復興まちづくり情報

第四節 津波学説

明治二十九年の津波は津波の学問的研究の大きな刺激となり以後地震と津波の関係が諸学者によって次第に明らかにされることになるここには郡役所において編纂された巨知部博士の論文を掲載した。

理学博士巨知部忠承稿

以下事実

一、発作の年月日時

明治二十九年六月十五日午後八時二十分

二、当日の気象

朝来風無く陰欝の天候にして雨霧交も至り温度は八十度及至九十度を昇降し気圧も共に平日より昂騰す(宮古測候所長談話)

三、地震の数

十三回

四、津浪襲来の状況

六月十五日暮方数回の地震あり午後八時頃東閉伊郡沖合に於て轟然一発巨砲を放ちたる如き響音あり其音響の歇むや未だ数分時間ならざるに海嘯俄かに至り狂瀾天を衝き怒濤地を捲き浩々として驀地に押し寄せ来り市街となく村落となく総て狂瀾汎濫の没する所となり沿海一帯七十余里僅に一瞬間にして平砂荒涼死屍壊屋の累々たる満目惨胆たらざるなし

五、地震の有無

各地とも地震ありて而して後津浪至る

凾舘室蘭に於けるも亦同じ

六、音響の有無

大砲の如き又は遠雷の如き響を聞くも各地皆然り独り宮城県志津川に於ては之を聞き得しものなしといふ日本新聞二四三九号に曰く(前略)而して彼の地の所にて何れも聞取しといふ大砲様の奇声は独り此志津川に於て聞き得しもの一人だになかりき是れ頗る奇談たり云々

七、浪の高さ

田老村以北数里の間は被害の最も激甚なりし場所にして浪の高さ十五丈余に達したりといふ

八、光明の有無無数の怪火

野田駐在所の巡査遊佐某は海嘯の当夜所轄部内の宇部村を巡回し午後八時二十分頃駐在所を去る十町許の所迄帰しに海上異常の鳴動を聞き怪みながら野田に近つくや海潮は曽て見しことなき高処まで浸入せり真逆に津浪と思はされば暫し佇み考ふる内に大さ提灯程の怪火其数幾十となく野田の民家のある所より背後の山に懸けて高低に幻光を発したれば云々

田老村字小港の山上にありしものの話に時ならぬ濤声を聞く一刹那海水は三百間余退干して全く海底を露はし蒼白の異光燦然たるを目撃したり云々

九、前兆所謂前兆なるもの数件あり左に之を列記す

海嘯前に干潮となりし報告は少なからず其一二例を挙くれば本吉郡御嶽村地方の海面は海嘯の当日午後三時頃稀有の大干潮にて平時十尋余の深さある辺までも干潮となりたれば老人抔は異変の前兆ならんとて憂慮し居たりといふ

宮古に於ける海嘯襲来は前後六回にして

初度の襲来は午後の八時なり而して之に先たつ十分即同七時五十分海潮は異状なる速力を以て退干し同時に遠雷の如き洪響を聞きたりと

白浜と称する所の一老女災害の当日井水の退きたるを見て海嘯の前兆として人々に逃げ去る様告けたれども誰一人信ずるものなかりしが老婆のみは子供を負ふて逃げ失せたるにより遂に一命を全うしたるも他は皆死亡せり

宮古町にては去る十四日より三十尋の深さの井悉く濁りしのみか井に依り其水白く若しくは赤く変色したるより人々奇異の思を為し居たれども固より斯る大海嘯のあるべしとは考へ及はさりしと

志津川附近に於ては去る十三日頃より流潮擾乱して定流を変し十五日に至り老人も曽て覚えぎる程の干潮となり未た曽て見たることなき海底の凹凸を見たり而して其夕八時頃より三回の鳴動或は遠雷の如きもの起れり海嘯の襲来は実に八時十分なりしなり

十、津浪の時間

被害地実地検査の為三陸地方へ出張中なりし池上内務技師の談話に由れば今日まで正当なる海嘯の時間は分明せされとも先つ正確なる処は十五日午後八時二十五分なるへし而して爾後続発したる回数は大小合計数十回にして其最も大なるものは第一、二、三、回目までとす其間隙は各平均六分時間と推断し得たれば二万の生霊を惨殺したる時間は僅に十八分及至二十分の時間なり

