復興まちづくり情報

まとめ

目次

  1. (一)、史上三大津波のひとつ
  2. (二)、旧五月を忌む
  3. (三)、特記すべき人々
  4. 1、沈着勇敢な山田分署長神氏
  5. 2、巡査部長浅利氏の手記
  6. 3、木村軍治氏救援隊募集
  7. 4、負傷の身をもって救援医療に従事した関玄達医師
  8. 5、孝子のまごころ
  9. 6、閑話休題

(一)、史上三大津波のひとつ

明治二十九年の三陸大津波は三陸沿岸有史以来の三大津波の一つと数えられる

1、貞観十一年五月二十六日(西暦八六九)

海水は多賀城下に至り

溺死者  約一、〇〇〇名

M  八・六

規模  4

2、慶長十六年十一月二十八日(一六一一)

三陸、北海道南東海岸

M  八・一

規模  4

波高  二五m  山田、田老

死者  三、〇〇〇名

伊達藩  一、七八三名

山田  二〇名

船越  五〇名

津軽石  一五〇名

3、明治二十九年六月十五日(旧五月五日)(一八九六)

M  七・六

規模  4

波高  二四・四m

死者  一八、一五八名

傷者  二、九四三名

家屋流失  四、八〇一

家屋倒壊  七二六

山田町の被害は前述の通り

(二)、旧五月の月を忌む

当町内では今でも明治二十九年の大津波の惨状が語り伝えられ深く古老の脳裡に刻まれ御祝事や御見舞にはこの月をタブーとして使わない場合もある。

(三)、特記すべき人々

1、沈着勇敢な山田分署長神氏

山田分署長警部神貞庸氏は

この未曽有の津波に通信はと絶え糧道は断たれ住むに家なく、辛じて溺死を免れた難民と荒廃言語に絶した災害地処理、収拾の為め、惨死一名を除く七名の署員を指揮、統督し一名は急を告げる為め遠野に派遣し、県及び関係機関に連絡して救いを求め残る七名は湾内一町三ケ村に夫々派遣し、生残りの地元民の救援と相俟って不眠不休救済活動に尽粋した為めに早くも花巻、水沢、川井、黒沢尻、盛岡等より警部巡査等来援力を合せて救援活動に当った。この時神署長一家は山田に住居し津波直後次女生れる。波に縁有りとして、ナミと名付けたと云う。

神貞庸署長略歴

本籍  岩手県盛岡市士族

神  貞庸    文久元年二月四日生

職歴

一、明治二十九年六月

宮古警察署山田分署長

警部

一、盛岡刑務所典獄(所長)

停年退職

一、昭和十二年十月六日  逝去  七十七歳

家族歴

長女  シゲ  札幌裁判所長綿貫氏夫人

次女  ナミ  盛岡桜城小学校訓導後  松本氏夫人

三陸大津波直後山田にて生れ波に因んでナミと命名せりと

三女  夭死  桜城小学校訓導

長男  貞憲  北海道帯広高校教諭

昭和四十年九月二十八日死去

次男  貞郞  大正九月三月  岩手師範卒  盛岡市内小学校訓導

昭和八年台湾に渡り高雄市第一公学校訓導田寮庄田寮国民学校長、路竹庄竹滬国民学校長、昭和二十二年三月盛岡に引揚げ昭和二十二年より宮古第三中、高浜中、田老二中教頭歴任

一、花巻市太田  昌観寺住職

神武男氏は従兄弟

2、巡査部長浅利氏の手記

山田分署部長浅利和三郞氏は神署長の片腕となって東奔西走救援活動に専念し乍ら傍らよく現地を調査し克明に当時の現況を記録し手記として後代に残さる。貴重な文献なり。

浅利巡査部長履歴(県警資料)

本籍  秋田県平鹿郡横手町沼田十番戸

浅利  和三郞   慶応三年十月生

士族

明治二十二年八月  岩手県巡査拝命

〃               九月七日  盛岡警察署詰を命ず

〃               十月二十一日  帰庁を命ず

〃               十一月二日  巡査教習所第四回受業生を命ず

明治二十三年六月二日  盛岡警察署勤務を命ず

明治二十六年三月十八日  宮古警察署勤務を命ず

明治二十八年七月二十六日  巡査部長心得を命ず

〃               〃                 山田分署衛生事務主任を命ず

明治二十九年十二月二十六日巡査部長を命ず

明治三十年八月二十四日盛岡警察署勤務を命ず

〃            十一月二十二日  議場掛専務を命ず

大正七年~大正十一年  秋田県横手町長に就任す

昭和二年十二月二十九日  死去

3、木村軍治氏救援隊募集

豊間根村、木村軍治氏は津浪翌日いち早く救援隊弐百五十名の村民を送り込み二進も三進もならない救助活動に活を入れ、更に追々増援者を送ったのは、まさに当時の山田とすれば地獄で仏にあった思いだったと思う

