復興まちづくり情報

第二章 明治以前の津波

目次

  1. 第一節  慶長十九年の津波
  2. 第二節  延宝五年の津波
  3. 第三節  寛延四年の津波
  4. 第四節  寛政五年の津波
  5. 第五節  安政三年の津波
  6. 第六節  津波の残した地名考

明治以前に於ける三陸海岸に襲来した津波の記録のすべてを記述することになれば大変なことだが、相当な被害を与えたと思われる大津波の記録について森嘉兵衛氏の「岩手県津波史」の資料から拾って左の通り抜粋して見る。

大津波の記録表(岩手県津波史より抜粋)
年代 期間 月日 時刻
慶長十九年   十月二十八日 午後二時
延宝五年 六三 三月十二日 〃十二時
宝暦元年 七四 五月二日 〃二時
寛政五年 四二 正月七日 午前十一時
安政三年 六三 七月二十三日 〃十二時

第一節  慶長十九年の津波

慶長以前の大きな津波として貞観十一年五月二十六日の津波があり、記録によれば「陸奥で城郭、倉庫、門櫓、垣壁崩れ落ち、民家倒壊するもの無数、流光昼のごとく映える大津波襲来、海水多賀城下に至り溺死者約一、〇〇〇余」とあり、岩手県下でどの程度の被害があったのかは不明である。

慶長十九年の津波は十月二十八日に起っているが、この十九年説には異説が非常に多い。

梅内祐訓の「聞老遺事」、児島大梅の「梅荘見聞録」、菊地悟郞稿の「南部史要」には慶長十六年十月二十八日と、元和元年十月二十八日の二回に起ったといい、「古実伝書記」には慶長十六年説をとり、小川孫兵ヱの「大槌古館城内記」及び伊能嘉矩氏の「上閉伊郡誌」には、元和二年十月二十八日とし、三浦宗喜の「宮古由来記」「宮古風土記」には慶長十九年十月二十八日説をとっている。殊に伊能氏は「上閉伊郡誌」に於て「元和二年十月廿八日の市日に海嘯あり、湖水古明神下(今の小槌神社の前身)にまで浸入し、人馬死する者多かりしとぞ、之を閉伊浜海嘯の記録に見ゆる嚆矢となす」と伝って居る。何に仍て斯く論ぜられたか不明であるが、恐らくは前述の「大槌古館城内記」に拠られたのではあるまいか。私は茲に慶長十九年説を採ったのは別に確たる理由をもっているのではない。

ただ閉伊郡地方の最も古い記録として信憑すべき「宮古由来記」に一先づ拠ったのである。慶長十六年と元和元年の二回に起ったと記してあるのは、明らかに一度起ったものを重複して記したものである。茲では主として「宮古由来記」の記述に従う事とする。

此の時の津波は十月二十八日昼八ツ時とあるから今の午後二時頃である。やはり沖でどんどんと大音響がすると間もなく大津波が三陸一帯を襲い、多くの生霊を奪い去った。

「宮古由来記」に由ると

「慶長十九年十月二十八日昼八ツ時に大津波にて門馬、黒田、宮古以ての外の騒動にて小本助兵エ御朱印御証文並御用帳共取為持、後の舘山に遁登り候、同七ツ下刻の頃大方に水引申候、海辺通は一軒も無洩波にとられ人死多く御座候、家とられ候ものは路道にまよい申候に付、小本助兵エ見分に廻り見届けの後森岡へ申上候て、身帯相応に御助金被下候」

大槌村ではこの日、丁度市日で男女群集し、取引の真最中であったから最も死傷者が多かった。「大槌古館城内記」に

「天和丙二酉辰年大津波、其日十月二十八日八日町市日にて朝より度々地震、波押上候、前沖の方どんどんとなり候と、大波山の如くにて参り、川に塩水上げ、引塩には大杉古木家共を引き連れ申候、市日なればよくにはなれ候ものは命助かり、大よくの者老若男女大分死」と言い、「梅荘見聞録」にも、

「閉伊郡大槌村は市日故、在々浜々より市遣の人々寄集りたる男女大勢流没、又尚大槌より鵜住居までの間数百人溺死これあり」

とあり、惨害の如何に甚大であったかを物語っている。殊に津波はよせ潮よりも引潮の恐るべきを教え、大欲にて物に執着した者の多く死んだ事等、後人の戒めとすべきであった。