十一、海嘯の波幅

海嘯の波幅は正確の事未だ分明せざれども必ずや二三千間の長さに亘りしなるへし去れば其傾斜著しき鈍角を為して海上にある船舶には少しの動揺を与へさりしものにて海嘯の当時沖合に出漁せし者無事なりしは全く波幅の広かりし故なり

十二、池上技師海嘯談

此記事は実地調査の談話に依り最も有益なりと信するを以て重複を顧みす全文を登載す三陸海嘯の変後直に実況視察の為の出張したる中央気象台技師池上稲吉氏は両三日前帰京し是より蒐集し得たる材料に依りて調査に着手する由なるか今回の海嘯たる突然の出来事といひ僻遠なる地方といひ精密に時刻を取調ふるの便なかりしを以て海嘯の速度又地震と海嘯との時間の差其他種々の関係を知ること難く従て精確なる調査を為すには多少の時日を要するに依て未だ詳細を聞くを得さるも今一、二聞き得たる事実を記すれば海嘯の最も激烈なりしは第一回より第三回迄にして夫より引続き激浪幾度となく打寄せたるも其後は漸次に弱く被害は全く三回の海嘯にあり然して被害の甚だしきは釜石なれども是れは戸数多きか故にして海嘯の強きを示すものにあらす実際激烈なりしは釜石より南数里なる唐丹及ひ吉浜にしてこの辺或は海嘯の高さ七八丈にも達したらんか彼の十丈の高さある丘陵又は樹木に水痕を印し或は漂着物を打寄せたるは怒濤之に当りて激昂したるものにて浪の高さ十丈には及ばざりしが如し何様今回の海嘯は突然にして毫も前兆を知るに由なかりき彼の安政二年江戸の大地震の際にも海嘯を起したれども当時は水勢の押し来りし始より逃避するまでに充分の余裕ありしも今回の如きは潮勢一度に押し寄せ人々海嘯を呼ふや彼時早く此時遅く激浪既に四面を蔽ふて避くるに遑なし或は最初雷鳴の如き音を聞きたりといひ又は大砲の如き響きを発したりといひて地震の響きにてもありしが如く想像し之を海嘯の前兆なりと一般に称ふれとも右は震響にもあらず多分巨岩に激したるか或は他の関係にて海嘯の押し寄する途中の水勢にて斯る音響を発したるものならん現に船中にありし者は一人も其音を聞かすと云ふを以ても知るべし又船中に在りし者か毫も海嘯あるに気付かざりしは斯る大海嘯は波状幾百間の大さを為すか故に仮令ひ波の高さ百尺以上ありとするも其幅に比すれば傾斜を為すこと極めて微なるが故に扨は動揺を感せさるものなり

但し沿岸に於て斜傾の変動を感じたる区域は頗る広く金華山に近き沿岸に備へある験潮器は凡そ七八尺の変動を享け又銚子の如きも著しく感じ北は根室南は紀州の沿岸に於ても同しく海嘯の変動を感したりといふ。

源因説

一、潮流の衝突を津浪の源因と勘定したる考説

論者曰此沿岸を流るる寒潮と暖潮との変更期は毎年春秋の彼岸にして秋より春迄を寒潮の期節とし春より秋までを暖潮の期節とす毎年少しも異なることなし然るに本年は彼岸を過ぎたる今日に至るも猶依然として寒潮の為めに海岸を占領せられ之れか為めに鮪を漁する者は暖潮を尋ねて例年よりも遠く沖合に出て居れり之によりて見れは本年は潮流に変化あること疑ふへからす此度海嘯の源因も此潮流より起りたるの変化にあらざる乎

予の考ふる所によれば寒潮暖潮の此近海に於て相衝突したるより起りたるものの如し何となれば海岸に打来りし波濤の勢普通の者と全く異にして上下に回転しつつ来れり遭難者は皆一たひ海底に捲き込まれて再波上に没し此の如きもの二三回なりしといふ是れ蓋し両潮の相衝突したる結果を以てなり又漁師の或る者は水柱の海中に立つを見たりといふ是又海嘯の衝突を証する一理由なり聞く氷を含みたる低温度の寒潮と高度の熱を有する暖潮と相合する時は氷の融解する際此の如き現象を呈すること有りと。

二、海底の陥落に帰すれば其中心に近き海上の船舶は何故に無事なりしや此源因説は薄弱なりしといふ考説

人或は今回の海嘯源因を以て八十哩外の海底陥落に帰する者あり若し此説の如くは其の中心に近き海上の漁船は第一に此の災を受けざるへからざるに実際十里外の漁船は皆無事にして其海岸のみ害を被りたるを以て見れば此の説も頗る薄弱なるか如し云々と記して理学者の一考を煩はす