4、負傷の身をもって救援医療に従事した関玄達医師

一家は殆んど全滅、身は負傷しながら救済医療に当った関玄達医師、家族十三名殆んど全滅に頻し、身は負傷し乍ら他の重軽傷者の再起を願うて治療に専念せられた。

後の医師、関玄琢氏はその長男である

5、孝子のまごころ

前掲新聞の抜粋の津波記事の文中山田町川向とあるは境田のこと、横田某とあるのは横田清吉氏のこと(屋号横清)長男清二とあるのは清治の誤植である。

尚、清治氏は当時十八才の青年であったと云う。

6、閑話休題

浅利巡査部長の手記と一通の手紙

「災害は忘れた頃にやってくる」。そのとおり災害が起きて、人々は改めて諺の教訓を思い知らされる。そして必ずいってよいほど、あのとき、こうすれば、という悔を抱く。こうしたことを災害後訓というのかもしれない。

ところで、津波誌執筆編纂も大詰を向えた六月、一通の手紙が教委事務局に届いた。

以下、防災意識の昂揚の一助と、又、本書の堅さを幾分でも柔らげる意味合いからその内容をご紹介したい。

「拝啓、梅雨の候となりました。‥‥‥略‥‥‥

さて私は、昭和五十六年六月十五日午後八時、NHK特集番組「三陸大津波、忘れられた教訓」を見た者でありますが、八十五年前、即ち、明治二十九年に起きた大災害が手に取るように画面に写し出され、その恐ろしさに身ぶるいいたしました。同時に、防災の必要性を痛感させられました。

私が、特に感動しましたのは、画面に、ときどきでてくる警察官の報告書であります。この報告書をもとにして、当時の状況を特集番組で再現したのだそうですが、その文章の立派さにおいて私は深く心を打たれたのであります。恐らく、報告書提出者は、誠実な人格、明晰な頭脳は勿論のこと、その方の日常は精勤無比、更に勉学向上に努められたものと拝察されるのであります。

私は、番組終了後、警察官のご冥福をお祈り申し上げた次第であります。

つきましては、三陸大津波を忘れない為にも、又浅利警察官のご人格を景仰し、教えを頂く意味においても、同官の報告書の写しを是非入手したく存じます。NHK製作担当者にお伺いしましたところ、貴教委にあると知らされました。願わくば私の切なる希望をかなえて頂きたくご一報申し上げた次第であります。…略…  敬具

昭和五十六年六月十六日

東京都豊島区南長崎2の12の5

井上  芳郞

前略、

此の度は、浅利和三郞氏の「海嘯被害報告書」写をご送付下さいまして誠にありがとうございました。

待望の「手記」を我が手に拝読するを得、感激至極に存じます。(略)

私はこの報告書により三陸海嘯が、いかに驚天動地の大事件であったかをつぶさに知り得ました。特に感銘深く存じましたのは、明治二十九年という時代に、浅利和三郞氏がこの堂々たる文章で、然も後世の人々が一読讃嘆の声を惜しまない程の立派な報告書を作成されたということであります。当時の警察官の学力が相当に高水準であったことが、これによりうかがい知れますと共に、浅利和三郞氏ご自身も恐らくは公務の余暇には、常々勉学に精励され、又いかなる突発事件が起きても適切な措置がとられるよう日々修養を怠らなかった方であろうと拝察するものであります。

私は、この報告書を教科書の如く読み、かつは三陸海嘯の当時に思いを馳せ、更には紙背より感得される浅利和三郞氏の人格、処世の態度を師として、この先哲に一歩でも、二歩でも近づきたいと思うものであります。

……略……  敬具

昭和五十六年七月二十九日

東京都  井上  芳郞

この文面でも分るように、井上氏は、この報告書を教科書とし、浅利氏を先哲と仰ぎつつ、ひたすら防災の心を忘れまい、と誓ったように思われる。遠くにあって、三陸の風土を心配されておられる井上氏の真しな心は、我々に忘れられた教訓を再確認させてくれた。そう理解し、本書の一隅に掲載することにした。

(昆野寿雄記)

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