第一節 地震・津波の経過
目次
- (一)、緒言
- (二)、三陸沿岸の地形
- (三)、三陸地方の地質及び震度
- (四)、津波の高さ
- (五)、津波襲来の時刻
- (六)、津波襲来の状況
- 1、津波前の退潮
- 2、津波の寄せ方
- 3、津波の回数と周期
- 4、音響と海鳴
- 5、発光現象
- 6、津波の前兆
- (七)、本町における津波襲来の概況
- 1、盛岡測候所観測調査結果報告
- 2、三陸沖強震津波踏査報告
- 3、津波襲来の方向及び経路
- 4、津波来襲罹災状況
中央気象台発行「昭和八年三月三日、三陸沖強震及津浪報告」の中の国富信一氏の論文―抜粋
(一)、緒言
昭和八年三月三日午前二時三十二分頃、北は千島、北海道、東北地方、関東地方の全般、本州中部地方の大半より、近幾地方に亘り人身感覚があった程の大規模な地震があった。其の震度分布は頗る広範囲に亘り、去る大正十二年九月一日の関東大地震に比し、規模の広大なること優れりとも劣らぬ程度であった。而して、中央気象台地震掛にて験測した結果は左の如くである。
発震時 午前二時卅二分十四秒
初期微動継続時間 六十秒
最大振幅 十七粍七
震度 弱震
性質 緩
総震動時間 約一時間
扨、強震発現後、直ちに全国各地方測候所及観測所より電信によって報告せられた材料から、此の地震の震源を求て見た処、釜石東方遙かなる海底に当り、震源の深さ極めて浅く数粁と概算された。随って三陸沿岸には津浪襲来の虞ありと思い、其旨を各地方測候所長へ打電すると共に、中央気象台長よりは岩手、宮城、福島、茨城等、各県地方長官宛この旨を打電した。
斯くして、東北地方の各測候所からは、相次いで沿岸各地の津浪を報じ来ると共に、内務省警保局よりも釜石町始め各地の被害状況を本台に報告され、一方本台よりも侍従職を始め、総理大臣各国務大臣、各省、警保局警視庁、社会局、諸官庁、各高官宛強震及津浪報告を遂次発送すると共に各新聞社へも発表した。
かくて、盛岡及石巻測候所等よりの報告は一報毎に、津浪による県下の被害状況漸々甚しきを報ずるので、中央気象台長は、命を発して、著者及竹花技手を第一班として宮城県下へ、本多技師及田島技手を第二班として、岩手県下へ出張調査せしむることとなった。依って各調査班は即日出発、災害地へ向ひ、石巻及盛岡両測候所と協力の上直ちに調査を開始し、一週間に亘る調査後、帰京した。次いで此の強震及被害を各地へ報告する目的を以て三月十四日、三陸沖強震及津浪概報を発刊するに至った。
更に詳細なる調査は此の概報発刊後より始められ、各地方測候所の協力と相俟ち遂次強震の験測、津浪の調査に着手したが一先づ其の概括的調査を終へたので之を第一報告として印刷することとなった。勿論個々の現象に関する立入った調査は目下尚進められつつある故、之等に関しては他日再び発行することとする。而して此の報告中には各調査員の踏査報告を悉く載せてあるが強震直後に著者及本多技師が調査した分は何分にも早急の事ではあり交通の便も極めて悪く且っ概報発行も急いで居たため尚見残した点も頗る多かった。故に其の足らざるを補う目的にて三月下旬更に鷺坂技手を宮城県へ、石川技手を岩手県へ出張せしめて詳細を調査をなさしめた。
之等鷺坂、石川両氏の報告及石巻、盛岡、福島、青森、浦河等各測候所の報告、更に著者等の報告を総括して、今回の強震及津浪に関する種々な現象を処理して見たのが本文である。以下種々な現象を各項目に分ち一々調査した結果を記して見た。
(二)、三陸沿岸の地形
北は青森県八戸市の東なる鮫岬から南は宮城県牡鹿半島に至る海岸は本邦に於ても最も凸凹の激しい海岸である。即ち北上褶曲山脈の尾根が太平洋に没する所が此の海岸となって居り所謂リアス海岸を構成している。此の海岸は北上山脈が多くの枝谷を海岸へ向けて居る所へ、地盤の沈降が起って水準を高め、其の結果として海水は深く之等の枝谷の谷間へ浸入して複雑な海岸形を形成するに至ったものである。一般に斯かる海岸にある湾にあっては湾口の水深は極めて深いが湾内に入るに従って急に浅くなっているのが常である。然かも北上山脈の如く枝谷が多い様な所にあっては小湾が極めて多い。
而して三陸のリアス式海岸ではV字形をなして太平洋に向ひ開口せる小湾が湾口から内部に入るに従ひ水深が急に浅くなるため、津浪を醸生し易い。即ち三陸海岸にあっては大小の港湾極めて多くその主なものでも三十近くある。先づ南方から見ても牡鹿半島西岸には荻浜湾、大原湾、十八成湾、鮎川湾、東岸に鮫の浦湾、女川湾、雄勝湾があり、更に北に向って追波湾、志津川湾、小泉湾、気仙沼西湾、同東湾、広田湾があり、岩手県に入っては、大野湾、門之湾、大船渡湾、綾里湾、越喜来湾、吉浜湾、唐丹湾、釜石湾、両石湾、大槌湾、船越湾、山田湾、宮古湾、久慈湾等がある。
之等港湾の多くは、東方に開口しているため、三陸海岸に沿うて沖合を略南―北に走る外側地震帯上に起る地震中、規模大にして且震源浅く、海底面に地変を生ずる如き地震にあっては津浪を伴うものである。又北東或いは南東に開口している湾では多く袋の如く陸地深く湾入しているため、湾奥にては著しく浪高を増して、津浪を生じている。斯様に三陸海岸は外側地震帯上即ち三陸沖合に起った地震によって、古来多くの津浪を蒙っているが又他の個所でも大なる海底地震によっては余波を蒙り津浪を生じている。今歴史に徴しても三陸沖に起った津浪は次の如くその数極めて多く慶長以来約三百二十年間に十八回即ち十八年間に一回の割合で津浪を蒙っている。
(三)、三陸地方の地質及震度
三陸地方には其の中央に背髄として北上の褶曲山脈がある。此の山脈は東は太平洋に面し西は北上川及馬渕川により中央山脈と境し略紡錘状をなして南北に走っている。而してこの山脈は主として古生層、中世層の砂岩及粘板岩より形成されているが所々に石灰岩、礫岩、凝灰岩等存在し、且古期に迸出した花崗岩をも含んでいる。但し、南方牡鹿半島は第三紀層によって形成されている。又北上川及阿武隈川に涵養せらる、宮城野平野は仙台湾に臨み、第四紀層より成っているが、第三紀層の丘陵が所々に介在している。
斯様にして三陸地方の海岸は堅牢な地盤であるがために地震動に対しても震度が比較的小である。故に今回の様な大規模な地震にあっても海岸の沖積層地では強震を感じ、壁に亀裂を生じたような処もあったが古生層或いは中生層の土地では強震(弱き方)或いは弱震程度であって、地震による被害は殆ど見ることが出来なかった程である。但し沿岸地方で崖崩れ、或いは石垣、堤防の決潰、地面の小亀裂等もあったが夫等は総べて震後に襲来した津浪によるものであった。
即ち各測候所或いは管内観測所の報告による震度分布を見ても、宮古、石巻、仙台は強震であるが他は凡て強震(弱き方)であり、却て福島県下に入って強震を感じた所がある。尚青森県の下北半島では、弱震の個所が多い。斯様に今回の強震は震域頗る広汎に且つ規模極めて大であるにかかわらず、震度が小さかったのは、震央が遠いと言うばかりでなく、三陸地方を構成する地盤が、中世層及古生層であって、地震動に対して極めて堅牢なるによるものである。
(四)、津浪の高さ
一概に津浪の高さと言っても之は解釈の仕方によって一定したものではない。即ち其を測る方法により先づ三種のものが考えられる。その第一種として考えられるものは験潮儀の自記記象から測ったものである。之は験潮儀の種類、構造によっても異るが大体海面の高さを与へるものであって岸に打寄せた高浪とは異なるものである。故に同一場所で津浪の高さを測っても目測で見た高浪と験潮儀の記録に出たものとは大に異り一般に後者は小さい。
第二種の浪高は岸に打寄せた大浪の高さであって之は実際津浪が押し寄せた際に測れば大差ないものを得られるが、其の後の調査では海岸の地物に残された痕跡から見る外はない。併し平坦な海岸で、津浪の痕跡を止める様な地物が無い様な場所では当時の目撃者の談を綜合して之を定めればならぬが之には大いなる誤差を許容せねばならぬ恨がある。例えば津浪が寄せてきた当時の有様を部落の人々につき尋ねて見ると或る人は山の様な大浪が四五十尺も盛上って来たと言い、また或る人は二十尺位いの浪だったと言う。何しろ生命財産に対し非常な脅威を感じた際の事であるから此の位いの目測の差があっても致し方がない。
又海岸の地物に印された痕跡にして見てもそれが絶対的な浪の高さを与えるものとは思われない。即ち斯様な場合に津浪の押し寄せ方を考慮せねば果して海岸の地物に印された痕跡が真の津浪の高さであるかどうかは判定できない。先づ津浪の寄せ方を所々で聞いて見ると、それは港湾の形、深さ、地貌によって大いに異なることを知る。即ち或る湾では「ウネリ」の如く寄せて来た所もあるし、また或る処では暴風津浪の如く極めて徐々と押寄せた処もあり、又或る処では単独波として単一の高い波が押し寄せ、海岸に来るに従い高度を増し、浪打際で砕けて一部落を一呑にした処もある。
前二者の場合は海岸の地物に印された痕跡から見て、津浪の最大の高さを知ることができるとしても後者に於ては波の砕けた場所と地物の位置との距離も考へねばならず、厳密な意味に於て種々疑念を挾む事が出来る。一方に於て、海岸に存在する地物にしても樹木の様なものでもあれば津浪の高さを定めるのに可なり適しているが、崖の様なものであると又其処に疑点を生ずる。即ち両側が懸崖に囲まれた江湾であると此の懸崖に刻された痕跡は果して正面の海岸に打寄せた浪の高さと等しいものであるかどうかと言う疑点がある。一般に斯様な江湾では両側の懸崖に印された痕跡の高さは正面の海岸に打寄せた浪の高さより高い様である。
次に第三種の浪高と言うのは津浪が打ち上げられた最も遠い地点の海面からの高さである。之を津浪の高さと定義する人もあるが著者は之を「浸水地域の最高度」とでも称したいと思う。斯様な高さは海岸の地形によって大いに異なり海岸に河口を有する様な処では津浪は此の川に逆流して可なり奥深い流域迄浸水地域を生ずる。斯かる際に浸水地域の最高を測れば思いがけぬ高さとなるものである。実例としては宮城県追波湾に注ぐ追波川の流域などが夫れである。
又海岸が遠くまで平坦である様な土地と背面に山を負う様な地形の所とでも亦浸水地域の高さは大に趣きが異って来る。前者では津浪が可なり奥の方迄進み、夫れによる被害も亦著しいが後者では山に遮られ被害も比較的少い。更に外洋に面した懸崖の海岸などではそれに打当った津浪は可なり高所迄も上ることがある。斯様な場合に懸崖に刻せられた水痕などから測定した津浪の高さは、実際の波の高さとは可なり異なったものを示すと考えられる。
