言える。踏切があるところの角に死体がたくさん流れて来た。たまたま死体の出た所にぶつかった。おじいさんの人が横になって死んでいた。その人の息子の人が呼ばれて来た。抱き上げたところが鼻血をたらした。昔の人がしゃべる身内の人が来ると血を出すんだという話しを聞いているので、はあ確かなものだなあ、と思って、迷信だか何だかわからないけれど、感じたものがある。そういう時もあった。その死体は凍っているんですよ。そういうことであるんですよ。死んだ人は皆凍ったんじゃないですか。津波のあと雪が降ったんだから、かたづけると言っても、雪中でみぞれが降って、それは夜も何も淋しいものでした。

電灯も何もなくて、その時、海軍が来た。その当時、三陸定期が毎日入ったんだけど、その三陸定期が来なくて、駆遂艦で食料を積んで来た。津波から二日から三日目に来た。次の日だったかも知れない。飢えに苦しむという事はなかった。こっちの人達は大丈夫なんだもの。親戚やなんかがいる人達は避難してるんだもの。困る人はいないんだもの。田老あたりではそれがなくって、町中がやられたらしい。ここは大丈夫だったのす。

問 どんと大砲の様な音がしたそうですが

その音は桟橋がへがれる音、バリバリバリという音だと思うんですよ。桟橋というのは板を並べている訳ですが、それが下からの圧力で何百という数がもち上げられる音だと考える

問 皆さんがドーンというのはその前沖で波がこわれておちますわね。その時の音じゃないかと思うのですが。ドーンがあってから波がくるまで少しあったと思うのですが、チリほどゆっくりじゃないとしても。

年老りの言う話しを聞くと、昔の明治の津波というのは、速かった様ですねえ。津波が来たという時は、そばに来ているという状況だったということです。浜がずっと砂浜で、浜をあがって家があった訳だ。だから誰も見さ行く人は少なかったと思うんだ。一波、二波がきても知らないでいて、そして最後に音か何か出た所で初めてさあ、津波だ、という状態だと思うんですがね。今だから津波だ何だと言うとすぐ岸壁に行ってみるのだが、昔はどうだったのかと思うんですがね。

問 八年の時も交換手が機転をきかせて大槌に問い合わせなければわからなかったかな。

そりやあ、わからなかったがね。ことにまあ夜だし、浜に行ってみれば、それは見た人がいるかも知れないが、それを全部に通達するということになればむずかしがったんじゃないんですか。その当時だと‥‥。

問 当時はかなり感謝された訳ですがね。

そうだあようたがなんす。一番はやかったのは、たぶんそこだと思います。そばにいたから窓からさわいだんですね。じかんきいたんだから。

昭和八年三陸津波体験談 山田菊地義三 (69歳)

大正元年八月三日生まれ、津波の時二十二歳。四十年以上もたっているからはっきりした事はないんですが、その時は漁業に従事していた。山田にいて、その当時はモーターと言っても何そうもない時で、湾内に五そうもない時であった。

其の年は、近年にないわかめ大漁で、親父に明日も行って来るから準備してくれと三日の日も行く事にした。その当時は私等は、モーターもなく、機械船もなく、和船で行く時だから、親父がかいをこいで行くことにして準備して居った。そして次の日、あの様な地震と同時にその時は海岸の浜を見に下がった。たぶんその頃は二時頃かと思うんですが、その時は私も起きていて、家にいてたき火をしてあたっていた。そのうちに地震があった。そしたら母が、いやただの地震じゃねえ、火をとめろ、といった。その当時は地震があると年寄り達がたき火をしている時はすり鉢というものをかぶせたものである。かけたところに親父が帰って来て、何だか大槌が空気が悪い、だからその時逃げる準備をせえ、と言われたんです。これではわかめどころではないと思って、着換えをして甥こを起した。そしてそのまま逃げる用意をした。第一回目は自分の甥、その当時三つ位だったかな、その子をかかえて、夜具を肩にかついでそのままその通りを走った。