梅荘見聞録」には

「山田浦房ケ沢(山田町の西十町半の所)マデ、織笠村霊堂(織笠の西十数町)マデ来襲人死数知レズ、鵜住居、大槌村、横沢の間マデ二十人、津軽石マデ男女百五十人大槌津軽石ハ市日ニテ人数多く死ス、浦々ニテ人馬共其数知レズ」と云い、梅内祐訓の「聞老遺事」には「南部津軽ツナミ男女溺死三千余人」と云っているから、かなりの被害であったらしく、人口の状態から見ると今日の約四分の一位であったのに今年位の被害があったのだから、かなりはげしい津波であったことが想像される。これに対してどの程度の救済に当ったかは不明であるが、地方村役人の申請によって「身帯相応の救済」のあったことは「宮古由来記」に依っても明らかである。茲に注意すべきは、この津波の起る前年、鮎、鰯の大漁であったことで今年の大津波の起る前、鰯が大漁であったことと考合し意義深いものがある。

第二節  延宝五年の津波

慶長十九年の大津波後約六十三年を経て、延宝五年三月十二日、今度は夜の子の刻即ち真夜中の十二時大地震と共に津波が三陸沿岸一帯を襲った。「大槌古今代伝記」には

「延宝五年三月十二日夜子の刻より大地震、隙もなく子の半時に大潮津波可申程の潮さし入、浦々騒動、浜端の家も余程損、山々へ諸道具穀物取くばり、其月中騒動致、家の敷居迄水上る」此の記事で見ると今度の情況は慶長十九年の時よりは穏かであったらしい。南部伯爵家所蔵の日誌に依ると此の年は三年から頻々に地震があり、津波の起った十二日の如きは戌の刻より地震間断なく、夜中に四度の大地震あり遂に大津波の襲来となった。津波襲来後に於ても殆ど毎日の様に地震続き非常な不安を与えた。此の地震は単に沿岸地方を脅かしたのみならず内陸地方の各地にも影響を及ぼしている。「祐清私記」に

延宝五年三月十二日より同十五日迄大地震、盛岡在々大破損、宮古潮上、死家数十軒破損と云い、青森県史に「八戸に強震あり、戌の刻より暁天に至り二十余回震す。内両度最も強震にて被害多し、同十三日巳の刻又強震なり、同十四日戌の刻より同十九日迄六日間日々地震して止まず、同三十日又々強震、四月朔日強震、越えて五月廿日又々強震なり」

とある事から見れば三陸一帯に亘り大地震であったらしい。然し地震の割合に津波は弱かったらしく、青森県史にも全然津波の事を記していないし「大槌官職記」にも「家々ぬきの下一尺斗りづつ水通り候由」とあるから高くとも十五六尺内外のものであったらしい。

なお此の外釜石、大槌方面及び小本、田老方面の被害はこれよりもっと甚しかったらしいが、今信憑すべき資料を有しない。また如何なる程度の救恤をなしたかも遺憾乍ら不明である。

第三節  寛延四年の津波

寛延四年の津波は五月二日未の刻に襲来しているが、どの程度のものであったか明らかでない。ただ僅かに「大槌官職記」に依ってその一斑を知り得るに過ぎない。

「寛延四年辛未年五月二日未の刻より浦々大潮七度、小潮五度差入、浦々民家へは敷板迄より、田畑水の下に相成、四日町、八日町、向河原裏道海の如く、酉の刻潮引、人馬怪我無之、御目付所御勘定へ此の段訴」

これには地震があったことも記していないし潮が差してきてから平常に帰る迄四時間もかかっていたりする所を見ると従来の津波とはかなり趣が違っている。殊にこの年の津波の事は他の記録には全然見られない事等から見ても津波と称する程のものでなかったのかも知れない。又潮の高さが「浦々民家の敷板迄」の程度であり、人馬に怪我のない所等から考えても―仮りに津波としても―南部藩五度の津波中最も弱いものであった事は想像に難くない。

第四節  寛政五年の津波

寛政五年の津波の起る十八年前安永三年五月三日に三陸に大地震起り下閉伊、上閉伊両岸地方は「地は割れて泥を吹き揚たりと、其節端午市日にて売買の磯物貝類採りに女子共崎々に出て居りたるに、山崩れ岩落圧死する者少からずあり」然し不思議にも津波は起らなかった。これに就いてこの地方では古くから「草木青葉の節ハ津波之レナシ」とゆう伝説を信じていた。しかしこの伝説には後に明らかになる所であるが過りであった。