斯様にして実際の津浪の高さと言うものは、厳密に云へば到底測り得るものではない。只其の定義と測り方によっては或る基準となるべき浪の高さと言うものを与えることが出来る。併して斯様な考えのもとに浪の高さを測定し其の相対的な値を個々の湾につき比較して見るのは決して無意義なことではないと思う。斯くして著者は、海岸に打寄せた際の津浪の高さ即ち前の定義で第二種のものを浪高として其の高さを取ることとした。而して此の高さは各調査員によって測定されたものであるが、主として海岸の地物に印せられた痕跡によって測ることとした。又時には海岸に適当な地物等がない場合、止むを得ず住民諸氏の観察による目測に従ったものもある。
併しこの場合には成る可く多くの人々から聞き最も確からしきもの或は平均値を以て浪高とした。
第一表は斯くして測定された各地に於ける浪高であって、宮城県は石巻測候所野口所長外所員諸氏、本台鷺坂技手、竹花技手及著者の調査により岩手県は盛岡測候所員及宮古測候所員諸氏、本台本多技師、石川技手、田島技手等の調査結果を綜合したものである。
郡名 | 市町村名 | 地名 | 浪高(米) | 明治二十九年津浪浪高(米) | 差(米) |
---|---|---|---|---|---|
亘理 | 坂元村 | 磯 | 三・九 | ||
同 | 中浜 | 三・七 | |||
荒浜村 | 荒浜 | 一・六 | |||
名取 | 閖上町 | 閖上 | 二・四 | ||
宮城 | 塩釜町 | 塩釜 | 三・〇 | ||
牡鹿 | 石巻町 | 石巻 | 二・一 | 〇・六 | +一・五 |
(牡鹿半島西岸) | 渡波町 | 渡波 | 一・二 | 一・五 | -〇・三 |
荻浜村 | 桃ノ浦 | 一・二 | 一・二 | 〇 | |
同 | 侍浜 | 一・二 | |||
同 | 荻浜 | 一・八 | 二・一 | -〇・三 | |
同 | 小積 | 二・七 | |||
同 | 牧浜 | 一・三 | |||
同 | 竹浜 | 一・三 | |||
同 | 福貴浦 | 一・二 | |||
大原村 | 小網倉 | 三・〇 | 二・一 | +〇・六 | |
同 | 大原浜 | 二・一 | 一・八 | +〇・三 | |
同 | 小渕 | 二・四 | 二・四 | 〇 | |
鮎川村 | 十八成 | 一・八 | |||
同 | 鮎川 | 二・四 | 二・一 | +〇・三 | |
同 | 網地 | 一・八 | |||
牡鹿 | 大原村 | 谷川 | 四・八 | 三・四 | +一・四 |
(鮫ノ浦湾内) | 同 | 大谷川 | 五・二 | ||
同 | 鮫の浦 | 四・八 | 三・一 | +一・七 | |
同 | 前網 | 一・六 | 二・四 | -〇・八 | |
同 | 寄磯 | 一・六 | 二・七 | -一・一 | |
牡鹿 | 女川村 | 飯子浜 | 一・八 | 二・七 | -〇・九 |
(女川湾) | 同 | 野々浜 | 二・四 | 三・一 | -〇・七 |
同 | 女川 | 二・四 | 二・七 | -〇・三 | |
同 | 石浜 | 二・四 | 二・四 | 〇 | |
(外洋) | 同 | 出島 | 二・一 | ||
同 | 出島寺間 | 二・一 | |||
同 | 尾浦 | 二・七 | 二・四 | +〇・三 | |
(御前湾) | 同 | 御前 | 二・四 | 三・一 | -〇・七 |
桃生 | 十五浜村 | 浪板 | 一・五 | 二・四 | -〇・九 |
(雄勝湾) | 同 | 分浜 | 一・五 | 二・一 | -〇・六 |
同 | 水浜 | 一・五 | |||
同 | 唐桑 | 一・八 | 一・八 | 〇 | |
同 | 雄勝 | 四・五 | 三・一 | +〇・四 | |
同 | 明神 | 一・八 | 二・四 | -〇・六 | |
同 | 小島 | 一・八 | |||
同 | 大浜 | 一・八 | |||
同 | 立浜 | 一・八 | |||
同 | 桑浜 | 一・五 | |||
桃生 | 十五浜村 | 荒屋敷 | 一〇・〇 | ※八・八 | +一・二 |
本吉 (追波湾内) |
同 | 船越 | 四・五 | ||
同 | 名振 | 四・二 | 三・四 | +〇・八 | |
十三浜村 | 月浜 | 二・一 | |||
同 | 立神 | 二・四 | ※四・七 | -二・三 | |
同 | 白浜 | 二・一 | 二・七 | -〇・六 | |
同 | 小室 | 三・〇 | ※四・七 | -一・七 | |
同 | 大室 | 三・〇 | 四・〇 | -一・〇 | |
同 | 小泊 | 四・五 | ※六・二 | -一・七 | |
同 | 相川 | 四・八 | 四・六 | +〇・二 | |
(外洋) | 同 | 小指 | 四・八 | 四・六 | +〇・二 |
同 | 大指 | 四・八 | 五・二 | -〇・四 | |
本吉 | 戸倉村 | 寺浜 | 二・四 | ※六・八 | -四・四 |
(志津川湾南岸) | 同 | 長清水 | 二・四 | 四・九 | -二・五 |
同 | 藤浜 | 二・四 | 五・二 | -二・八 | |
同 | 滝浜 | 二・四 | 四・〇 | -一・六 | |
同 | 波伝谷 | 二・四 | ※三・二 | -〇・八 | |
同 | 折立 | 一・二 | 二・七 | -一・五 | |
志津川湾北岸 | 志津川町 | 志津川 | 五・四 | 二・一 | +三・三 |
(志津川湾北岸) | 同 | 袖浦 | |||
同 | 平磯 | 七・〇 | |||
同 | 荒戸 | 五・五 | |||
同 | 清水 | 三・六 | 三・四 | +〇・二 | |
同 | 細浦 | 三・六 | 三・七 | -〇・一 | |
本吉 | 歌津村 | 伊里前 | 四・六 | 三・四 | +一・二 |
本吉 | 歌津村 | 中山 | 六・一 | ※一〇・八 | -四・七 |
(外洋) | 同 | 名足 | 四・六 | ※九・四 | |
同 | 石浜 | 七・六 | ※一四・三 | -四・七 | |
本吉 | 小泉村 | 大沢岬 | 三・五 | ||
同 | 大沢湾内 | 三・〇 | 八・二 | -五・二 | |
大谷村 | 大谷 | 三・〇 | 五・二 | -二・二 | |
階上村 | 波路上 | 二・八 | |||
同 | 同南側 | 三・五 | |||
同 | 岩井崎 | 二・〇 | |||
本吉 | 階上村 | 七半沢 | 一・七 | ||
(気仙沼湾) | 同 | 台の沢 | 一・六 | ||
気仙沼町 | 尾崎 | 一・五 | |||
同 | 同河口 | 二・六 | |||
同 | 片浜 | 二・六 | 二・一 | +〇・四 | |
同 | 前浜 | 〇・六 | ※九・一 | -八・五 | |
同 | 気仙沼 | 一・〇 | |||
同 | 浪板 | 一・〇 | |||
同 | 小々汐 | 一・三 | |||
同 | 梶ケ浦 | 一・一 | |||
(大島瀬戸) | 同 | 鶴ケ浦 | 三・三 | 四・三 | -一・〇 |
本吉 | 大島村 | 磯草 | 一・〇 | ||
(大島) | 同 | 浦の浜 | 一・三 | ||
同 | 田尻 | 一・五 | |||
同 | 西ノ鼻 | 四・〇 | |||
同 | 要害 | 二・七 | ※八・一 | -五・四 | |
同 | 横沼 | 五・〇 | ※四・七 | +〇・三 | |
同 | 長崎 | 四・〇 | 六・七 | -二・七 | |
同 | 廻館 | 三・六 | |||
同 | 外浜 | 一・五 | ※三・四 | -一・九 | |
本吉 | 唐桑村 | 舞根 | 三・〇 | ※五・九 | -二・九 |
唐桑半島西岸 | 同 | 宿 | 二・四 | 四・三 | -一・九 |
同 | 鮪立 | 三・三 | ※四・〇 | -〇・三 | |
同 | 小鯖 | 三・八 | ※七・五 | -三・七 | |
同 | 御崎 | 四・八 | |||
本吉 | 唐桑村 | 欠浜 | 一二・六 | ||
唐桑半島東岸 | 同 | 笹浜 | 一二・六 | 一〇・四 | +二・二 |
同 | 砂子浜 | 八・三 | |||
同 | 石浜 | 五・六 | 八・五 | -二・九 | |
同 | 高石浜 | 七・〇 | |||
同 | 只越 | 七・〇 | 八・五 | -一・五 | |
同 | 大沢 | 三・五 | ※六・四 | -二・九 |
郡名 | 市町村名 | 地名 | 浪高(米) | 明治二十九年津浪浪高(米) | 差(米) |
---|---|---|---|---|---|
気仙 | 気仙村 | 福伏 | 三・二 | ||
(広田湾) | 同 | 長部 | 三・二 | 三・四 | -〇・二 |
高田町 | 高田町 海岸 |
三・〇 | |||
同 | 脇沢 | 三・二 | |||
同 | 砂浜 | 四・五 | |||
小友村 | 両替 | 三・〇 | |||
同 | 三日市 | 一・〇 | 二・四 | -一・四 | |
広田村 | 泊港 | 四・五 | 七・六 | -三・一 | |
気仙 | 広田村 | 根岬 | 一一・二 | ||
気仙(大野湾) | 同 | 六ケ浦 | 三・五 | ||
同 | 大野湾奥 | 四・〇 | |||
小友村 | 唯出 | 三・四 | 一〇・七 | -七・三 | |
気仙(門之浜湾) | 末崎村 | 梅真 | 三・五 | ||
気仙(外洋) | 末崎村 | 泊里 | 五・七 | ||
同 | 碁石 | 三・五 | |||
気仙 | 末崎村 | 細浦 | 三・一 | 六・七 | -三・六 |
(大船渡湾) | 同 | 石浜 | 四・五 | ||
同 | 船河原 | 三・九 | |||
大船渡村 | 丸森 | 四・二 | |||
同 | 下船渡 | 三・〇 | 五・五 | -二・五 | |
同 | 永沢 | 三・三 | |||
(大船渡湾) | 同 | 大船渡 | 二・四 | 三・四 | -一・〇 |
同 | 盛町海岸 | 三・六 | |||
赤崎村 | 生形 | 二・八 | |||
同 | 蛸ノ浦 | 四・三 | |||
同 | 長崎 | 四・三 | |||
気仙 | 綾里村 | 綾里港 | 四・五 | 一〇・七 | -六・二 |
赤崎村 | 合足 | 七・三 | |||
綾里村 | 白浜 | 二三・〇 | 二二・〇 | +一・〇 | |