三、海上の噴火作用隆起に帰したる源因考説

実施視察の為め被害地跋渉中なる外客イーストレーキ氏が海嘯の源因に付語る所といふを聞くに曰く余の見る所はトスカロラ海床に起りしにあらず陸地より五百哩及至一千哩の太平洋中の海底に噴火作用にて急激なる大隆起ありしならん其理由㈠所によりては海嘯の後に地震ありたることなり若しトスカロラ海床の崩壊ならば地震の先にあるへきは論なきに其後にありし所なるを見れば其海嘯の起点は甚た近からす水は流動し易きか故に速かに運動し地層は動き易からざるか故に後れて運動したるなり㈡九戸郡辺の海岸に打揚けられたる貝殼のうちに四百尋及至五百尋の海底にあらざれば発生せざる所のものあるを見たり是海嘯が余程遠距離の海底より起されたるものにあらされは能はさる所㈢海嘯の時刻によりて考ふるに南の方陸前より北の方陸奥に至るまで殆んど皆同時刻なり若し海岸より二十哩及至六十哩位の辺に起りしものとせば近き所は早くして遠き所は遅き筈なるに四、五百哩の間大概同時刻に起りしを見れば数百哩の遠方より起りしものなること疑いなし唯余の一の憂慮する所は海底の隆起は如何なる模様なるか若し急激に隆起したるか如く急激に復旧することあらんには前と同様第二の海嘯を起さんことにあり云々と此説は我小林特派員の説と同じからざれども小林特派員の説も大に理由あれば或は互に脈を引きにるものにやあらん乎何れも専門家の定説も出つるならんが兎も角一説として記し置く

四、地辷を源因となし其中心を田老村沖合と定めたる考説地辷の中心点

読者よ今回の大海嘯に就ては其道の博士学士か推測の説ありといへとも未だ実地に就て明確に視察せしものあるを聞かす予は此中心点を得るに汲々としさきには宮古測候所長の説を記し今又前数項に於て大に注意すへき事実を示せり此明示せる事実と以下に記せる事実とを以て予の断定せる中心点を示すへし

○地辷の中心点は田老村の海中二三里の間にあり

田老村に襲いたる海嘯は実に南北より奔馳し来りし二個の大激潮なり此大激潮中南方の分は宮古湾頭の黒崎を掠めて田老沖に来り北方の分亦田老沖に来りて両潮相激し相激したるの大波濤は田老の民家より高さ一丈余の勢を以て田老村を粉砕し以て背後の山に殺到するや更に其勢を高めて十数丈の空に漲れりという此一事実は最も予か説を確かむるものにして田老沖の海底地辷りを為したるか為め其辷りたる部分たけ海潮を低からしめたれは低所に合せんとする南北の両大潮は其辷りたる部分に向って進み茲に一大激衝を起して其勢を猛烈ならしめしは理の尤も観易き所なるのみならす田老附近の海底は底を現はすまて退潮せりといひ且又測候所長の常地と根室間に中心点ありて、当地に近しとの説に徴するも中心点の田老沖にあることは争うへからす況んや田老以北の海岸に於て松島は其南部傾斜して海中に没せりといい小本川口は其底を深くせりといい須賀の松並木は人畜家屋と共に陥落せりといい一として予の説を確めざるはなし、予地文学に暗しと雖とも、事実は争うへからさるの理を示すを以て特に記して其道の人に質す

五、火山の破裂を源因と認めたる考説

評に曰く此回の津浪によりて浮石多く海岸に打上けられたる処あるを見て遠き沖合の海底に火山の破裂あり而して其火山より噴出したる浮石か津浪によりて漂着したるものとし更に歩を進めて津浪の根源を此の火山噴出に帰する人あり此説果して立証正確ならは又一新説たるを得へしといへとも東北地方の往古を顧みれは火山盛に噴騰したる時紀ありて其時多量に噴出せし浮石も現今八戸以北千島に至る間に配布しては或は地層を構成し居れるか此時噴出されたる浮石の海中に沈積せるものも亦尠なからさるへし此浮石は此回の洪浪の為めに海岸に打上けられたるものなるへしと考ふるは蓋し至当なるへし故に浮石の漂着せしを以て直に海中に火山噴出ありと断定するは未た以て信を措くに足らす