問 それからすぐ津波が来ましたか。

地震があってから三十分はたっているんじゃないかな、三十分はたたなくとも、二十分はたっていたかもしれないい。 問地震が終ってすぐ逃げたんですか。

いやいや間がありました。十分位は間があったと思いますが、今言う通り、今だからマグニチュードいくらだ何だと言うけれども、その時の記憶には大きな地震だと言う事だけで、今の様なマグニチュード七だとか、六だとかというのはないですな。

問 その時に郵便局の交換手の方が大槌に電話して確認して皆に避難する様にと電話したと言うことですが、それは御存知ですか。

それは確かそうだごってござんす。俺方の親父も大槌は津波だ、水があがったずうからと言われたが、確か大槌からその情報があったらしいですな。

問 そうすると、そうやって逃げられて誰かなくなるという事なかったんですな。

はい、そうです。その時は今の農協の前に実家がありますが、そこに居った時だから、今いうとおり家に居ったのは親父夫婦と俺と弟と甥と五人居った。

問 その家は海岸の方ですか。

今よりは山手です。家は流されるということはなかった。水はあがりましたが、俺の記憶するところでは二回か三回かあがっていたみたいです。布団を持って俺は第一回目甥をかかえて逃げる時で、大した津波ってこんなものかな、と覚えている。二回目はきつねびつという米の入っているのをかついで病院通りをいくと、関豆腐屋さんという所で水にあった。その時、水は皮靴だとぬれるんじゃないかな、という所まであった。病院の下の高台。

問 もとの家は、どの辺まで波が来ましたか。

床から一尺あがった。ただ俺の家から隣りがあって、その隣りが今の浦波さんなんですが、そこで死んだ人が見つかったし、あそこの家にこわれた家などが流れて行った。その勘定でいくと、一尺以上はあがっているんじゃないですか。家がこわれているのがあそこにいったり、死人が掘り出されたりしたんだから。

問 死人なんかは、だいぶ御覧になりましたか。

あそこではひとり、それから今のあそこからは佐藤丑太郞さんの親父さんがあそこから出ましたし、魚屋さんの裏の通りになりますが、高橋という時計屋さんのおばあさんがあったんですが、そのおばあさんの死骸が出た。

問 チリの時も、その家に住んでいましたか。

チリ津波の時はここです。

その時は私も、その朝はわかめの口開けで、わかめにいくつもりで浜にいっていた訳です。何だか模様が悪くて、漁船団(組合)の役員をしていた時だから口を止めたら良いかどうか会議をしていた。どうしても状況が悪いから中止にした方が良いんじゃないかと止めたついでに、皆でお茶のみをしていたんです。その時四時、五時になって私は組合を出てそのまま家に来ましたが、大潮だなあと思って来ましたよ。まさか津波だとは思わないで、地震はないし、それこそこっそり来た何ですから、ただ考えは大潮だなあと思って来ましたが、そのうちに床に入ってまもなく俺方の親方に起されたんですよ。じゃ、何だ津波が来る様だというので、こりゃあ大変だというので子供をおこし、かかをおこし、その時俺方の親方が警察を起したんです。。その時のを表彰されたんですが、急を知らせたというので、

問 チリが地震の出もとだということは知っていましたか。

わからなかったですね。それは全然知らなかった。

問 潮が引く時はまのあたりに見たんですか。

組合から出る時は大潮だなあと思っただけで家に来た。今いう通り、津波だと起されたから家から出る時は、かかや子供等をさきに逃がして、一番かかが病気あがりだったから一番さきに逃がして見届けてから逃げた。その時は丸十さんのあたりに、けっこう水があがっていた。俺の家と向いの丸十さんのところでは、地盤が一尺以上ちがったんじゃないかな。