気仙(綾里湾) | 同 | 砂子浜 | 二・三 | ||
(越喜来湾) | 同 | 小石浜 | 三・八 | 一〇・四 | -六・六 |
越喜来村 | 下甫嶺 | 四・二 | |||
同 | 越喜来 | 三・〇 | 一〇・四 | -七・四 | |
同 | 泊 | 四・〇 | |||
同 | 浦浜 | 三・二 | 九・八 | -六・六 | |
同 | 浦浜川岸 | 七・〇 | |||
気仙(吉浜湾) | 吉浜村 | 吉浜 | 九・〇 | 二四・四 | -一五・四 |
同 | 千歳 | 六・〇 | |||
気仙(唐丹湾) | 唐丹村 | 大石 | 三・〇 | ||
同 | 小白浜 | 六・〇 | 一六・七 | -一〇・七 | |
同 | 本郷 | 六・〇 | 一四・〇 | -八・〇 | |
上閉伊 | 釜石町 | 嬉石 | 四・二 | 四・四 | -〇・一 |
(釜石湾) | 同 | 釜石 | 五・四 | 八・二 | -二・八 |
上閉伊 | 鵜住居村 | 水海 | 七・〇 | ||
(両石湾) | 同 | 両石 | 六・四 | 一一・六 | -五・二 |
上閉伊 | 鵜住居村 | 海岸 | 四・五 | ||
(大槌湾) | 同 | 片岸 | 五・四 | ||
同 | 室ノ浜 | 五・二 | |||
大槌町 | 大槌 | 三・九 | 二・七 | +一・二 | |
同 | 安渡 | 四・二 | 四・三 | -〇・一 | |
同 | 赤浜 | 四・六 | |||
(船越湾) 下閉伊 |
大槌町 | 吉里吉里 | 六・〇 | 一〇・七 | -四・七 |
同 | 浪板 | 五・五 | 一〇・七 | -五・二 | |
船越村 | 船越 | 六・〇 | 一〇・五 | -四・五 | |
同 | 田ノ浜 | 六・〇 | 九・二 | -三・二 | |
下閉伊 | 織笠村 | 織笠 | 二・四 | 三・四 | -一・〇 |
(山田湾) | 山田町 | 伝作鼻 | |||
山田町 | 山田町 | 四・五 | 五・五 | -一・〇 | |
大沢村 | 大沢 | 六・〇 | 四・〇 | +二・〇 | |
重茂村 | 川代 | 四・五 | |||
同 | 石浜 | 一二・〇 | |||
同 | 千鶏北側 | 一三・六 | 一七・一 | -三・五 | |
同 | 同南側 | 六・〇 | |||
下閉伊 | 重茂村 | 姉吉 | 一二・四 | 一八・九 | -六・五 |
(外洋) | 同 | 里 | 一〇・九 | ||
同 | 重茂 | 一〇・八 | 一一・〇 | -〇・二 | |
同 | 音部 | 七・六 | 九・二 | -一・六 | |
(外洋) | 同 | 鵜磯 | 四・五 | ||
下閉伊 | 磯鶏村 | 白浜 | 二・一 | 八・五 | -六・四 |
(宮古湾) | 同 | 堀内 | 一・七 | 一二・二 | -一〇・五 |
津軽石村 | 赤前 | 二・一 | |||
同 | 法ノ脇 | 一・六 | |||
磯鶏村 | 金浜 | 一・二 | 四・〇 | -二・八 | |
同 | 磯鶏 | 四・五 | 六・一 | -一・六 | |
宮古町 | 宮古 | 三・六 | 四・六 | -一・〇 | |
鍬ケ崎町 | 蛸ノ浜 | 六・七 | |||
下閉伊(外洋) | 崎山村 | 女遊戸 | 七・五 | ||
田老村 | 田老 | 一〇・一 | 一四・六 | -三・五 | |
小本村 | 小本 | 一三・〇 | 一二・二 | -〇・八 | |
下閉伊 | 田野畑村 | 嶋ノ越 | 九・七 | ||
(外洋) | 同 | 平井賀 | 八・二 | ||
同 | 羅賀 | 一三・〇 | 二二・九 | -九・九 | |
同 | 明戸 | 一六・九 | 一二・二 | -一・六 | |
普代村 | 大田名部 | 一三・〇 | 一五・二 | -二・二 | |
同 | 普代 | 一一・五 | |||
九戸 | 野田村 | 玉川 | 五・八 | 一八・三 | -一二・五 |
(外洋) | 野田 | 五・五 | |||
宇部村 | 久喜 | 五・五 | 一二・二 | -六・七 | |
同 | 小袖 | 八・二 | 一三・七 | -五・五 | |
九戸 (久慈湾) |
久慈町 | 久慈海岸 | 五・五 | ||
同 | 湊 | 四・五 | |||
九戸 | 海岸 | 六・〇 | |||
(外洋) | 侍浜村 | 海岸 | 一〇・六 | ||
中野村 | 海岸 | 七・〇 | |||
(外洋) | 種市村 | 八木 | 六・〇 | 一〇・七 | -四・七 |
同 | 種市 | 六・〇 | 九・一 | -三・一 |
郡名 | 市町村名 | 地名 | 浪高(米) | 明治二十九年津浪浪高(米) | 差(米) |
---|---|---|---|---|---|
(福島)相馬 | 福浦村 | 一・七 | |||
中村町 | 一・〇 | ||||
磯部村 | 一・五 | ||||
双葉 | 富岡町 | 一・二 | |||
請戸村 | 一・五 | ||||
久之浜町 | 一・五 | ||||
石城 | 四ツ倉町 | 〇・九 | |||
豊間村 | 一・二 | ||||
江名村 | 中之作 | 一・二 | |||
(青森) | |||||
三戸 | 階上村 | 小舟渡 | 四・五 | 六・〇 | |
追越 | 六・〇 | ||||
大蛇 | 六・〇 | ||||
鮫村 | 鮫港 | 二・一 | 三・〇 | ||
市川村 | 橋向 | 三・〇 | |||
上北 | 百石村 | 川口 | 二・七 | ||
同 | 一川目 | 一・八 | |||
上北 | 百石村 | 二川目 | 四・〇 | ||
三沢村 | 四川目 | 四・五 | |||
同 | 淋代 | 三・〇 | |||
同 | 六川目 | 四・五 | |||
下北 | 田名部町 | 関根 | 一・〇 | ||
同 | 出戸川 | 一・六 | |||
大畑村 | 川口 | 一・〇 | |||
同 | 大畑 | 一・四 | |||
同 | 湊 | 一・〇 | |||
同 | 木野部 | 一・五 | |||
風間浦村 | 下風呂 | 一・八 | |||
同 | 蛇浦 | 一・五 | |||
大奥村 | 奥戸 | 一・六 | |||
同 | 佐井 | 〇・六 | |||
(北海道) 様似 |
様似村 | 様似 | 三・六 | ||
広尾 | 茂寄村 | 広尾 | 一・五 |
この表で見る如く今回の津浪の高さは宮城県下に於ては平均三米一五、岩手県下に於ては五米九であって、岩手県沿岸の方が平均として一・九倍となっている。試みに明治廿九年の大津浪の高さを、伊木常誠博士及宮城県土木課で調査したものにつき調べて見るに、宮城県下に於ける平均浪高は四米四七であり、岩手県下に於ては十米三であって、矢張岩手県下の方が高く其の比は二:三であった。
今、明治廿九年の際の津浪の高さと今回の浪高との比をとって見ると、宮城県下では一:四となり、岩手県下では一:七となる。即ち明治廿九年の時でも、今回のでも、何れも岩手県の方が宮城県下より高い浪を蒙ったが、宮城県下では今回の津浪が比較的高いと言うことになる。この原因について、先づ考えられる事実は、今回の地震の震央が前回のに比して稍々南方へ偏し、宮城県の方に近くなっていると言うことである。併し不幸にして明治廿九年の際には、地震観測の設備が不完全であったため、推定された震央位置は極めて誤差大きく、今回のと比較し得られぬ程度であるため、この事実を立証し得られぬのが遺憾である。
(五)、津浪襲来の時刻
津浪の来た時刻を踏査の際地方住民につき一々尋ねてみたが、平常時間の概念があまりない人々から聞いたのであるから可なりの誤差を許容せねばならない。一方験潮儀で記録したものから読みとったものは中野氏の報文中にあるし、著者自身でも一々験潮記録から読みとってみた。然しこれも可なりの時刻差があり、震央に近い個所で地震による地動を記録したところでは其の時刻から補正できるが然らざる所では矢張り大なる誤差を認める。
又各部落の人々から聴取した津浪襲来の時刻は大低地震後何分位と言う。この地震後何分と言うのは地震がすんでから何分と言う意味であるから、地震の継続時間を考慮に入れて各地の津浪襲来の時刻を算出して見る。材料は本報告中に記載してある各調査員の調査結果による。
津浪襲来の時刻
午前四時三十分 (福島)四ツ倉(宮城)小積
同 四時十分 (北海道)広尾
同 四時 (宮城)磯、中浜、閖上(青森)蛇の浦
同 三時三十分 (福島)富岡、豊間(宮城)小渕、小網倉、鮎川、尾浦(青森)四川目、天ケ森、尾鮫
同 三時二十五分 (福島)久ノ浜(宮城)荻浜
同 三時二十二分 (岩手)赤前
同 三時二十分 (岩手)綾里
同 三時十八分 (宮城)鮫ノ浦(岩手)宮古
同 三時十五分 (宮城)大谷川、女川、雄勝、桑沢、名振、大指、(福島)中村請戸、(岩手)白浜、小白浜(北海道)様似
同 三時十四分 (宮城)欠浜
同 三時十分 (宮城)前網、寄磯、立浜、船越、小室、(岩手)越喜来、湊、八木(青森)小舟渡、塩釜、砂森(北海道)小越
同 三時七分 (宮城)鮪立(岩手)根崎
同 三時五分 (宮城)大原、網地、谷川、寺間、出島、御前、大浜、小泊、相川、小指、月浜、志津川、伊里前、名足、歌津村石浜、只越、(岩手)高田、田老、吉浜、野田(青森)川口、二川目、大蛇、六川目
同 三時零分 (宮城)唐桑村石浜、宿、(岩手)千鶏、両替
同 二時五十五分(岩手)音部、唯出
以上は各調査員が個々の部落の住民諸氏から聴取した津浪襲来の時刻であるが、之を地図上に記入して等時線を画いて見ると三陸沿岸中、青森県鮫港から、南は金華山に至る迄沿岸では殆ど三時十分津浪襲来をうけたことになってしまう。つまり地方民諸氏から聴取した時刻は地震後三十分位に浪が来たと言うのが最も多いと言うことで結局時刻の正確な測定は一般の人には難しいと言うことを裏書きすることになってしまった。如何となればこの結果を三陸地方沿海の水深を考慮して津浪襲来の時刻を算出した精確な結果と比較してみても、よき一致を見ない。故にこの結果は只参考として茲に載せることとした。只之れから、津浪が大体地震後三十分乃至四十分で三陸沿岸に到達したと言う事実だけは言い得ると思う。
●参考
岩手県昭和震災誌によると津波襲来時刻は左の通りで山田湾内が著しくおくれている捉え方がなされている。
これは同湾の特殊性によるものか或いは調査上の誤差によるものかわからない。