六、急斜海底を地辷と為すの考説

原因は太平洋の最深所と聞えしタスカローラと三陸に近き海底との傾斜間に一大地辷りを生したるものならん何故かというに一昨年の根室の地震と相類似し断層も亦其部類なれはなり。其地辷りのありし中心は根室と当地との中間に在りて大に当地に近からん

七、陸に遠き海底の大隆起若は地辷を原因と為す考説

去十五日午後八時前後に起れる福島、宮城、岩手、青森の東海岸即ち太平洋に面したる海辺大海嘯の惨況は別項にも記する所なるか今中央気象台員の話に依れは今回海嘯の伴い起りたる地震は十五日の午後六時頃より十六日の午前迄に青森に卅三回、東京に廿六回、福島に十五回、甲府に十回、山形に七回、境に二回、彦根に二回、宇都宮に二回、函舘、根室、新潟、銚子、石巻の各所に一回宛の震動あり斯く数回の多きに拘はらず其震力頗る微弱にして感動区域広大なりしより考ふれは蓋し陸上を去る甚た遠き海中に於て大隆起(陸上なれば噴火の意味)若くは大地辷ありて其余波遂に大海嘯となりしものならんといえり

八、陸地に近き処に中心点を有する考説

曰く宮城県下の金華山の沖合なるへし曰く岩手県下岩手山の鳴動せるか為めなり曰く海嘯の源因は志津川を距ること二十余里の海中に発見せられたりなど取り止めもなき臆想を臚列し来りて紛々盲議せるは世人の大変事に対する所謂なり然るに今や果然著るしき徴効地方の発見せらるるこそ不思議とも愉快とも申すへし

只今打電せる如く岩手県北閉伊郡宇利島といふは字田の畑村の沖合にありて其陸地を距る海上凡そ三百四五十間の所にある一小島なり然るに今回海嘯の事変と共に此の一小島の方向は全く変して左方のものは右方に傾斜せるを発見したり

此近辺に長さ凡そ八九間もあるへき大盤石は従来水面下に潜り居ること一尺前後のものなりしか大事変と同時に此大盤石は陸地に向ふこと七八百間の箇所に顚覆して飛落せるを見たり

田の畑村小字島の越村の汀に盥島と称する三間四方の大盤石の一角は陸上に向ひて約二百間はかり飛散せるを発見せり其地タツゴウ島(小本川附近)の側に在る大盤石は凡そ五百間以上陸上近く飛ひ来りて小本川の中央に屹立せり

此近傍一体地形全く変化して所々に従来見さりし大石の続々現出せると川底の全く浅くなりたるは事実なり而して当地海嘯惨毒の時限は釜石、大槌、山田等に比して彼此一時間も早く震動せるのみならす当日(十五日)午後七時半頃と覚しき頃一大震動を始め未た海嘯を見さるに諸村の破壊人畜の死亡せるに徴しても今回の中心点は小本、田の畑、普代三ケ村中の遠らさる沖合なるへしとの事なり当日海嘯潮勢の嵩まりしは正さに五十尺以上なりと伝う

以上列記する所の第一項以下第八項に至る八様の原因説中、四、八、は帰する所一なれば都て七項中余か大に賛成を表するは六、七、及び第十二項池上技手の海嘯談中の数節と為す而して地学上の見解に依りて原因の存する所を諭せんとするに先づ三陸地方及其海底の地質構造如何を知るにあらされは正鵠を得る能はす由て左に地質の構造を略述せんとす。

地質調査の成績に依て考定したる所に依れは北上山系即ち北上川以東に錘子形を画する山地は三陸の最古地盤を為す所にして陸前仙台近傍を中間に介して南の方阿武隈山系と同一の地方を画けり阿武隈山系は常陸の久慈川磐城岩代の阿武隈を界し太平洋に連り又南北蜿々たる山列の総称にして其地質の構造も亦南北の山系に同一の状態を現わす乃ち以上二大川(北上川阿武隈川)は実に新古地質の分界を決流し其沿路に於て一条の凹渓を刻み(之を地学上縦谿という)自から地勢の趨向を標示し川の東西に堀起する山容の異様なるか如く其之を構成する所の地質も亦全く殊別なるものにしては新成にして火山質に富み東は旧成にして火山質は稀に見るのみ火成岩及古代の水成層岩より組成せられ片麻岩層を最底として結晶片岩古生層岩中古層岩等の累層花崗岩閃緑岩等の火成岩地の間に起伏し火成岩は中古代の結成に係るものありとするも北上山系の地盤か噴出性の熔岩の為に剌衝せられて多少の地変を生したるは西部の山地に於ける火山活動の変異に於けるよりも遙かに前代にありしものにして従て近来慣用の熟語と成れる所謂噴火の作用には極めて縁遠き土地柄なり蓋し間接には其余勢に感したらんこと彼の八甲田岩鷲駒ケ嶽より蔵王に連なる噴火山脈の其西方に駢立せるに由り推察せらる而して地球の縮小する結果として地殼自然の起伏屈曲の大勢は火山岩地方水成岩地方の論なく平等に其威力を逞ましくするか故に故原田博士が北上山系の海岸は土地陥入の跡ありと論じたるも即ち此大勢に処れる徴証なりとす今参照として原田博士の高説を左に抄述せん