俺がここにいる時は、向うにはもう水があがっていました。最終的には、仏様のそのあたりまであがったんじゃないですか。

問 全体が山に向けて傾斜してるんですね。その辺が田老なんかとちがいますね。

田老の昭和八年の津波の時は、俺等もその時お見舞に行って来ましたがな、昭和八年の八月に大日本連合青年団の幹部講習会が一週間宮古であったんです。その時全員でお見舞に行って来ましたが、ここまで死骸があがったと言って、お寺のまえの所まで死骸がごろついていたんだ、ということを言っていました。低い様でしたもんな。

問 二十年前からずっと漁師をやってるんですか。津波というのは大きいの小さいのと来て、漁場荒す訳でしようね。わかめだ、かきだ、と。

そうですね。

問 すると津波というのは憎んでも憎みきれないくらいでしょうね。

ちょうどわすれた頃にまた来てもぎとられてしまう。また復興してああ良いなあという頃、もぎとられる様なものですな。

問 八年とチリの間が二十七年ありますね。三十~四十年周期で大きいのが来ているみたいですが、そういう津波に対して防潮堤ができ、現在それで充分だと思いますか。

その間に十勝沖地震がありましたね。

ただ俺なりに考える所は、川岸が一番あぶないんじゃないかと思ったりして居ります。こうなったことにおいて、

問 川を割と逆上って来るらしいですな。

そうです。そうです。

問 例えば、そこの水門がありますね。退避命令が出たら消防団か何かが締める事になってるんですか。

そうだようですな。昨日、今日の訓練で、いつもは消防団がやっております。何か機械であげさげさっている様ですが、電気ではない様です。

問 はやい津波が来た時は、締めに行く人は危ない訳ですね。大丈夫ですか。

とび場の方をする時は手まわしでする様です。ただ門の川の何をするには機械だようです。それはまあ、これはたしか完全だと思いますが、こうしてみるに、ただ電気ずうやつは果してどういうものだか、これは俺あどうかと思うふしもありますが、そうしゃべれば国の施設さ、こういうのは何だあども、ただ手の方は遅いかわり、あれはないと思います。それずうのは電気だあの何だあのという文明の力に頼って、いざという時に、ああいうときに限って停電だあの何だあのということがあるんですなあ、そうなっつうと、おそらく駄目になるんじゃないですか。例えば、そういう例はあることは、戦争当時、南方に行く時に昔の秩父丸という豪華船で行きました。この豪華船なんか、皆説明聞くに、ここが潜水艦でやられたとなると、電気ひとつでボタンひとつでこれがサッとあがるという指令をうけました。絶対どこの穴をあけられても心配ないと、そしたら、私等は昭和十七年の二月一日に出ましたがな、四月か五月にやられてしまった。それはやはり潜水艦に攻撃されて沈みましたね。それずうのは一回大きなあれをされると電気ずうのはきかないですな。そういう実例もうけて居りますから、大きな地震というと果してどの程度電気が流れるか。

その点はこの方はまちがいないと思います。この方は手でやってやんす。遅いには遅いども、来る間は、例えばしめきんなくてもなんす。

問 最近まで防潮堤はつくられているみたいですが、大体もう安心みたいですか。

おそらく今度のあれが出てからそういう被害はうけておりませんが、前の防潮堤はまあチリ津波もうけています。昭和八年の津波後できたんですから。昭和八年の時の津波と、今度のチリの時の津波とは、あれがそうとうかわっていると思うんです。例えぱ当時の何は、ここらはうんと地盤が低かった。むろんかいなんさんの前は海岸がなくて、すぐ砂浜だった。だから地盤の面では、うんとちがうんだがなんす。だからそれ分あがったんだと思います。

(四)、田中舘博士貴族院における演説

地球物理学、電磁気学、航空学、気象学、など、我国理科系諸学の基礎を築いた郷土出身の物理学者田中館博士が、昭和八年三月、貴族院に於て津波災害後の復興計画について政府に対し質問を行った。学者としての博士の意見を当時の議事速記録に聞いてみたい。