津浪襲来時刻(昭和八年三月三日)
町村 | 部落 | 襲来時刻 | 地震後ノ時間(分) |
---|---|---|---|
釜石町 | 白浜 | 三・一〇 | 二五 |
釜石 | 三・一〇 | 二七 | |
鵜住居村 | 両石 | 三・一〇 | 二二 |
片岸 | 三・一〇 | 二五 | |
大槌町 | 大槌 | 三・一〇 | 二四 |
吉里吉里 | 三・一〇 | 二二 |
町村 | 部落 | 襲来時刻 | 地震後ノ時間(分) |
---|---|---|---|
船越村 | 田ノ浜 | 三・一三 | 四三 |
大浦 | 三・一八 | 四八 | |
織笠村 | 織笠 | 二・四〇 | 一・一〇 |
山田町 | 山田 | 三・三四 | 一・〇四 |
大沢村 | 大沢 | 三・三二 | 一・〇二 |
重茂村 | 姉吉 | 二・五五 | 二五 |
里 | 二・五五 | 二五 | |
磯鶏村 | 白浜 | 三・一四 | 三九 |
磯鶏 | 三・一二 | 三九 | |
宮古町 | 鍬ケ崎 | 三・一二 | 三九 |
藤原 | 三・一二 | 三九 | |
田老村 | 乙部 | 三・〇〇 | 三〇 |
田老 | 三・〇〇 | 三〇 | |
小本村 | 茂師 | 三・〇二 | 三〇 |
小本 | 三・〇二 | 三〇 |
(六)、津浪襲来の状況
1 津浪前の退潮
津浪が襲来した時の状況を調べて見る。之は三陸沿岸各地の験潮儀記録で見ても判る如く、始め僅かな上潮で始まっている。然し地方住民で此の上潮を見た人は極めて少ない。只僅かに岩手県大野湾の湾奥に当るところで見ていた人が「津浪の前に潮が二、三尺寄せそれから五分にて退いて行った」と言っていたのと宮古及細浦で「地震後三十二分満潮面より三尺増水した」と言っていただけである。要するに験潮儀に現われた初潮の上潮はあまり小さく且徐々に寄せてきたらしいので之を見た人はなかったと思われる。
津浪の前に潮が退いたことは非常に多くの場所で観察している。其の状況を次に列記して見る。
宮城県
- 大原。午前三時頃、潮が三尺位退いていた。
- 鮎川。津浪の前に潮退く。二間程の長さの桟橋の橋脚が悉く見え、捕鯨船の赤腹も見えた。
- 女川。津浪の直前、ザワザワと音を立て、潮が退く。
- 小泊。津浪の直前、海岸から五十間位潮が退いた。
- 名足。津浪の前、五十米迄潮が退く。
- 大谷。波路上、前浜、尾崎、片浜、七半沢、台の沢。津浪の前一時干潮となり、十分後に大浪来る。
- 少々汐。地震後三十五分位経って潮引後十分して大浪が来る。
- 岩井崎。地震後十五分潮退く。
- 鶴ケ浦。地震後三十五分して潮が引き、其後五分して浪が来る。
- 梶の浦。地震後三十分して潮が退く。
- 小鯖。地震後二十分して十尺位潮が退く。
- 只越。三時頃潮が退いていた。
- 欠浜。海水殆ど湾口迄退いた。
岩手県
- 長部。地震後三十五分、海水湾口迄退いた。
- 根崎。地震後二十五分、潮退く。
- 綾里。地震後三十分、一粁の湾口迄潮退く。
- 小白浜。地震後二十四分で潮が退いた。
- 釜石町。地震後十分、底力ある音が聞え、其後数分で延長百六十間の桟橋の先端迄潮が退いた。
- 鵜住居。地震後十分、音響聞え、間もなく潮退く。
- 千鶏。二時五十五分、十二間位潮が退いた。
- 伝作鼻。地震後約二十分、海水退いた。
- 音部。津浪の前五分、海水七、八間退いた。
- 白浜。三時十分頃、潮が退いた。
- 赤前。三時十五分頃、海水、急に退いた。
- 宮古。津浪の前、水深七、八尺退いた。
- 磯鶏。津浪の前、五十間程、潮が退いた。
以上記載したのは、各調査員の報告であるが、津浪の前に潮が退いたことは、験潮儀の示すが如き確実であって、この現象は三陸沿岸から北海道迄も観察されている。而して退潮の減少も非常に顕著であったらしい。そうして津浪が押寄せたのは、潮が退いてから平均五分位後となっている。併しこの間隔は湾の形や水深によって異なり一定していない。
2 津浪の寄せ方
津浪の寄せ方は、海岸の地形、江湾の水深、形によって異なるし、又震央距離、又湾口の向きによっても異なる。其の押寄せ方は徐々に来たのもあるし、突如大浪が殺到したのもある。先づ徐々に押し寄せた所を挙げると左の如くである。
宮城県
- 荻浜。押寄せる時は徐々に静かであったが、引潮は強い。
- 小網倉。津浪は強くなく、大潮が寄せてくる様であった。
- 飯子浜。寄せ方も退き方も極めて徐々であった。
- 出島。徐々に、水が増してくる様であった。
- 船越。比較的静かでザワザワと寄せてきた。
- 名振。同前
- 岩井崎。徐々に押し寄せて来た。
- 浦の浜。田尻勢、極めて弱い。
- 磯草。勢、極めて弱い。
岩手県
- 白浜。水深いため、緩漫な波来る。
以上であって津浪が徐々ときたのは牡鹿半島西岸の如く回り込んで来た所とか、水深の深い所とか、距離の遠い所である。中には、金華山、山鳥の渡、魹崎の如く外洋では注意して見ていても津浪とは気付かなかった所もある。之は恐らく水深が深いため浪高小であって気付かぬ程度であったためであろう。
又、突如として大浪が押し寄せてきたにしても、その押し容せ方は湾形、水深、湾の方位等によって可なりに異なっている。即ち、各地に於ける押し容せ方は次の如くである。
宮城県
- 磯。海面白光を呈し見る間に来る。
- 小渕。泥を交え、波の先が切立った屛風の如く、速度、大にして汽車より速い。
- 谷川。押し上った様になってくる。
- 立浜。静かに来たが防波堤の所で急に高くなる。
- 白浜。コンモリと高く盛上がってくる。
- 小室。波頭が砕けて重なり合った様に寄せてくる。
- 伊里前。浪が幕を張った様になってくる。
- 名足。器内の水が溢れでる様になってくる。
- 石浜。泥色の水が、泡立ってくる。
- 大谷。真黒な波が、盛上って来る。
- 鶴ケ浦。黒い潮が大なる速度で来て岸へ来るに従い、青白く光る。
- 欠浜。黒い潮が高まって来て岩に砕けると青白く光る。
岩手県
- 根崎。黒い潮が盛り上りながら迫ってくる。
- 泊港。下から押し上げる様に来た。
- 下船渡。黒い潮が盛上ってくる。
青森県
- 三川目。薪を横に並べた如く重り合って来る。
- 四川目。真黒な波空へとどく様に盛上ってくる。
- 五川目。ジヤジヤと言う音を立ててくる。
- 淋代。黒墨を載せた如き浪が来る。
- 砂森。真黒になって盛り上ってくる。
津浪の押寄せ方は以上の如くであるが、大体之を三様に分ち得ると思う。(一)は波面が屛風を立てた如くなってきたもの、(二)山の様に盛上ってきたもの。(三)海岸に打寄せた浪の如く泡立ってくるか重なり合う様に来たものの三種である。
(一)は水深が大なる場所で観測されたものが多く(二)は湾口から急に水深が浅くなった所で観測され(三)は浅い所即ち遠浅の場所で多く観測されている。即ち浪の押し寄せ方は色々な地形、其の他条件によって異なるが、水深が最も大なる影響を与える様に思われる。
地震によって震央附近に生じた波は理論上からは単独波であろうが、実際湾内や沿岸に押し寄せる津浪は一回でなく数回に亘っている。中には十数回も反復して押寄せた所もある。又、事実、震央に生じた波も振動性のものとして数回の波が引き続いて起り、之が沿岸へ波及するとも考えられる。併して理論上から之等波群は第一のものから次第に高さを減じてゆくべきである。然るに沿岸各地で経験した津浪の中には第一の波より第二、或いは第三の波の方が高かった所もある。今、沿岸各地に襲来した最高の波は第何回目のものであったかを各調査員の報告によって記してみる。第一回の波が最高であった場所。
宮城県
荻浜。谷川。大谷川。鮫浦。寄磯。尾浦。雄勝。立浜。荒屋敷。大指。伊里前。欠浜。高石浜。
北海道
小越。様似。
即ち宮城県の南部と外洋に面した所、及び北海道だけは第一回の浪が最も高く且大きかったと称している。
第二回の波が最高であった場所
宮城県
出島。寺間。船越。名振。白浜。相川。小室。鶴カ浦。梶の浦。小鯖。鮪立。石浜。
岩手県
長部。両替。泊港。大船渡。吉浜。小白浜。釜石。千鶏。伝作鼻。白浜。堀内。赤前。磯鶏。田老。八木。
青森県
大畑
即ち、岩手県は殆ど全部第二回の浪が最高であったと言う結果になっている。又宮城県の方でも北部では二回目の浪が最高となっている。
第三回目の波が最高であった場所
宮城県
大原。鮎川。網地。大浜。桑沢。小々潮。岩井崎。
青森県
榊。二川目。小舟渡。大蛇。六川目。
即ち第三回目の浪が最高となっている所は宮城県南部と青森県であって共に遠距離の地に当っている。
第四回の波が最高であった場所
宮城県
小積。小渕。
共に牡鹿半島西岸であって半島を廻ってきた波によって生じた所である。
斯様にして、岩手県下の各港湾、及沿岸では第二回の浪が最大であり、宮城県下の南部牡鹿半島東岸では、大体第一回の波が最大であり、青森県及宮城県北部では第三回の浪が最高となっている。斯く何回目の波が大であったかと言うことは、其の江湾の形状、水深及び震央迄の距離によって異なるものであろう。而して此の問題の徹底的調査は験潮儀の記録を精査し江湾の形状、水深等と比較せねばならぬ。又一方其の湾の静振とも関係するものであろうと思う故、立ち入った調査は他日に譲り茲には只事実を記すに止める。
3 津浪の回数と週期
今回の津浪を体験した人々の談によれば、津浪は単独波でなく、数回に亘り大浪が押寄せたと言う。その回数も各江湾によって異なるが之も江湾の形状、水深等が主な要素となって其の回数が決定されるらしい。今、各調査員の踏査報告につき、各江湾へ押寄せた津浪の回数を測って見ると左の如くである。
宮城県
- 荻浜。三、四回、寄せて来た。
- 小積。二、三分の週期で二、三回の津浪があった。
- 小網倉。五、六回繰返す。
- 大原。十分位の週期で、六回
- 小渕。十五分位の週期で大きいもの四回。
- 十八成。十分位の週期で数回。
- 大谷川。強いものが三回あった。
- 寄磯。七回位来たが週期は始め七分位、次第に長くなる。
- 女川。午前八時頃迄に十四、五回も押寄せた。
- 出島。十分及至十五分位の週期できた。
- 尾浦。大なるもの三回、三十分位の週期。
- 御前。大なるもの三回。
- 雄勝。強いもの三回。
- 大浜。強いもの三回、五分位の週期。
- 立浜。大なるもの三回、五分及至十分位の週期。
- 桑浜。大なるもの三回。
- 船越。強いもの三回、五分位の週期。
- 名振。強いもの三回、五分位の週期。
- 相川。強いもの三回。