恐らくこの時の地震は太平洋ではなくて、内陸部が震源地だったであろう。

然るに寛政五年正月七日巳の刻(午前十時)大地震数回続き、四度目の大津波が三陸沿岸を阿修羅と化した。宝暦元年より将に四十二年である。「梅荘見聞録」には

「寛政五丑年正月七日巳の刻大地震二、三回アリ、大津波珊瑚島の上を越し、町内下側裏通り垣根迄来り、上側ニハ変ナシ、向川原の板敷床上へ迄指水揚、須賀通ハ大変の由、両石村ニ於テ人家十六、七軒流出、溺死十二、三人モ之レアリ、潰家モ数軒之レアリ、其跡ハ河原ノ如クナリシト、地震ハ毎日毎夜二回モ三回モ之レアリ、指水モ七日斗の間ハ押来リ、南北共海岸住居の者ハ近山ニ引移リ日夜入日斗リの間家に帰リ来ラザル由、地震ハ二、三月頃迄ハ大小の地震毎日折々之アリ」と云っているが、「古実伝書記」によれば被害はもっと甚しかったらしい。

「寛政五癸丑正月七日昼八ツ時大地震三度仕候而間少し過候否小津波三、四度参候而大にさわぎ、山に懸上り申候得共、藤原、そけいは浪よけいは上げ不申候、宮古へも上げ不申、川筋斗おし申候而一円そんじ無之浦通は宮古迄浪おしよけいに御座候得共一切痛無之且後二月中迄全日全夜小地震仕、心支罷有申候、宮古、藤原村に而は山々に小屋相懸申候

右小屋場所は船ケ渕にかくまんへ相懸申候(中略)大槌領の内両石浦家八拾三軒流人三拾四人、男女子供に而死申候」

と述べているから、仙台領気仙郡が最も甚大な被害を受けたらしい。

この時の津波にも矢張り襲来前異状な潮引があった。これによって早くも津波の襲来を知った者は助かったが、油断し歴史を無視した者達は多く海底の藻屑となった。

しかし死者が比較的少なかったのは、津波の襲来が昼であったためであった。

第五節  安政三年の津波

安政二年江戸大地震の翌三年七月二十三日五度目の大津波が三陸沿岸を襲い甚大な災害を与えた。今罹災者児島大梅氏の実験記によって当時の情景の記述にかえる。

「安政三辰年七月廿三日(□暑、七月中朝五ツ時入)西風、時天四ツ時過地震両度あり、九ツ時頃に大地震二度あり、尤一度は長くこれありしが、間もなく津波押来り、兼而承るには青葉の節は津波無きものに聞及びし故に、人毎に油断し居りし処に、津波一、二、三、四度押来り、右水の押入は須賀通寛政五年正月七日の津波位に押揚りし故、大須賀通の納屋は保存せしが、五度目に大汐押来り、高田屋茂兵エ宅、菊地長七宅、小植松之宅、中宿屋儀左エ門納屋も残らず汐にとられ、八日町下側は板敷へ潮水揚りし処甲乙あり、四日町下側と八日町北側は畳の上に揚りし処もこれあり、八日町裏岩間氏板敷床へ四尺斗揚り、上須賀の甚兵エ宅二尺六七寸斗揚り、須賀の藤屋借家並に須賀小路は九尺乃至一丈程も揚り多助納屋の内へは八尺斗り揚り、東梅社御宮前へは五尺四五寸斗り揚り、入口の門柱の貫石迄七、八尺斗り、向川原へは三、四尺斗、石橋の角を里屋良助宅板敷床へ四、五寸程、風呂小路へは弐尺五、六寸程、江岸寺門内へは二尺斗り、内外往来は三尺斗

二十三日昼頃より向川原は寺山墓地へ仮家拵居、八日町の衆は薬師堂並に後山へ仮宅拵居四日町の衆は大念寺並小槌社等迄、廿九日暮方迄山籠、日夜本宅へは帰来らず、朝夕の飯も山にて炊出しなして七昼夜凌ぎ居り廿三日暮大雷雨にて本宅へ帰来りて宿泊す。