「只今柳沢伯爵ヨリ御報告ニナリマシタ予算委員会ニ於テ内務大臣ヨリ東北地方ノ震害ニ付テ御報告ガアリマシタ、之ヲ速記録ニ依ッテ承知イタシマシタ、此震害ニ対シマシテハ御同様誠ニ痛マシキ限リニ存ジマス、之ニ対シテ此内外共ニ多事ノ際ニモ拘ラズ政府当局ヲ初メ中央地方共文武朝野ノ諸君ヲ挙ゲテ早速之ガ救済ニ力ヲ傾ケラレマシタコトハ全ク我ガ国民ノ祖先伝来ノ至誠ヨリ発スル生レツキノ美徳ト感ジマシテ苦シイ中ニモ嬉シ涙ヲ催ス次第デアリマス、唯私ハ専門学徒ノ一人ト致シマシテ斯様ナ自然現象ヲ予報シ得ナイコトヲ悲シミ且ツ深ク愧ヂルモノデアリマス、故ニ訥弁ヲ以テ屢々議場ヲ煩スコトハ恐縮デスカラ同僚ノ藤沢君ヲ促シテ質問ヲ願ハウト存ジマシタガ生憎同君ハ今病気上リデ欠席勝デアリマスカラ不躾ヲ顧ミズ簡単ニ次ノ質問ヲ致シマス、第一、今度ノ震害地方ノ地形変化ノ調査ヲナサラヌノデアリマスカ、第二、町村復興ニ対スル注意或ハ進ンデ或制度ヲ設クル意志ハアリマスマイカ、第三、津浪ヤ地震ノ観測所タル測候所ノ分布ヲ整理スル必要ヲ認ヌカ、以上三点デアリマスガ、之等ノ趣意ヲ充分ニ説明致シマスニハ其事ニ付キマシテモ一時間足ラズノ時間ヲ要シマス、サウ致シマスレバ甚ダ失礼ナ申分デゴザイマスガ、専門外ノ方ニハ脱線ノ様ニ聞エル嫌ヒガアリマスカラ切詰メテ申上ゲマス、而シテ大体ノ御答弁ヲ得マシタ上ニ若シ立入ッテ説明ヲ要スル様ナ所ガゴザリマシタナラバ更ニ議場以外ニ於テ詳シク申上ゲルコトニ致シタイト存ジマス、第一ノ地形ノ変化デゴザイマスガ、是ハ陸地測量部ト水路部ノオ仕事デアリマス、此前奥丹後地震ノ際ニハ之ニ対シテ熱心ナル御研究ガアリマシタ、追加予算ヲ提出スル機会ガアリマセヌノデ政府ハ責任支出ヲ以テ此事業ヲ行ヒマシタ、充分トハ参リマセヌガ之ニヨッテ彼ノ地方ノ地殻運動ノ状況ガ可ナリ詳シク分リマシタ、是等ニ依ッテ此災害ノ予報ヲスル手段ノ知ルベキ取付クコトガ出来ルカト思ハレマス、此予算ノコトニ付キマシテハ観測ナドト言フヨリハ統計ニ依ル方ガ分ラヌカト言フヤウナコトヲ統計学ノ一大家ヨリ御注意ガアリマシタ、統計モ事実ノ根元ニ遡ッテ考ヘマセヌト我々自然科学界ニ於テハ随分火傷ヲ致スコトガアリマス、統計ニ依ッテ前途ヲ判断致スコトニハ余程注意ヲ要スルモノデアリマス、併シ此前ノ三陸海嘯ニ当リマシテ明治二十九年ノ翌年明治三十年五月二日ニ私ハ奥羽六県北海道教育大会ニ於キマシテ甚ダ鳥滸ガマシキ講演ヲ致シマシタ、其速記録ガ此処ニアリマスガ其一部分ヲ之ニ関シテ申上ゲテ見タイト思ヒマス、気象学ノ歴史ヲ調ベテ見レバ学者ガ如何ニ研究シテ得タル結果ナルカガ分リマス、天気予報ハ僅カニ三四十年以来出来ルコトニナッタノデアリマス、是