- 小室。強いもの三回、十五分及至二十分の週期。
- 伊里前。大きいもの二回来る。
- 岩井崎。大きい浪、四回来る。
- 鶴ケ浦。大きい浪、四回。
- 宿。大きいもの、二回来る。
- 鮪立。五回寄せたと言うものあり。
- 六時迄、小津浪多し。
- 御前。三、四分の間隔を置いて三回。
- 石浜。約四分の間隔にて三回。
- 高石浜。大きい浪四回来る。
- 欠浜。大きい浪四回来る。
岩手県
- 高田。大きい浪三回来り、五時半頃常態に帰す。
- 長部。五回程来る。第一回と第二回との間隔五分。
- 両替。前後六回来る。
- 泊港。二回大浪来る。その間隔三分位
- 綾里。五回も押寄す。
- 越喜来。十五分間隔にて三、四回。
- 下甫嶺。二、三回繰返す。
- 小白浜。数回の浪来る。
- 鵜住居。大浪二回、其間隔十分位。
- 千鶏。大浪三回、週期十分位。
- 伝作鼻。十分間隔にて三回。
- 重茂。大浪三回、夫々五分及十分の週期。
- 音部。大浪三回、夫々五分及十分の間隔。
- 白浜。大きい浪、二回来る。
- 赤前。十分の間隔にて三回。
- 宮古。三時十二分、同二十三分、同三十五分、同四十五分と前後三回。
- 磯鶏。十分間隔にて三回来る。
- 田老。大浪三回。夫々二十分及至十五分の間隔。
- 八木。三回来る。間隔十五分。
青森県
- 榊。十五分間隔にて三回。
- 鮫。大浪三回、夫々九分及十五分間隔。
- 川口。大浪三回、夫々十五分及五、六分間隔。
- 小舟渡。大浪三回、十五分乃至二十分間隔。
- 大蛇。大浪三回、十分乃至二十分間隔。
- 二枚橋。五時半から六時迄に四回来る。
北海道
- 広尾。三、四回、大浪が来た。
- 小越。大浪三回、約三十分間の間隔にて来る。
- 様似。大きい浪三回来る。
即ち以上の津浪の押寄せた回数を調査した個所五十七個所中、大浪が三回押し寄せたと称する所は三十ケ所であり、二回と称する所が五ケ所、四回と言う所六ケ所、五回、六回、七回と称する所が夫々三ケ所、二ケ所、一ケ所と言う割合になっている。此の外二、三回と言う所二ケ所、三、四回と言うところ三ケ所、五、六回と言う所一ケ所、数回と言うところ一ケ所と言う割合である。
即ち多くの所で高い浪は三回来たと言う結果になっている。而して大浪が来た数回を判然と観測した個所につき各回数の百分率をとって見ると、二回十二、三回六十二、四回十三、五回六、六回四、七回二、八回〇、であって三回と言うのが最も多い。
斯くの如く津浪の回数は三回と言うのが最も多いが、之等三回の大浪を受けた所二十一個所につき、第何番目の波が最も高かったかを調べて見ると、第一回の波が最高であった所は六ケ所、第二回目の波が最高であった所は十一個所、第三回目の浪が最高であった所は四個所となっていて、第二回目の浪が最高であった所が特に多い。併し同じく三回の高浪を受けた所でも最高波が、斯様に異なるのは湾の形状、水深等が異るためであろうが、これも興味ある問題として後日の精査に俟たねばならない。
更に今回の津浪に於て、各踏査員が調査した津浪中の大浪の間の週期を調べて見ると次の如き結果となっているる。即ち茲に各週期を以て津浪が現われた場所の数を現わし、其の百分率を示すこととする。統計に利用し得た場所は、全部で四十四ケ所である。
津浪の週期 | 百分率(%) |
---|---|
二分乃至三分 | 七 |
六分乃至七分 | 七 |
十分前後 | 三二 |
十五分前後 | 二〇 |
四分乃至五分 | 二〇 |
二十分前後 | 九 |
三十分前後 | 四 |
右に依って判明する如く、津浪の週期は十分内外のものが最も多い。即ち第一、第二等の高浪は約十分位の間隔で来たと見られる。尚五分位の週期も可なりの頻度を示しているが、これは各部落の住民諸氏から聴取したものの統計であるから、其処迄正確であるや否やは保証し難い。
之によって見ると、津浪の際に数回に亘って押し寄せた異常な高浪は、浪の静振とは殆ど無関係に約十分内外の間隔にて次々に襲来したと見ることができる。而して此の波は震央に於て次々に発生したと見ることが出来よう。
4 音響と海鳴
強震後各地に於て異常な音響を聞いた所が多い。この音響は大砲を打った様な響と言うのが多く而かも多くは海岸で聞かれている。其の為或いは津浪が海岸に断崖に打当った時の響ではないかとも考えられる。今此の音響が如何なる原因によるものかを明らかにするために各調査員の報告及三陸地方の各管内観測所の報告によって調査して見ようと思う。
岩手県(五十三個所中三十)
- 盛岡。震前地鳴、震後二十七分、東方に鳴動。
- 若柳。震後、東方に砲声の如き音三回。
- 猿沢。震前地鳴。
- 大原。震後東方に鳴動。
- 岩谷堂。震後鳴動。
- 永岡。震後鳴動二回。
- 湯田。震後砲声の如き音。
- 沢内。震後遠雷の如き音、南東へ三回。
- 岩根橋。震前に地鳴、震後三十分、南東に砲声の如き音二回。
- 附馬牛。震後五分、砲声の如き音三回。
- 西山。震後北東へ砲声の如き音二回。
- 大志田。震前遠雷の如き音二回。
- 雫石。震後遠雷の如き音。
- 松尾。地鳴あり。
- 御堂。震後遠雷の如き音。
- 葛巻。震後地鳴。
- 浄法寺。震前地鳴。
- 田山。震後三十分、南東方に地鳴。
- 荒沢。震後大砲の如き音。
- 一戸。震後三十分、砲声の如き音。
- 福岡。震後地鳴。
- 金田一。震後三十分砲声の如き音。
- 種市。震後地鳴。
- 久慈。震前地鳴。
- 宇部。震後三十五分、砲声の如き音。
- 山形。震後地鳴。
- 山田。震後十分、鳴動。
- 釜石。震後砲声の如き音。
- 田子。震後砲声の如き音。
- 盛。震後三十分、南東に砲声の如き音を聴く。
宮城県(十三個所中七)
- 気仙沼。震後五分音響。
- 若柳。二時三十四分、同五十分、弱音二回、二時五十分、砲声の如き音。
- 登米。砲声の如き音。
- 吉岡。東方に雷鳴の如き音三回。
- 大河原。音響らしき音。
- 松倉。二時五十四分、同五十六分、南東に爆音。
- 湯原。暴風の如き音。
- 青森県(二十個所中八)
- 三厩。震後四十六秒、雷鳴の如き音響。
- 蟹田。発震直後地鳴。
- 金木。発震後三十秒、風声の如き地鳴。
- 泊。地震終る頃午砲の如き音響。
- 黒石。発震直後、風声の如き地鳴。
- 七戸。震後直に雷鳴の如き音響。
- 休屋。震後雷鳴の如き音響。
- 三戸。東方に大砲の如き音響三回。
- 福島県(二十三個所中六)
- 安積。地震前、車、橋上を走る如き音響。
- 三阪。音響甚多。
- 田島。音響激し。
- 川俣。遠雷の如き音響。
- 上遠野。声響あり。
- 栅倉。発震数秒内声響あり。
秋田県(十五個所中九)
- 毛馬内。震後爆発様音響。
- 花輪。二時五十分、ドドンと音す。
- 大館。震前、南西より風声の如き響あり、地震直後遠雷の如き音。
- 鷹の巣。声響あり。
- 船川。地鳴あり。
- 角館。弱き地鳴。
- 大曲。二時五十八分に一回、三時に連続二回、東北東方向に大砲の如き音。
- 本荘。声響を伴う。
- 矢嶋。音響あり。
北海道(五十七個所中十一)
- 静内。震後声響。
- 土武者。東西方向に地鳴。
- 納沙布。地鳴、西より東へ。
- 西別。弱き地鳴。
- 舌辛。音響を伴う。
- 標茶。風声の如き音響。
- 大津。震前二秒、強風の如き地鳴。
- 夕張。地鳴あり、南西方。
- 森。車、橋上を走る如き声響。
- 石狩灯台。弱き地鳴。
- 恵山岬。地唸の如き弱き地鳴。
茨城県(十七個所中五)
- 大子、直壁、結城、水海道、守谷。何れも地鳴あり。
千葉県(四十個所中一)
- 多古。震前、車、橋上を通る如き地鳴。
神奈川県(十四個所中一)
- 姥子。ゴーゴーと言う地鳴を聞いた者あり。
群馬県(二十二個所中一)
- 万場。地震と同時に風声の如き地鳴。
長野県(二十二個所中二)
- 境。鳴響あり。
- 上田。地震前、風声の如き響。
以上、報告を総括して見るに砲声の如き鳴響を聞いた所は、岩手、宮城、青森、秋田の四県下に限られ、然も凡て地震後に聞いている。更に斯様な音を聴取した所で聴取時刻を測り得た七回につき平均時刻を求めてみると、大体、発震後三十分乃至三十五分となっている。又以上四県下で地震前に地鳴を聞いたところは六ケ所で其の音は単に鳴響或いは風声の如く聞こえたようなものであった。これは恐らく主要動の前に聞いたものであろう。
更に遠距離の地方でも地鳴りを聞いたところもあるが、之等は遠雷の様な音或いは風声の様な音が最も多く、砲声の如き音と言う所はない。又砲声の様な音を聞いたところを調べてみると、其の中、最も遠距離の所は、秋田県の大曲、花輪等であって、太平洋海岸から最短百三十粁も距っている。若し、この砲声或いは爆音の如き音が海岸の断崖に巨浪が打当った音と仮定しても、それが百三十粁の遠距離迄聞える位大きかったと言うことは極めて疑わしい。
又、秋田県下で、この音を聞いた時刻は、二時五十分乃至三時であって丁度津浪が三陸沿岸に襲来したのは同時刻或は夫より少しく前である。然かも音響は三陸沿岸から秋田県下迄十分位の走時を要するから、これから見ても各地で聴取した砲声或は、爆音の如き音は波浪が断崖に激突した時に生じた音とは考えられぬ点である。
次に各踏査班が調査した三陸沿岸各地に於ける音響聴取状態を調べてみる。
宮城県
- 小積。砲声様の音三回。
- 小網倉。砲声様の音二回、津浪の少し前に聞く。
- 大原。津浪の少し前、砲声様の音、更に十五分後微声一回。
- 小渕。震後東方に砲声様の音三回。
- 十八成。震後三十分東方に砲声様の音二回。
- 鮎川。震後三十分東方に砲声様の音。
- 大谷川。震後二十五分砲声様の音、更に十五分後微声。
- 女川。震後東方に汽車の如き大音響、更に北方に銃砲様の音二回。
- 雄勝。三時十分東方にゴーと言う大音響二回。
- 立浜。地震と津浪との間にゴーと言う音。
- 荒屋敷。地震直後東方にゴーと言う音。
- 小泊。津浪の五分前沖の方で砲声様の音二回。
- 大指。津浪直前砲声様の音沖に聞ゆ。
- 小指。同前
- 志津川。地震直後砲声あり。
- 小泉大沢。地震後東方へ音を聞く。
- 前浜。震後二、三十分大音響あり、これから五分後微音あり。
- 尾崎。片浜、七半沢、台の沢、浪板、気仙沼、同前。
- 小々汐。震後音響聞ゆ。
- 岩井崎。津浪直前ダイナマイト爆音の如き音東方に聞ゆ。
- 鶴カ浦。津浪直前爆音あり、更に五分後微音。
- 梶の浦。震後二十分音響。
- 宿。震後二十分爆音。
- 小鯖。三時頃ドンと爆声。