前略此屈曲甚たしき北上山系の東面は如何なる固有の性質を帯うるものなるやの問に答えんとす爰に種々の事情の考ふへきものあり第一此山系を阿武隈山系と比較せは第三紀層の絶無なるに心附くへし第二此海岸に於ては到る処絶て昔時汀線の著しき痕跡なし第三此険しき沿岸にある無数の湾澳は一部分深く内地に切り込み恰も溪壑の状を為す若し雄勝或は女川湾に航入せは海水は昔時の谿間の下部を満たすものたるの感を起すならん此事実と海岸の状態絶壁峭立の状を成すを見れは此辺は一般に汀線の隆昂(即ち土地陥入)の地にして云々

是に依て之を見れは北上山地は地学上既に歴然として土地の降下したる痕を止むるものにして其降下したるは地辷の結果と見做す方妥当となすへし何となれは陥落地震の際に発作する地盤の降落は其区域広濶ならさる火山地若しくは第三紀層の如き新成地層の地に於てするものにして土地降下の結果に於ては地辷に由れるものと陥落地震に由れるものと均しく在来の位置より地面の降落したるには相違なきも其源因に於ては全く其起点を異にす即ち簡単に其殊別なることを次に摘示せん

第一図

第一図

第二図

第二図

第三図

第三図

第四図

第四図

第五図

第五図

第六図

第六図

爰に地震と陥落との説明を為すに読者をして容易に之を了解せしめんか為めに左に数箇の図を掲く図中第一第二は造山力に由りて生したる地体の異動にして第一図は六箇の劈裂線ありて地層を断裁し其断面の傾斜は中央部より左右に背斜し此背斜の方向に左右の両翼を成せる各箇の切り離されたる地か辷り落ちたるものにして第二図は八箇の劈裂線あり中央に向斜し中心に楔子形の地を生し前者に反して中央部の各箇の地体か左右の両翼を離れて辷り落ちたるを見るへし是れ断層一名地辷の標式の一二にして地震の原因を茲に発作するものとす

第三図以下の図は凹陥沈落せる土地の形勢を示すものにして陥落の地震の中心此処に発動し其震動の波及は中心より圏線に依りて周囲の地に感せらるること猶ほ池中に石を投し其中心より震波の動揺すると同一の理に帰すと知るへし故に此般の地震には中心点なるものあれとも地辷地震は線路に沿ひ発動するものなれは中心点なるものなし下に述る十和田湖の如きは実に第六図に示せる標式に該当する凹没の痕を存すと故原田博士は説かれたり

地辷 地辷とは地皮に生したる裂面に於て地体の転位するの謂なり抑も地皮の収縮は地球体の造山力に由りて自然に地層の彎曲皺起を生し其屈折するや多少の劈裂線は圧力に直角を為して地皮中に成生し而して此収縮の地動力は恒常依然として無休の運動為しつつあるを以て斯く裂罅を生したる地の殼中の脆弱する部分は忽ち之れか圧排を支ゆふ能はさる処に於て裂面の向方直立にして第二図の左方の如くなるものも又は方面に傾斜ありて楔子を上下より組み合せたるか如き第一図第二図に示すものも或は押し上けられ或は押し下けらるることありと知るへし斯の如く劈裂を生したる地の一部か各箇に地平線の上下に昇降するを地辷とは謂ふなり我邦に於ける大多震の多数は此地辷の余勢より発するものにして濃尾大地震の原因は質に此般地辷に帰することを小藤博士は詳かに之を説明し大に泰西諸大家の賛称を得られたり斯の如き地辷は之を英語にFault若くはDislocationと号せり即ち位置の変転する義にして地学上之を断層と訳す然るに先年奈良、和歌山、徳島、兵庫の各地に大雨の後山の一部辷り落ちて其処より多量の地水を吐き出し谿谷に押し来りて村落を圧し多数の生命財産を損したることあり俗に之を山抜と謂う又東京附近の地に於て府内道路用の砂利を採掘する場所あり通例砂利層は粘土砂等の間に介在するを以て之を採掘するに充分の注意を為さされは往々崖足を掘り穿つこと深きに達すれば上部の地層は遂に其自重を支ふる能はさるに到り俄然として墜落することあり又河川洪水の際決流の為めに其堤防又は岸崖の下部を削り去らるるも亦之と同様の現象を見ることあり以上山抜以下三件は又地辷の一にして造山力の結果より生するものとは大に性質に於て異なりて其区域も亦一帯の地に連発するの外は大ならさるを常とす這般の地変を英語にLand-Slipと謂う即ち地辷の義なり

此地辷は小区域に発作するか故に地震動を興すの勢力なきものの如しと雖も実際に於ては大震動を生することあり彼の希臘国の南部コリンツ湾内に於て屢々発作したる水崖懸の崩隤落下するの場合の如きは湾を囲繞する部落に於て必す大小の震災あり此湾は弓形の狭小なる水域を有し長さ三十哩幅二哩乃至三哩にして中央部の水深百尋以上五百尋を示し湾底の傾斜に随て急峻なれば懸崖の所多しと知らる此崖足の一部地水及水の化学的作用に依り漸次融脱せられ其上盤水中に突出し後遂に挫折して隤頽落下するに至る此際地上及湾内に震動を生し一千八百八十八年九月の地震には数箇の町村を破壊し海水混濁し海底電信線は転墜したる岩塊の下に埋められ二百尋の海底に於て全く切断せられたることあり此現象は同地にては数回の経験に由りて其原因を究めたるものなりという以上陳へたる如く地辷は一様の原因より発作するものにあらされは地震の原因を説くに単に地辷と称したりとも猶ほ之を以て其性質と状態を悉したるものと為すへからす故に三陸地震の原因に就ても容易に之か断案を下す能はさるものと知るべし

次に陥落地震なるものを説明せん

地体の一部其周囲の連絡を断ちて俄然として凹陥するに際し其四周の地に地震を発すること之を陥落地震という而して此地変の発作するは火山地方若しくは第三紀層の如き軽鬆の地層より成れる地方に多し本邦に在りて土塊凹陥の例証中火山地方に属するものの最も顕著なるは陸中国鹿角郡十和田湖と為す北海道猶ほ之れに類するものあらん又軽鬆の地質を有する地方に在りては遠州浜名湖の陥落是なり此二者共に其発作の当時に在りては地震を生したらんとは論を俟たす之を英語にSubsidenceoflandと謂う土地陥落の義なり

火山地方に在りて土地の陥落するは其火山の活動しつつある当時若くは爾後に於て生することあり此陥落を為すの理解を如何と言うに第一火山は其火口より噴出したる物質を堆積して宏大の嵩に達するときは其舗地の地体は之を蓋覆する所の重量を支持し得さるに至り其地の陥落するは当然ならん第二火山は其噴火孔に依りて地中より山岳を成生するに足る程の洪量物質を吐き出すを以て地中自から大空隙を生すへければ地上の堆積物は其重量に耐へす沈降するの理あり試に看よ富士、鳥海、開聞の如き標準的噴火山にして其側面の傾斜に美麗なる孤形を描き出せるもの是れ其山体の陥下したる結果なることを

第三紀層の如き新成なる水成岩より構成せらるる地質の地にして火山に関係なき地に発作する陥落地震は欧米大陸に於て其例多しという元来此地層は砂、粘土、砂利、石灰等の水底に沈澱堆積し層累を布き列ねたる水底の地盤なり斯の如き地盤は造山力若くは他の他動力の為に隆起して今陸地を形成するとは雖も其之を掀揚したる地力の衰耗減退するか或は同地温線の沈下するに従ひて及び自重に由て各分子の凝集緻密となるによりて地層全体の収縮を醸し此に劈裂の層を生し終に地盤陥落の起因を為す是亦其地方に地震を発動す即ち火山に因縁なき陥落地震是なり