ハドウ言フコトヲシテ予報スルカト言フニ日本中五十ケ所バカリノ測候所ニ於テ毎日雲ノ形、雨ノ量、風ノ方向、気圧ノ高低、温度ノ変化等ヲ電報デ日ニ二三回ヅツ中央気象台ニ送リサウシテ中央気象台デハ日々之ヲ比較アッタカ今日ハドウト考ヘテ明日ハドウナルカト言フコトニナルノデアリマス、地震学ハ地殻現象ヲ研究スル気象学ノヤウナモノデアル、然ラバ如何ナル方法ニ依ッテ気象ノ測候ニ於ケル如キ観測ヲスルカト言フニ地震学ト気象学トハ甚シイ差ガアルト言フコトヲ知ラナケレバナラヌ、気象学デハ大気ト言フ瓦斯体ノ変化ヲ講究セネバナラヌガ地震学デハドウシテ之ト同ジヤウナコトヲスルカト尋ネテモ容易ニ言ハレヌ気体若クハ液体ニ於テ圧力ヲ測ルコトハ実ニムズカシイ、例ヘバ地殻ニ穴ヲ穿ッテ之ヲ計ラントシテモ空気ノ圧力シカ計レナクナル、既ニ穴ヲ穿ケルト言フコトハ地殻ノ一部ヲ地殻デナクスルト言フコトデス、然ラバ何ヲ調ベテ宜シイカト言フニ誰ガ考ヘテモ下ノヤウナコトニ出マスマイ、即チ地下温度ノ変化、地球磁力ノ変化、地球引力ノ変化、地歪ノ進行、即チ地ガ歪ンデ行クコトト、ソレカラ地震ノ配布、是等ノ調査ヲヤッテ行カネバナラヌ云々ト申シタノデアリマス、尚之ニ次ギマシテ明治二十七年ノ十月名古屋ヲ去ル四五里ノ太田村ニ大ナル地震ガアッタ、此予報ノ現ハレタコトヲ述ベテ居リマス、更ニ此ニ十九年ノ大津浪ノ予報ヲ致シタコトガ茲ニ書イテアリマス、是ハ即チ統計ニ依ッタノデアリマス、今ハ故人トナリマシタ同僚ノ大森房吉君ノ調ベタ明治十八年ヨリ二十三年迄六年間ノ統計ガアリマシテ之ヲ図ニ掲ゲテ出シマシタ、ソコデ茲ニ特ニ「明治二十四年ノ大地震ノ時ニハ濃尾ハ此色ヲ以テ包マレマシタ、又御承知ノ根室ノ大地震ハ此色デス、酒田ノ地震ト言フノハ此処デアル」ト言フヤウニ統計ニ現レテ居ル所ヲ書イテアリマス、此鳶色ノ部ハ明治二十六七年以来震動シマスカラドウモ此次ハ三陸ノ東海岸ノ番ダラウト言フコトヲ私共ノ仲間ガ致シテ居リマシタ、不幸ニモ其予想ガ当ッテ、アアイフヤウナ大害ヲ生ズルコトニナッタ、斯ウ申シタナラバドウモ貴様ハ予メサウイウヤウナ大害ノ起ルコトヲ知リナガラ知ラナイト言フノハ不親切ナ奴ダト言フ御叱リヲ受ケルカモ知レマセヌ、併シ確然ト判レバ勿論発表スルノデゴザイマスルガ顔ツキバカリ見テ此ヤツハドウモ盗人ノヤウナ面付ヲシテ居ルト言ッテ直チニ検事ニ出訴スル訳ニモイキマセヌ、斯ウ言フ次第デアリマシテ、サッキ数ヘマシタ此地辷リノ進行シテ行クコトヲ見マスコトハ近頃ノ参謀本部ノ測量モ精密ノ度ガ旧来トハ比較ニナラヌ程正確ニナリマシテ、ソレデ奥丹後ノ地震以来、又伊豆ノ地震以来水準及水平動ノ変化ノ起ルコトガ大部明ニナッテ参リマシタ、ココニ偶然ノコトデアリマスガ、先月ノ二十一日ニ地震学談話ヲ開キマシタ時仙台カラ出タ論文ニアノ地面ノ水平ノ変化ニドウシテモモウ一遍繰返シテ計ッテ見タイ所ガアルト言フコトガアリマシタガ、是モ費用ノ問題又此節ハ陸軍省モ非常ニ御忙シイ御承知ノ如ク満州ニ於テ測量部隊ガ殉難シタト言フヤウナ壮烈ナル事件モアリマシテ誠ニ遺憾ト存ズル所デアリマス、斯ウ言フ際ニ陸海軍ノ当局者ニ地形ノ検査ハ如何デゴザルト言フコトヲ申上ゲルノハ実ハ全ク私ノ苦シキ胸ヲ抑ヲヘテ申上ゲノデアリマス、出来得ベクンバ此機会ニ於テ地動ハドウアッタカ、是カラ其動キ方ガドウ進ンデ行クカト言フコトヲ調ベマシテ将来ノ研究ニ大切ナル種ヲ逃サ又様ニシタイト思フノデアリマス、此地震ノ震源ハ而モ海ノ中ニアル大抵五六十キロメートルカラ百キロメートル位マデノ深サニアリマスカラ、其ヲ陸ニ居テ観察ヲシマスコトハ全ク是ハ二階カラ目薬ヲト言フ方デアリマス。サリナガラ只今ハ幾分力此ノ目薬ヲ中二階位ニ持ッテ行クコトガ出来ルノデアリマス、其ハ何カト申シマスト重力ノ不動ヲ計ルノデアリマス、是ハ潜航艇ノ中ニ重力測定ノ機械ヲ入レマシテ重力ノ分布ヲ計ッテ歩キマス、サウシマスト或処デハ重力ガ足ラヌ所ガアリ又ハ大キ過ギル所ガ出マシテ下層ノ動キ方ガ幾分察セラレマス、今日ハ之ニ依ッテ地下ニアル所ノ油、石炭或ハ鉄ヤ「プラチナ」ノ如キ重イモノガアルトカ言フヤウナコトノ判断ヲスルコトニ用イマス、日本デモ使ヒマシタ、欧米ニ於テハ盛ニ行レテ居ル此潜航艇ニ使フ機械ハ幸ニ我ガ海軍ニ於テ据付ケマシテ、昨年暮ニ私モ此船ニ乗ッテ見マシタ、願クハ之ニ依ッテ「タスカロウ」近所ノ重力ノ変化ノ調査ヲサレマシタ此ノ震源地方ト言フモノハ、ドウ言フモノデアラウカト言フコトヲ知リタイ、之ハ我々ガ知リタイト共ニ世界ガ知リタイ所ノモノデアリマスカラ此調査ヲ御進メ下サルコトモ此際特ニ御願ヒシタイノデアリマス、第二ニ内務省ニ関係致シマスガ、町村ノ復興問題、之ニ対スル注意ハ出来ナイモノデアリマセウカ、建築条令ハ都市ノ上ニ行レテ居リマスガ町村ニハ行渡リマセヌ、ソコデ調ベテ見マスト、貞観十一年ニ陸奥地方地震溺死千人ニ及ブ、慶長十六年陸奥地震溺死千七百八十三人、延宝五年陸中南部地震、宮古、鍬ケ崎、大土浦、家屋数軒流失、安政二年是ハ書イテアリマセヌガ、此時ニモ津浪ガアリマシタ、ソレカラ先刻申シタ明治二十九年、ソレカラ昭和八年ノ今度デアリマス、斯ウ言フ具合ニ大抵分ッテ居ル、四十五年カ、マア遅クモ百年位ニハドウモ大抵来ソウダ或ル処ハ必ズ浪ニ浚レル、左様ナ所ニ村ナリ町ナリヲ建置クト言フコトハ国家トシテ警戒スベキコトデアリマセヌカ、身体ノ一部ニ故障ガ起リマシレバ全身ニ熱