- 安波山。二時三十六分音響。
- 只越。津浪前引潮と共に爆音二回あり、後のもの稍小。
- 唐桑。震後二十分音響。
- 欠浜。震後八分東北東に砲声様の音を聞く。後五分稍小なる音、更に二十五分後稍大なる音あり。
岩手県
- 長部。震後二十五分音響。
- 高田。震後二十分南々東から底力あるドンと言う音二回。
- 根崎。震後二十分東方に爆声あり更に八分後微音。
- 両替。震後二十分ダイナマイトの如き爆音。
- 泊港。震後二十五分東方にハッパの如き爆音。
- 唯出。震後二十分砲声の如き音二回。
- 碁石。震後十分乃至二十五分爆音二回。
- 泊里。同前。
- 細浦。震後二十五分西方に音響。
- 大船渡。震後三十分東方に大きくないが強い音を聞く。
- 綾里。震後二十分東方にハッパの如き音。
- 砂子浜。震後二十分砲声の如き音東方に二、三回。
- 吉浜。震後十五分沖合に砲声の如き音。
- 釜石。震後十分東方に底力ある遠雷の如き音三回。
- 鵜住居。震後十分沖合に遠雷の如き音。
- 伝作鼻。震後十分砲声の如き音一回。
- 織笠。震後ドーンと云う音地中より響き来る如し。
- 湊。震後三十分遠雷の如き音。
青森県
- 鮫。震後二十五分南東方に異状音を聞く。
- 三川目。震後十分北方に砲声様の音。
- 四川目。地震中砲声の如き音。
- 五川目。震後十分乃至二十分地響ある砲声の如き音。
- 淋代。震後間もなく砲声の如き音。
- 六川目。砲声を聞く。
- 天ケ森。震後ドーンと言う音聞ゆ。
- 尾鮫。震後十五分砲声の如き音。
- 平沼浜。震後雷鳴の如き音二回。
- 平沼。震後十五分ドンドンと音聞ゆ。
- 木野部。三時半頃砲声様の音聞ゆ余韻あり。
以上調査した結果を総合してみるに音響は殆ど全部砲声或いは爆音の如きものを聴取して居り、其の時刻は凡ての個所にて津浪襲来前、即ち、海水が退いた前後にドーンと言う音が聞こえたと言うのが多い。そうして聴取時刻は最も遅い所で三時十分、速い所で二時三十五分であり、全五十二ケ所の平均は二時五十二分となっている。而して之等各地の震央距離の平均は二七十四粁であるから、これから算出すると音波速度は秒速度約二百三十米となって音波速度秒速三百四十米と比べて可なりの差がある。然し之は平均の値であるし、又材料が不正確の嫌いがある故これから音波速度を論するのは無理である。
又音を聴取した状態を見ても二回或は三回も聞いたところがある。而して二回目或は三回目の音は微かなものであったと言うのが多い。これから見ると二回目或は三回目の音は反射音であろうかとも考へられる。
要するに地震と津浪との間に於て聴取した砲声或は爆音の如き音響は地鳴りであって、断崖へ巨浪が激突したために生じたものではないらしい。
次に海鳴或は潮音であるが、津浪が押寄せる頃には沿岸各地で多くの海鳴或いは潮音を聞いている。其の様な音を聴取した状況は左の如くである。
宮城県
- 坂元。震後三十分乃至一時間海鳴強し。
- 荒浜。震後十分、三十分に海鳴あり、四時頃甚だ強し。
- 網地島。第一回の津浪来る時、金華山方面にザァーと言う音を聞く。
- 伊里前。津浪が来る時ゴーッと言う音聞ゆ。
- 名足。潮が引いた後ゴーと云う音聞ゆ。
岩手県
- 唯出。震後三十分乃至四十分海鳴二回聞ゆ。
- 千鶏。三時ゴーゴーたる音聞えて津浪来る。
- 重茂。三時ゴーゴーたる波音聞ゆ。
- 赤前。三時八分遠方にゴーゴーたる音聞え、次第に高くなる。
- 宮古。三時二分強風吹荒む如き音聞ゆ。
- 野田。震後三十分強風の如き鳴動と共に津浪来る。
- 八木。雷鳴の如き音と共に津浪来る。
青森県
- 小舟渡。震後三十分ゴロゴロと石を転ばす如き音と共に汐退く。
- 細谷。震後三十分ゴーゴーたる音聞ゆ。
要するに海鳴と思われる現象は津浪襲来の際の浪音であって巨浪の押寄せる前に遠く沖合で聞えた音、或いは海水が退いた時の波音であったと思われる。従って気象学上で云う如き海鳴の現象は観察されていない。
5 発光現象
この現象に就ても著者は各踏査員に依頼して現象の現不現を確める事とした。各調査員の踏査結果は左の如くである。
宮城県
- 亘理、荒浜、角田、川崎、鳴子、鎌先、荻浜は、認めず。
- 小積。無し、但し海面キラキラと光っていた。
- 小網倉。認めず。
- 小渕。地震と津浪との間に於て北東方に二、三回稲妻様の光を見る。
- 鮎川。一般に認めず。但し山火事の如き光り物を北西方の空に見たものあり。
- 渡波。南西方の空に南から北へ亘り稲妻様の薄蒼き光を見た者あり。
- 金華山。灯台看守震後徹宵して観測したが発光現象なし。
- 川渡。東北東の空に蒼光あり、二、三度漏電の如き怪光あり。
- 前網。寄磯、飯子浜、光認めず。
- 女川。特別に光なし。津浪の波頭砕けて淡く光る。
- 出島、尾浦、御前、立浜、桑浜、小泊、小室、光りを認めず。
- 雄勝。東方に稲妻様の光を見たと言うものあり。第一回爆音と津浪との間に沖の方薄明るくなる。
- 志津川。発震直後光あり。最初青光にて間もなく赤色に変じ、尾を引いて消ゆ。
- 長崎。認めず。
- 安波山。震後南二度東の空に薄い青白色の光あり。
- 只越。浪が岩に砕ける時青白く光り放電光の如し。
- 欠浜。光を認めず。
岩手県
- 碁石、門之湾奥、泊里光を認めず。
- 大船渡。震後青光を見る。
- 生形。震後、東南東に明るい青光を数回見る。
- 下甫嶺。泊、浦浜、魹崎灯台光を認めず。
- 川代。震後西空に青色光象を見たものあり。
- 千鶏。強震後一回ピカッと青白色眼前に光る。
- 重茂。強震後、発光現象三回あり。
(青森県以下略)
扨、前述した報告中各調査員が踏査した個所合計二百六十六個所中発光現象と認めたと言う個所は僅かに十九個所であったが其の光は電光様のものと言うのに一致して居る様である。又金華山灯台の如く徹宵注意して見ていたが光象を認めなかったと言う様な処もあり、斯様な所さえ二十二個所もある。更に以上発光現象を観測したものにつき大体其の性質を見るに――
色 判然と色を指摘した所十一ケ所中青白色と言うのが七、青色が三、青緑色が一であって大体青味がかった色であることに一致している。其の外電光様と称するのが多いから先ず総てが青味勝ちの色と思われる。
形 形を指摘した十六個所中稲妻状と言うのが六、電光状と言うのが六、山火事の如き放射状の如き、尾を引いた如き、孤状の如きと言うのが各一であった。稲妻状と電光状と言うものの差は何であるか判らぬが先ず電光状と言うのに一致していると見るべきであろう。青森県二川目の如き電光様発光現象後に停電したと言う所もある。
方向 方向は全く一致せず、あらゆる方向に認めて居る。宮城県南部では北東、北西、南西、東北東各一であり、岩手県では東南東、西、北各一で更に眼前に光ったと言うものあり、青森県では南方三、茨城県では南方二、東南東一、東京市では北西、神奈川県では東方二となっている。即ち震央の方向とは殆ど一致せず、寧ろ震央とは反対の方向に見たものが多い。
斯様にして見ると、発光現象と言うものは少くとも今回の三陸強震では電光様のものが多く、高圧線のショートによると見られる場合が多い様である。併し尚此の現象の本性については今後の調査によらねばならない。
尚、津浪の際、沖合の方の海が青白く光ったとか波頭が青白く光ったと言う様な観測をした向も多いが之は海面に浮遊するプランクトンの如き微生物による光であろう。
6 津波の前兆
津浪の前兆とも見られる可き異状現象が所々に於て観察されて居る。其の様な現象としては魚類の棲息状態の変化、土地の沈降及び井水位の変化である。今各調査員の実地踏査による之等諸現象は左の如くである。
宮城県
- 大谷川。汐が退いた後井戸の中は空になつて居た。併し地震の最中には尚水があつた。
- 名足。津浪により魚類、章魚、鮑迄も打ち上げられて居た。鮑が打ち上げられたと云ふ例は今迄なかつた様である。
- 気仙沼。改修事務所では二日前より潮位低下し、工事捗つた由。同所潮位は平常四・〇乃至三・〇米である可きが〇・七米であつた由。
- 大島。二月中旬から井水減少、海苔製造に故障を生じた。今迄井水は期節降水量によつても減少する事はなかつたが、今回始めて特に要害で著しかつた。西海岸沈降しつつあるものの如く、海岸に沿ふ村道は十年間に三回陸地の方へ改修した。八十年前と現在の村道の高低差は二米に及ぶ。
- 欠浜。四季を通じ今迄減水した事もない井戸が二月中旬から目立って減水した。
岩手県
- 越喜来。小学校長小原氏の調査によれば、本村高所にある井戸にて直接津浪による被害其他無き六個所の井戸は凡て異常を呈した。即ち何れも渇水混濁したが其の期日は一定していない。二十日前よりのもの一、四五日前よりのもの一、三日前よりのもの二、三四日前よりのもの一、二月中旬から一週間に亘ったもの一等であった。
- 釜石。地震後井戸著しく減少し、殆んど渇水状態となったが四日常態に帰る。
- 船越。数日前から井水減少し津浪後渇水した。
- 織笠。地震後井水半減した。
- 大沢。井水減少したと称するものがあつた。
- 千雞。昨昭和七年四月上旬から中旬に亘り鞭藻類群集浮流した。
- 重茂。昨年二月頃から厄水(フノリを溶した様なもの)流れ来り昨年五、六月頃最も著しく八月頃に止んだ。
- 磯雞。鰈、アブラメ、スイ等が打揚られた。
- 赤前。赤貝等多数打揚られた。
- 金浜。鰈、ドンコの類が打揚られた。
- 田老。冬期鰯の大漁があつた。
青森県
川口。強震二日前から潮位一米下る。井戸渇水した。以上の如くであつて前兆と見做さる可き現象としては
- (一) 二月頃から井水の水位減少した。
- (二) 二日前から潮位が著しく低下した。
- (三) 十年来陸地の沈降が起りつつあつた。
- (四) 昨春鞭藻類が群集浮流した。
- (五) 昨冬から今春にかけ鰯の大漁があつた。此の現象は三陸沿岸至る所で観察された現象である。
右の中井水位の減少所々で観測されて居るが、之れは明治二十九年の大津浪の際にも現はれた現象であるため特に注意して観測されたものである、併し宮城県大原、十八成では震後直ちに井水を検査したが水位の変化は認められなかつた由である。兎に角所によつて井水位に変化を来した事は何によるものか判らぬが注意すべき現象である。それと共に潮位の変化が又関連して居るとも見られる。