新聞紙上に現われたる三陸地方地震に関する原因説は、一にして止まずと雖も陸地々質の構造、陸地と海底との関係海底の形勢海底の地質(仮想的)震動区域、発震時、井水混濁に由る前兆、洪浪の襲来、洪浪の大さ、洪浪の波及等の如き此の地妖に伴ひ顕われ来れる処の諸般の事実を参量するときは、其原因たるや地震に在ること明瞭なるへし而して地震の種類も亦一にして足らされは何種の地震は能く此現象を発生したる原因として適合するやを案定すること必要なり火山力に由りて生ずる海底の隆起若しくは、陥落即ち火山地震に起因するものとなさんか克く三陸地方沿海七十里の長に亘り同時に且稍々同様の震動力を波及せしめんには其焦点たる地動の中心点は此沿海を去る大約四百海里の外太平洋中四千尋内外の深底を有するところにしてトスカローラ海底の東辺にあるべきものとなす然るに著しき地震動を始めて感じたるは午後七時三十二分三十秒に於て津浪あり其間実に廿一分にして此洪浪は四百海里を走れる割合となる安政の地震は日本太洋を震撼せる大地震にして当時洪浪の太平洋を横ぎりて桑港に達したるは一時間三百七十海里又是より一層の速度を以て布哇島に達したる一千八百六十八年、南アメリカ南岸の洪浪は一時間四百五十四海里なりしという此両者に比較すれば三陸の洪浪が襲来せる速度は殆んと三倍なり。然して地の強弱は如何と顧れは固より徴震にして安政の大地震強烈の比にあらず且単に噴火性に属する海床の変動のみにては到底洪浪彼か如き絶大の地勢を発動せしむるを得す。之を為さんには必ずや造山力即ち大々的地躰の変動之と併発するにあらずんはあらず加之三陸罹災地方には噴火山は八戸以北の地を除きては絶無の地にして其東面の海洋中には従来の火山脈の存在することを知らされは火山活動を、此海底に揣摩するは些しく牽強の嫌なき能はず故に三陸地質の原因を火山力に帰するは其当を得たるものと謂ふへからず斯の如く論し来れは三陸地震の原因は自から余すところの地辷地震即ち地躰の大勢に変化を生ずる造山力の活動に由りて発作する断層地震たるを知らる地辷地震の状勢は既に之を説明したり依て其活動の形勢を左に陳述して以て本篇を結はんとす

海底の地質構造を探らんことは水路測量の洽ねからさる地方に於ては容易の業にあらされは之に近接せる地質の構造と山脈の趨勢、海床の深浅及水陸相互の関係を考量し以て之を推察するに外ならず前項に於て阿武隈北上両山系の地質の大要は之を述べたり即ち阿武隈山系に発達する所の地層中最深の片麻岩層は北上山系に露はれずして北上山地は地質年代より観察すれは阿武隈山地よりは一段上位の地層準に在りて其片麻岩層は山足に延ひて海中に入るに到りて露出するものの如し而して本篇附図の深浅線及ひ甲乙丙丁両断面図を以て示すか如く三陸より北海道及ひ千島に到る陸地東面の海床は汀渚線より水深百尋に達するは十里内外の遠きに及へとも百尋以下一千、二千、三千、四千の深淵に達するは極めて近邇にして遂に地球上最深海床の一たるトスカローラ長溝の域に入れり千島列島中得撫島の東面海中の最深なる処は四千六百五十五尋(二万七千九百三十尺即ち二里五丁三十五間)あり実に富士山の高さの二倍余の凹地か我東海に於て東北より西南に横はるを以て日本海の東北に連なる地脈は其東面の海底に甚た急峻の地勢を為すことと知るへし

夫れ斯の如き奇態の地勢を生したるは又地躰の大々的変動に由るや言を俟たず之を反言すれは地球縮収の結果より生したる一大断層(大地辷)の曽て発作したる証拠なり現にアメリカ大陸に於けるアッパラキヤン山脈中には断層の大なるもの多く其劈裂線は二十乃至八十哩の長さに到り其垂直の転差二万乃至四万尺の大数を示すものあるに由りても是れは之れ素より準拠なき臆説にあらずと知るへし断層によりて此地勢を構成したるものならんには当初地躰の圧迫せらるるや数多の劈裂線を生したるへきも亦理の当さに然るへき所にして此破れ目の走向は東北より西南にして自から陸地と併行したるなり即ち前項第一図及第二図に示せる結果を生ずへし地躰の弱点は斯の如くにして成り此海床の痼疾となりぬ故に一朝地動力の其威力を逞ふするあらんには此脆弱なる線路に沿ひ地躰に変動を惹起せしむるものなれは輙ち今回の大惨状を三陸地方に演したる洪浪の原因は該地の東面急斜の海床に発動せる地辷に由りて生したる地震なりと考定するを得たり