ヲ起スニ違ヒナイ、国家ノ一部分ニサウ言フ所ヲ無クシテ置カナケレバナラナイ、少クトモ学校トカ病院トカ或ヒハ役場トカ言フヤウナモノハ此津浪ノ及バヌ程度ノ場所ニ建テルヤウニスルト言フコトハ如何デアリマセウカ、之ヲ内務省ニ伺ヒマス、第三ハ続キマシテ此地震津浪等ノ観測所タル測候所ノ配置デアリマス、測候所ノ数ハ全国ニ於テ百五十九アリマス、其配置ヲ見マスルノニ或処ニハ豊富ニ或処ニハ非常ニマバラデアル、是ハ何故斯ウ言フコトニナルカト言ヘバ地方税デ持ッテ居ル地方官ノ支配下ニアリマス、昨日土方博士ヨリ命令ト言フ文句ニ付テ御質問ガアリマシタガ、地方官ガ之ヲ支配シテ居リマスカラ中央ノ者ガ之ヲシロトカアレヲシロトカ言フコトハデキナイ“明治二十四年ノ濃尾地震ノ際ニ本員モ根尾谷ヨリ大垣名古屋ノ間ヲ奔走致シマシテ地震研究上材料ヲ遺スヤウニ骨折リヲマシタガ如何セム地方税ニ依ッテ建ッテ居ルモノデアリマスカラ其地方ノ新聞記者ノ喜ブヤウナ仕事ヲシナケレバナラナイ、コチラノ学理上大切ナコトナドハドウモ其時ハ聞イテ居ッテモ実行シナイ、斯ウ言フコトヲ感ジマシテ測候所ノ如キ全国ノ気候、全国ノ為ノ天気予報ヲスル所ハ是ハ宜シク国庫ニ於テ負担スベキモノデアル、国家ノ中央機関カラ之ヲ配置スベキモノデアルト言フコトヲ屢々申シマシタガ中々私風情ノ申スコトハ当局ニ通リマセヌ、行政整理トカト言フコトヲ時々聞キマスガ私カラ見レバ斯ウ言フコトガ本当ノ行政整理ト思ヒマス、一ツ悪イ例ヲ言ヒマスト相場師ノヤウナモノデモアッテ早ク天気予報ヲ聞キタイト言フヤウナ所デハ、サホド無クテ宜イ所デモ測候所ガ出来ルト言フヤウナ形勢デアリマス、必要ノアル所デモ貧乏ナ県デアレバ出来ナイ、之ヲ此度痛切ニ感ジマシタコトハ宮古測候所デアル、宮古ノ測候所ハ気象上ニ於テモ重要ナル地点デアル、所ガ之ヲ県ノ経済ノ都合上廃止スルト言フコトニナッタ、只今家ヲ取壊ハシカカッテ居ル、其為ニ此処ニ備付ケテアッタ潮ノ差引ヲ見ル機械ハ流サレテシマッタ、此津浪ノ前ニハ可ナリ水ガ引キマスガ此引始メル時間ヤラ引イタ量ヤラヲ知ルコトガ出来ナイ、誠ニ残念ナコトニ思ヒマス、斯ウ言フモノハ私ノ理想トスルヤウニ中央ノ機関トナラズトモ或地点ニ於テハ必要ナ所ハ官設ノ測候所デ設モケルト言フコトハ出来ヌモノデアリマセウカ、例ヘバ今度ノ津浪ニ鑑ミマシテモ八戸、宮古、釜石ト言ッタヤウナ所ニアリマスレバ其震源将来ノ警戒等ニ付テモ大イニ材料ヲ得ルコトガ出来タダラウト思ヒマス、大体右三点ニ付テ政府ノ御意見ヲ伺ヒタウゴザイマス」

(岩手県昭和震災誌)

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