即ち潮位変化は二、三日前から起つたと称する所もあり、気仙沼の如きは験潮儀にも現はれて居るから先づ確かなものと見られる、之は相対的現象であつて海水の減退によるものか陸地の隆起によるものか判明しない。然るに一方宮城県大島村村長の談によれば大島沿岸の陸地は十年来次第に隆起しつつあつた由である。此の両者減少は全く反対なものであるが今迄長年月に亘り徐々に隆起しつつあつた陸地が発震直前急激な沈降に移ったとも考へられる。
陸地沈降の現象は又本台鷺坂清信氏が宮城県南部に於いて津浪が打上げた高さを調査し、之れを明治二十九年の際のものと比較した結果から立証している。果して地震前に於て陸地の隆起沈降等の現象が起つたか何うか之れも興味ある現象として尚今後の精査に俟たねばならない。
昨冬から今春にかけて鰯の大漁があつたと云ふ現象は明治二十九年の大津浪前にも同様観測された事である。
此の現象から鰯が地震を予知して移動したと称する向もあるが、著者は夫れよりも一月来頻々として発現して、局発性前震のために、鰯が移動したと考へる方が合理的では無いかと思つている。尚鞭藻浮流に就てはそれが約十カ月以前に起つた現象であるから何とも云ひ難い点がある。
以上今回の強震の前兆とも見做さる可き現象には数種あつて何れも前回、明治二十九年の大津浪の際にも観察された現象と一致して居るのは興味ある事で、何れの現象も今後更に注意して観測する事を要すべき事柄と考へられる。
(七)本町における津波襲来の概況
1、盛岡測候所観測調査結果報告
盛岡測候所は今回の地震津波について左の如く方調査結果を報告している
盛岡測候所の実動強震計及びウイーヘルト地震計に依る観測要素を挙ぐれば
発震時 午前二時三一分三九秒〇
初期微動継続時間 三五秒三
総震動時間 三時間五十分
最大全振幅 三五粍
同 週期 二秒六
最大加速度 一二八粍/秒2
初動
水平動 南西へ一五・〇ミクロン
北西へ二三・八ミクロン
上へ 一六・七ミクロン
震度 強震(弱い方)
性質 緩
記事 人体感覚時間約四分中激動部二分間地震中南方に青白色幕電様の発光現象を認め二時五十八分東空に遠雷の如き音響を聞く。
前記地震計記象の験測要素より推すと、震央は本県釜石の東方約二百粁余の太平洋底(東経一四四度六分、北緯三九度二分)であり、この附近の水深は五千五百米以上の深海底でタスカロラ海溝に臨み所謂本邦外側地震帯の主脈上に位しており、本邦中地震発生回数が最も多く、毎年十回以上の地震を発生する地域である。地震気象其他より推測すると其の震源は極めて浅く或は海底面に大地変の想像を許さるべきもので、従って沿海地方の津浪のおそれが充分に推知された。仍て同測候所は直ちに県庁並に一般に対して電話を以て警戒の速報を発した。
尚又、津浪の経過について、宮古測候所の観測として左の如く発表されている。
宮古湾に於ける最初の津浪は午前三時十二分に襲来し、第二回は同二十三分、第三回は同三十五分、第四回は同四十五分であって、三時五十分に至って小波となり四時十分ようやく湾内鎮静した。即ち十分乃至十二分の週期で波浪が襲来したのである。広田港大船渡港は津浪の第一波より約五分後に第二波襲来し、その後も五分間置き位いに第三波と第四波が襲来したものの如く、其週期は著しく短かく午前六時頃湾内鎮静した。綾里湾、越喜来湾、吉浜湾、唐丹湾は十五、六分置きの週期で、第二第三波が襲来し、午前五時乃至六時に至り湾内鎮静し、釜石湾、大槌湾、山田湾は約十分の週期を以て激浪を繰り返し、船越湾は週期短く五分乃至十分で繰り返した。閉伊半島重茂村沿岸では第一波と第二波間は五分乃至七分を要し、第二波と第三波間は十分を要した。其他外洋に面した沿岸北部では概して週期長く第一波と第二波間は平均十八分を要した。而して各地共波浪の襲来は三回以上で六回位迄繰り返した所もある。
2、三陸沖強震津波踏査報告
盛岡測候所は津波の翌日四日職員二名を夫々現地に派遣して調査に当らせている。次は其の報告書である。
岩手県測候技手辻芳彦
昭和八年三月三日午前二時三十分三十八秒九の強震に伴ひ三陸沿岸一帯に亘り大海嘯起る。盛岡測候所長の命に依り上閉伊郡釜石町より下閉伊郡宮古町に至る沿岸を踏査し其の調査概要を報告す。四日午前五時半盛岡駅出発、花巻駅で岩手軽鉄線に乗り替えの際、中央気象台より本県沿岸御調査のため出張せられたる本多技師、田島技手の御一行に会ひ、釜石町迄同行す。終点仙人峠駅で下車、難所仙人峠を越して釜石鉱山鉄道にて最初の調査地たる釜石町に致着す。直ちに災害地を視察し、又町役場、警察署を訪問して当時の状況を聞く。
五日本田技師一行は船で気仙郡吉浜方面調査に向はるとのことにお別れして、次ぎの調査地大槌湾に向う。急坂絶壁の鳥ケ沢峠を越して両石湾に出づ。両石湾の惨状を車上より見、恋の峠を越して大槌湾にのぞむ鵜住居村室の浜部落を通過、午前十時頃大槌町の手前二粁位の所で下車す。此処より先は海岸道路破壊、落橋のため徒歩なり。大槌町の災害を調査し、町役場、巡査部長派出所を訪ね、状況を聞き、正午次の調査地なる船越湾に向う。自動車不通なるため徒歩なり。朝来の小雨次第に雪に変り海岸絶壁の山路積雪約十糎に及ぶ。罹災者の苦難一方ならざるべし。安渡、赤浜、吉里吉里、浪板の各部落を視察し午後四時船越村着、直ちに村役場を訪ね当時の状況を聞き惨害を蒙りたる田ノ浜部落を視察、直ちに引返して山田町に向う。午後六時着。此処にて今朝吉浜湾に向われた本多技師一行に再会す。聞けば吉浜行の回航船は津浪のため運転系統乱れ仲々来らず、依って便船の都合にて海路参られしと言う。其より自動車にて暗夜の山路六里余を突破して九時宮古町着、直ぐ測候所に行き佐々木技手より当時の状況を詳細聞くを得たり。翌六日自動車にて出発、山田線経由帰所す。左に各港湾に区別して調査したる大要を述ぶ。
◎船越湾
船越湾は東南東向きにして湾口広く湾奥は絶壁の直線沿岸をなし僅か南の小湾に吉里吉里、浪板の部落あり。北の小湾に船越村田の浜部落あり。地震は船越村にて聞きたるに午前二時半頃可成強き水平動を五分間以上感じ大抵の人々は戸外に飛び出し振子時計止りたりと云う。震度は強震の弱き方(階級四)と推定す。
強震数分前より井戸水減じ津浪後は殆ど渇水状態となりたりと云う。船越郵便局長の談に依れば津浪の第一波は午前三時〇五分頃トラック数台遠方より疾走し来れる如き音響を聞き、その音響聞きてより二、三分後なりと言う。其後約五、六分間置き位いに高潮押し寄せ其の第二回目が最高なりき。岩壁の痕跡により約廿尺と推定す。船越村の本村は明治廿九年の津浪にて当時の災害に鑑み、高所に移転したるため何等被害なきも、其沿岸続きなる田の浜部落の惨状は田老村に次ぐものにて二百三十戸中僅かに三十戸足らずを残して全滅的に倒壊流失したり。然し津浪襲来の直前千二百名の部落民は裏山へ避難したるため僅か三名の死者を出したるのみ。最高潮は二十尺と推定す。吉里吉里並に浪板の部落は殆ど例壊し、一部は流失し倒壊家屋通路を埋め、其上に漁船折り重り混乱名状し難し。最高波高二十尺なり。浪打ち際には多数の貝類魚類等海底棲息のもの打ち上げられたる由。津浪襲来の経路は湾奥の岩壁に突き当りて二波に分れ南進したるものは浪板吉里吉里の部落を襲い北進したるものは船越田の浜を襲い余勢は約八尺の高さを以て船越半島に通ずる低地を突進して山田湾に注ぎたりと言う。為に全く減水する迄約一時間船越田之浜間の交通は杜絶したりと云う。其低地を視察したるに泥田の如くなり草類は全部山田湾方面に靡きたり。浪の越したる幅は百米乃至二百米なり。明治廿九年の津浪の際にも激浪は此の低地を越して山田湾に突入したる由なり。船越村に於ける被害は死者四名負傷者なし、行方不明一名家屋の流失二百一戸倒壊二十戸なり。
岩手県測候所技手二宮三郞
命により三月三日強震並津浪直後の下閉伊郡山田町方面及被害最も激甚と称さるる田老村方面の災害地実況を踏査すべく、五日早暁出発、陸行宮古測候所に立寄り踏査打合せの上、山田町に至り翌六日折返し田老村を踏査七日帰所即ち其概況を報告す。
◎山田町
約一粁の極めて狭い湾口を而かも北東に開口し外洋とは船越半島を以て殆ど完全と言って良い位遮断されている巾着型の山田湾沿岸の各町村にあっては其の波浪の勢力や被害程度はV状に開口せる本県の他の港湾に比し一般に尠い模様で、只此湾では前回明治廿九年の三陸大津浪の際と同様今回も明らかに山田湾に南位せる船越湾々奥に突き当りたる外洋よりの直接波浪が右廻りして狭長且つ低湿なる船越地峡を溢流し山田湾に入り同湾々口より来れる波浪と相前後して其の反射経路に当る海岸町村に暴威を逞うしたるものと推さるるものがある。山田町役場にて津浪当夜、発震前後山田町南方伝作鼻と称する附近海岸にて作業中の佐々木福松及清川源太郞の両君に就き其の語るところを総合するに、地震後約十分にて一回「ドーン」と言う砲声に似たる音響を聞き其後約十分時にして海水の引退を目撃し異常なるを直感し居たるに、其後再び十二、三分を経て津浪第一回の波浪が波頭を光らしつつ(深夜に拘らず波壠明らかに認め得たりと言う)北東より(大沢部落方面に当る)押寄せ来りたりと言う。而て第二第三の波浪の襲来は其後約十分の間隔をおきたるものの如く、第二回目の波浪の高さが最大なるものの如し。即ち六日朝小職の山田町桟橋附近の波浪の痕跡により実測せる十五尺を最高波高と推し得べし。
地震の強さに就きても異口同音に緩漫にして且つ極めて長時間水平に震動し時計止りたりと称し、中には栅上のもの落下せる所あり、而して地震による被害は全くなきものの如く震度は強震(弱き方)と推して可なるものあり。
津浪による山田町の被害を見るに其の北半に於て流失及び倒壊家屋極めて尠く殆ど海岸通りの一部に限られるに反し其の南半飯岡方面に甚しき分布状態を示し飯岡の如きは倒壊家屋算を乱し、流失の跡惨たるものあり、西方七八百米山麓方面迄濁流を押上げたり、以て斯る被害分布を速断せんには尚充分の考究を要するも湾北大沢海岸よりの反射波を受く衝路に位する外山田町北半の護岸工事の施行しあるに反し南半飯岡の然らざることに依ること多かるべく、護岸工事の有力なるを如実に示せるものと推す。山田町役場当局の言う如く町民の統一訓練の宣しきを得てか、流失家屋二六六戸倒壊家屋五九戸に比し人命の損失少なく僅かに死者七名行衛不明一名を出したるは不幸中の幸と称すべきなり。
◎織笠村
山田町より南行約二粁にして織笠村に至る。この村落は護岸工事の殆どなき海岸に面せる戸数約三九〇口の小漁村なるが、極めて地形的に恵まれたる部落にて左方に伝作鼻、右方に浪板崎を突き出し防波堤の如く且つ前面には大島小島女郞島の三島嶼を控へ防浪には屈竟なる地形にして、之が為には織笠本村にて最高波浪八尺にして僅かに浸水家屋四一戸を出せしのみにて一の倒壊流失家屋なかりき。只織笠川河口近くに架しある橋梁が破壊され其上流二百米辺まで発動機船十数隻打上げられたる被害を顕著なりとす。尚里人に依れば地震後井戸水の半減せるものありと言う。