篇末に於て猶数言を費さんことを欲するものは三陸地震に就き中心点は何村の沖合にあり何村は被害の他に比して大なるに由り中心点は近からん等の説を散見したり前にも謂へる如く火山又は陥落地震にありては中心部より震浪を四周の地に伝播するに由り震源に中心あるは勿論なれとも地辷地震は劈開線に由りて長形に活動し其震波の伝播する方向は圏状を画して四周に及ぼすにあらず其活動の方向に沿ひ長距離に及ひ此方角に直角の地には短距離にして止むものと為す即ち長さに比して幅狭き地動を生ずるものと知るへし是を以て中心点なるものあることなし次に海底地震に伴ふ洪浪之を沿海の陸地にしては津波と称するものの性質に就て一言せん

地球全身に於て陸界と水界との率は一と三となれは地震の水底に発動するも亦陸地に於けるより多かるへき理にして殊に水陸接界の処に近き海床にありて然るを見る乃ち此場合に於ては地震の外に洪浪を惹起して現象の煩雑するなり

性質の何たるを問はず海底に於て一種の大地震発作するとせんか固形躰の地盤は速かに之を伝播して陸地に及ぼすへし而して流動躰の海水は地動に撼攪せられて動揺を始め茲に洪浪を発揚し更に同様の波は踵を接して起り遂に之か班列を形成するに到る又其波幅は数百海里に到り波長の高さ最初に於ては五十尺乃至六十尺に達することあり

斯の如き宏大の津浪は海洋中に在りて潮流を生ずるにもあらず亦船員も却て之を認識し能はさるものなり

然れとも進みて浅緒ある陸地に接近するや水底の摩擦に由りて其行路に障碍を生ずるを以て彼れか如く波幅の濶大なる山嶽大の水量は海面より滔々として押し来れる集積の勢力を以て山の如く丘の如き五十尺乃至六十尺以上の洪浪と為りて激怒狂奔其道に当る所の諸物を掃蕩し去るなり之を津浪と称す而して其体の絶大なるに由りて之か進行の速度も亦大なりとはいへとも地震波の速力より遙に劣るものなれは初め僅に地震の災害を免かれたる高楼廈屋も此第二の襲撃に遭ふて敗滅に帰することあるを常とせり

一千七百五十五年ポルトガル国の都市リスボン府の大地震には震災より三十分時の後府民の騒擾も漸く鎮静に帰したるに洪浪続々として殺到し来り全府を蕩尽したり此際浪の高さは六十尺に達したるものありしという三陸地方に於ても洪浪は数回の襲来ありたり之れ地震の続発したるに由るなり

ダウル井ン博士の南米紀行に曰く津波の被害は遠浅の海岸に於ける部落に劇甚にして却て深淵に沈める大海洋畔のワルパライゾ府の如きは其地震を感したるは一層瀕多なりしにも拘はらず軽少なりしと故に三陸地方に於て洪浪の被害最も大なりしを見て直に其地は震源に近しといひ地震の中心沖合にありと断定するを得さるなり且海底の形勢は恰も陸上に於けると一般山獄あり、丘阜あり、谿谷あり平地あり故に洪浪は陸上に見せる海岸線の凸凹即ち港湾の形勢に由りて其殺到する方位を紊すのみならず這般地底の形状に由りても多少の変異を生ずるものなり

本篇に附する地図はトスカローラ海床に連なる日本北部の海陸の位置を示すものにして陸地の東面は如何なる傾斜を以て此深海に接するや深海の区域及方位は如何等を示し又仮りに断面図二箇を附して大勢を窺ふに便ならしめたり

(岩手県西南郡役所編纂)

お問い合わせ

総務課 情報チーム 文書・広報係

電話:
0193-82-3111
Fax:
0193-82-4989

この情報は役に立ちましたか?

お寄せいただいた評価は運営の参考といたします。

このページの内容は役に立ちましたか?※必須入力
このページの内容は分かりやすかったですか?※必須入力
このページの情報は見つけやすかったですか?※必須入力

このページの先頭へ