廿三日五回目の潮押来るに出合い、四日町大工松之亟押流されて遂に溺死す。廿六日に至り死骸発見したるより埋葬執行す。

廿四日西風快晴、日中小地震五、六回、夜中も四、五回ありたり。同日船越村の状況を聞知するに、前海より塩水揚り浦浜の方へ押抜たるにより流失家屋二十七軒、潰家十一、二軒、溺死男女二十一人あり内十七人丈死骸発見の分埋葬執行す。

廿五日快晴、日中小地震四、五回ありたれども、湿物洗に取付、夜中に四、五回あり。

廿六日快晴、御役所より南北へ検分のため出張せらる。五ツ頃に大地震あり、稀れに帰来衆も亦々山へ登り、仮小屋を掛け居たり、藤善の土蔵破れ、日中地震度々あり、夜中も亦四、五回之れあり、明七ツ時にも之あり。

廿七日快晴、四ツ時に中位の地震あり、昼も三、四回あり、何れも山より下り帰らず、町内は中堰へ厚板を敷並べ家内には一人も居らず、小槌社に於て御祈禱並に湯立之れあり、山伏、神主、神子寄集りたりと、夕方小地震あり、夜はなし

廿八日西風快晴、朝七ツ時大地震あり、四ツ時に小地震あり、暮方にも亦あり、夜中にも二回あり、此日江岸寺と笹勇より白米二升づつ須賀通り借家の者のみ施与す

廿九日西風快晴、朝小地震あり、二回昼なし、暮方大雷雨、山より帰り来りて各自の家に宿泊す。夜中一回あり。

八月朔日北風曇、四ツ時中地震一回、夜も一回あり、今日非番御代官神友衛殿御城下より出張。

二日北風冷気、終日雨降二百十日なり、暮れ方まで変りなし、夜中も亦なし雨晴れず。

三日北風冷気小雨終夜降、五ツ時より雨晴れ曇り、今日御代官所より困窮者のみ一人に付御米弐升弐合当り御貸付なされ、神友衛殿、下役根守純平殿北通御見分として出張なされ、日中変りなし、夜中四ツ頃に地震一回あり

四日北風小雨降、須賀通藤屋借家住居の者へ中宿屋儀左エ門より壱軒へ玄米三升宛福島屋五兵衛より籾五升宛施与す。

九ツ頃に地震一回あり、夜は変りなし、御代官下役北方より今日帰官

五日西風晴天、御代官下役北方より帰り南方へ御見分として出張なされ、今日須賀通り水押上り、困難の者へ両町より一人に付籾三升宛人数に依り甲乙あり、二十八軒へ籾拾石余りなりと、暮方より夜中変りなし。

六日西風晴天昼夜変りなし、御代官南道より帰官なされたり。

七日曇天、今日町内並惣村共に津波に付渋家、潰家、溺死等並に難渋の者共へ手当御代官所へ書き上げ差上げたりと、日夜変りなし。

八日北風夜より小雨降昼夜変りなし夜四ツ時小地震あり。

九日西風天夜南通の松魚船当浦へ廻り〓一本小売百文位日夜変りなし(以下略)

これは主として大槌村の状況であるが、これによって当時の津波の状況、村民と避難とその後の動静、及び罹災者救護に対する藩の善後策や富豪の私財提供等の様子が窺われる。

南部史要に依ると、この時の津波で「宮古附近最も甚しく家屋の流失倒壊百余に上る」と云っているが、宮古のみでなく、前述の如く大槌等の被害も相当甚大であった所から見ても三陸一帯に亘りかなりの被害があったことが想像されるところである。

第六節  津波の残した地名考

大昔のこと沿岸住民達にとって大津波の記録を紙に残すことは困難なことであった。せめてこの地帯まで襲来したとか、こんな高いところまで上ったということを地名にして残すことが最大の知恵であった。

山田地方に左のような地名が現存しているのは、こんな理由でなかったかと想像されてならない。

一、船石、鮫ケ渕

荒川地区

一、ブナ峠(船峠)

豊間根地区

一、アブラツコ沢  波境

小谷鳥地区

一、越峠

大浦地区(船越半島)

一、アブラッコ沢  臼沢

浜川目地区

一、キネ沢  アブラッコ長根

田之浜地区

一、鯨山

織笠地

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