◎大沢村
山田町より大沢村に向う途中県道附近汀線より三百米辺に大型の発動機船の横たはれるを数個所車上より見る。大沢村は山田湾の北岸に位し船越地峡を奔流し来る波浪と山田湾口より入り来りたる波浪との合流の衝にあるものと想像され得る地点と考へらるべく、流失破片の大半北西方に押上げられあるを見る。村民の談を種々総合するに波勢も山田、織笠の比にあらず恐らく二十尺内外と推され戸数二一七の小漁村ながら五十八戸の流失と五十戸の倒壊、三四戸の浸水家屋を出し一名の死者さえ出せり。其他漁具海産物の被害も相当に上るべく村内の惨状は如上の事実を物語れり。織笠大沢両村共地震程度は略山田と相似たるものあり。尚強震直後西方上空に青色の光象を認めしものと、地震後井水の減少を唱ふるものあり。
3、津波襲来の方向及経路
中央気象台発行、昭和八年三月三日、「三陸沖強震及津浪報告」及び農林省水産局発行「三陸地方津浪災害予防調査」の記述と現地目撃者の談を総合すると、津浪襲来の方向、経路は大要左のようなものと思われる。
船越・山ノ内
イ方向 南方
ロ経路 一は田ノ浜に廻旋、一は砂丘を越え、浦ノ浜を経て、山田湾に逸す。
田ノ浜
イ方向 南方及南西
ロ経路 部落の南端、弁天島方面より襲来せるものと船越よりの回浪により右廻りに襲われたるものの如し。
織笠
イ方向 北東及南東
ロ経路 大島と伝作鼻との間より来りしものは、細浦及跡浜を襲い、女郞島と浪板崎間のものは森、織笠を襲いたるが如し。
山田
イ方向 東方より
ロ経路 部落の中心前面には護岸ありたるため、其の方向を変じ、飯岡側川向、山田側関口川の各低地に集中襲来せるものの如し。
大浦
イ方向 東方及西方
ロ経路 湾口よりのもの、左廻り西方よりのもの、地形上何れも直撃を免がれ、被害は比較的少なかった。
大沢
イ方向 南東及南方
ロ経路 南東よりのものは部落の中心を襲い、南方船越湾よりの溢流は大沢川附近低地を直撃し、山田湾内では、此の部分が波勢最も盛んと認められる
津波襲来の方向及経路
。
4、津波来襲羅災状況
津浪の後、六月十日、船越小学校では、「昭和八年三月三日本村に於ける津浪来襲状況」を同九月六日、山田小学校では「昭和八年三月三日津浪誌」を発刊している。其の一部を抜粋して紹介いたしたい。
山田小学校編「津浪誌」より
昭和八年三月三日、午前二時三十一分より約十分間、振幅二十二粍の強震があった。町民の多くは、夜半のことなので恐ろしい不安を感じて離床、海岸に出て海の様子をうかがったが、別に何等の異変も惹起する様には思えなかったので、帰って床に就いたりして約二、三十分たった頃、大槌の郵便局から当町郵便局へ、大槌町に津浪来襲、避難せよと言う電話がかかって来た。当町郵便局当直交換手諸氏は速刻各区へその旨電話し町民避難の便を図り使命を全うした。町中が避難の人々で騒擾となった時、津浪が押し寄せ同時に電灯は消えて真の暗となった。町民は先を争って各々目指す地点に避難、不安焦燥恐怖の寒い一夜を明かした。
明けて四日、素晴らしい快晴で湾内は昨夜の惨劇も夢かとばかり油を流した様に静まり、流失倒壊した家屋の破片を黒々と一杯に浮べて実に悠々たるものであった。
川向境田方面は全滅、一帯の曠野となり南町より以北三日町の海岸通りの家屋殆どは破壊され桟橋は残すところなく形がない迄破壊流失し、その惨害は言語に絶した。
罹災戸数を明記すれば流失及び全潰二六六、半潰五九、浸水二六三で実に全町の半数が災害を被った状態であるのにかかわらず、死亡者八名、負傷者二十三名の少数にとどまったのは大変喜ばしいことで、先ず奇蹟と言ってもいい程のものだが、結局電話交換手諸氏の強烈な職業意識と犠牲的精神の発露の賜によるものと思われて感謝に堪えない次第だ。罹災者は津浪来襲と同時に小学校、町役場、八幡神社、龍昌寺等に収容、焚出をして救護につとめた。この日の午前、急を知った大湊第四駆逐隊より駆逐艦「雷」毛布、糧食、慰問品等を満載、急遽入港し救護につとめてくれたので人心は大いに安定したかの観があった。
●本村に於ける津浪来襲状況 船越尋常高等小学校
一、前兆
1井戸水ニ現レタル前兆
本村小学校用ノ井戸水ハ二月廿七日一日間混濁シテ使用ニ堪エザリキ
本村船越区上台ノ井戸ハ二月廿四、五日ヨリ三、四日間白色ニ濁リタリキ
本村田ノ浜伊達屋ノ掘抜井戸ハ十数尺ノ深サニシテ平素薄ク濁レルガ津浪数日前ヨリ澄ミテ底マデヨク見エタリ
2魚介属ニ現レタル前兆
鰯ノ豊漁――昨秋、本県一帯近年稀ナル異状ノ鰯漁ニテ、明治廿九年三陸津浪ノ際モ鰯漁アリタリト言フ
メンコガニノ不漁――山田湾ニ於テハ毎年十二月中旬ヨリメンコガニト称スル径三四寸ノ食用蟹漁獲セラルノガ昨秋ヨリ今秋ニカケテ全然漁獲ナク明治廿九年モ同様漁獲皆無ナリシト言フ
3予感
数年前ヨリ東海岸一帯誰言フトナク津浪来ト噂セラレ地震又ハ海鳴ノ場合ハ海岸低地ニ居住スルモノハ夜間避難シツツアリタリ
二、一般ノ状況
1当夜ノ状況
津浪前数日来春ラシキ暖気加ワリシガ津浪直後ハ急ニ寒冷加ハル。三月二日ノ夜ハ月令八日、晴天ニシテ気温五度風無ク海上波穏カナリシモ海鳴ハアリタリキ
2津浪直前
三月三日、午前二時三十四五分頃、激烈ナル上下動水平動ヲ混ジタル如キ大地震アリ。地震ノ割合ニ栅等ノ物品ハ落下セザリキ。一寸時間ヲ置キテ再ビ地震アリキ。村内各戸ハ地震強烈ナルタメ津浪ヲ予想シテ皆起シ中ニハ高地ニ避スルモノサヘアリタリ。サレド海水ニハ何等ノ変化ナク暫ク海水ニ注意セルモ異状ナクサガ延縄漁船ノエンヂンノ音ヲ遠ク聞クノミナレバ安堵シテ就床スル者アリタリ。
地震直後、本村海蔵寺住職中村義寛氏ハ三四百米隔リタル海岸ニ到リテ海水ヲ注意シ其ノ動揺ヲ見津浪ヲ予想シ急ギ帰リテ釣鐘ヲ撞カントセシガ若シ来襲セザレバ村民迷惑ナラント懸念シテ二回ダケ撞シガ船越部落ニテハ鐘ノ音ヲ聞キ津浪ナラントテ皆山地ヘ避難セリ。果シテ間モナク津浪来襲セリ。
本村漁業組合ノ電話機ニ大槌局ヨリ「大槌ハ津浪デス」ノ電話アリ、一般的ニハ徹底セザリシモ附近ハ最モ海岸ニ接近セル部分ナリシタメ津浪前避難スルコトヲ得タリ。田ノ浜部落ニテハ地震ト同時ニ皆戸外ニ出デ海面ニ注意セシガ変化ナク中ニハ安心シテ就床スルモノモアリタリ。
三、津浪来襲状況
津浪直前正南方ニ当リテ電光ノ如キ青白色ノ光輝三回続ケザマニアリタルモ多分漏電等ナリシナラン。
又遠雷ノ如キ音響ヲ聞ク。
大地震後廿四五分ニシテ海水急ニ引キ且ツ沖合ヨリワリワリザアザアトイフ実ニ身ノ毛モヨダツバカリノ凄惨ナル音響ヒビキ渡リシカバ安心シテ一度ハ就床セルモノモマサシク津浪ナラント直感シテ山地ヲ目ガケテ避難シ然カモ誰一人声ヲ発スルモノナク黙々ト疾走スルノミ。
明治廿九年ノ津浪ニハ逆巻ク怒濤口ヲ開キテ来襲セルモ今回ノモノハスルスルト平カニ漸次高キ山ヲナシテ来襲セリ。
物凄キ音響ト共ニ高サ五米乃至八米ノ激浪五六分間毎ニ来襲スルコト五回ナリ。
第一回ノ波ハ割合ニ小サク海岸ニ接スル一部ノ家屋ヲ流失セリ。
第二回ハ最大ニシテ海岸ハ一物モ残サズ流失セリ。処ニヨリ波ノ高サ多少差異アレドモ小学校附近ハ八米位アリタリ。第二回ノ波ニテ電灯消エテ暗黒ノ世界トナル。
第四回目モ大ナリキ。第六回目ヨリ遂次小トナリ、尚絶エズ来襲シテ午前五時迄連続セリ。浪ト浪トノ間短カカリシ為引波甚ダシク急激ニシテ被害ハ重ニ引浪ノタメナリ。浪ノ方向ハ東南ヨリ来襲セルヲ以テ発源地ハ東南方ニアルモノノ如シ。
本村ハ船越湾ト山田湾トノ地峡ヲナセルガ激浪ハ此ノ地峡ヲ自由ニ往復シタリキ。此地峡ヲ越エタル波ハヤガテ大沢村及山田町ヲ襲ヒタリ。
被害ノ割合ニ死傷者少カリシハ避難ノ際、消防組員、軍人分会員、青訓生、青年会員ノ手当リ次第、老人幼児ヲ背負ヒ婦女子ヲ助ケテ安全地帯ニ避難セルニヨルモノニシテ死傷ノ多クハ部落ヲ離レタル一軒家ノモノナリキ。
四、津浪直後ノ状況
小学校附近ハ校舎ト教員住宅ヲ除キ一軒モ残ラズ流失シ、附近ノ人々ハ小学校ニ避難セり。
船越部落ハ高地ニシテ被害ノ憂ナキモ区民全部後方ノ山地ニ逃レ、寒サニコゴエナガラ、夜ヲ明カシタリ。船付場附近ハ船越村漁業組合ヲ始メ二十数戸全部流失シ、破壊セル一部ハ村役場ノ下手ニ押上ゲラル。屋敷地ハ土砂サラハレテ原形ヲ止メズ。
船越地峡ハ防波堤破レ、耕地ハ全部白砂ニテ掩ハル。沼ノ養魚ハ全部流失シテ土砂ニテ埋メラレテ、養魚場ニ適セザル迄ニ荒サル。
日向脇及浦ノ浜ノ牡蛎及海苔養殖場ハ全部流失セリ。
小ナル漁船ハ形骸モ留メズ、発動機船ハ見ルカゲモナク破損シテ高地ニ打上ゲラル。
家財道具衣類魚粕魚具等各所ニ散在シ渚ハ木材ノ破片家具等ノ漂ヒアルヲ見ルニ忍ビザルモノアリ。
漁業組合ノ大金庫ハ四百米バカリ離レタル沼ニ小ナル方ハ千米以上ノ浦ノ浜ニ流失セラル。又日向脇ニハ七八十貫ノ巨石海底ヨリ打上ゲラル。
田ノ浜部落ハ二百二十数戸殆ド全滅シ街路ノ下側ハ屋敷迄掘リ取ラレ、下町ハ徹底的ニ一物モ残サズ流失セリ。
八幡神社下ノ辺ニハ流失ノ家屋折リ重リテ手ノツケ様ナク、其ノ間ニ大破セル発動機船ノ横タハルアリ、海面ハ家具家屋ノ破片ニテ掩ハル。
早川ハ埋立地ノタメ浪ヲ防ギタレドモ埋立地ハ大半破壊セラル。
昨年救済事業トシテ改修セラレタル船越田ノ浜間ノ道路又破損セラレタリ。
台地ニ残レル数軒及八幡宮ノ社務所等ハ避難者ニテ充満シ、尚後方ノ畑地ニハ着ノミ着ノママノ罹災者、中ニハ薄物ノママ家族一団トナリテ寒風ニサラサレ、目モ当テラレヌ惨状ヲ呈セリ。
五、本村ノ被害状況
地震ニヨル被害ハナカリシモ津浪ニヨル被害ハ甚大ナリ。
村内三部落ノ中田ノ浜区ノ被害最モ大ニシテ全滅ノ状態ナリ。
船越区ハ海岸ニ近キ二十余戸流失ノ外耕地ノ被害大ナリ。
大浦区ハ住宅ノ流失ハ数軒ナレドモ製造場ハ全部流失セリ。
三部落ヲ通ジテ大小漁船ノ流失又ハ破損セシコトハ全ク職業ヲ奪レタルモ同様ナリ。此外水産物製造場、水産養殖場、桟橋、道路、耕地等ノ流失又ハ破損ハ莫大ナリ。
左ニ本村ノ被害状況ヲ記ス
1死傷者
船越区、長田藤助老夫婦ハ魚粕製造ノタメ浦ノ浜ノ番屋ニアリテ死亡セリ
田ノ浜区、岡市三郞ノ一家ハ逃ゲ後レテ、家族全部、家屋ト共ニ流失シ、祖母死亡シ三郞、フミ、同居人藤田半兵衛ノ三名重傷ヲ負フ
加藤武左エ門モ逃ゲ後レテ死亡ス。
前記加藤秀夫ハ軽傷ヲ負ヒ、加藤アイハ重傷、幼児ハ行衛不明トナル。
村内ノ死者、男二名、女二名、
行衛不明一名、負傷者男三名女二名
(以下略)