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口絵、発刊にあたり、あいさつ、刊行のことば、凡例

目次

  1. 山田町津波誌
  2. 発刊にあたり
  3. あいさつ
  4. 刊行のことば
  5. 凡例

山田町津波誌

山田町は岩手県東海岸、下閉伊郡北緯39度27分、東経141度58分に位し東西約21km、南北約16kmの面積を有し、北は宮古市、南は大槌町に接し、西北より西南に至る一帯は数多くの山岳連互して大槌町金沢に境し、東は山田湾を擁し船越半島により太平洋に面している。1955年(昭和30)旧山田町と織笠・船越・豊間根・大沢の4村が合併。西部は北上山地の支脈が延び山岳地帯を形成し、荒川川・豊間根川・関口川・織笠川が支脈の間を流れ,その源流地帯はイヌブナの原生林になっている。平野は少なく全面積の約15%程度。東部はリアス式海岸で山田湾・船越湾があり,湾内ではカキ・ホタテ・ノリ・ワカメなどの養殖漁業が盛んである。かつては「スルメイカの町」とも呼ばれたが,近年その水揚げ高は減少の一途をたどっている。面積は263.33km2,人口は26,079人(昭和56年9月現在)

山田町の地図

やまだわん山田湾船越半島の霞露ヶ岳北端仮宿崎と重茂半島の南部大沢山(673m)の南端明神崎にいだかれた湾口の狭い天然の良港。湾の北岸から大沢川・関口川・織笠川が注ぎ,合併前の大沢・山田・織笠・大浦の旧4町村が漁港をもって湾に面している。湾内中央には1643年(寛永20)オランダ船入津の史実による大島(オランダ島)があり、夏は山田港から海水浴客用の定期船が運行される。湾内は三陸で他に例をみない強内湾型のため海水面は静かであり,その半分以上がホタテ・カキ・ワカメなどの養殖施設で埋められている。中心になる山田漁港は第3種漁港として宮古・釜石・大船渡久慈漁港についで水揚げ量も多い。

山田の海と街の表情

役場より見た山田湾の写真

役場より見た山田湾、大島と小島の間に大浦地区が見える

柳沢の高台より見た山田湾の写真

柳沢の高台より見た山田湾、正面に海抜602mの鯨山が見える

魚賀波間神社より見た大沢地区の写真

魚賀波間神社より見た大沢地区

山田湾入り口の写真

山田港防潮堤より山田湾入口を眺む、左が大島、右が小島である。前方左が重茂半島、右が船越半島、船越半島の突端に海抜504mの霞露ヶ岳が見える。

山田港の船着場の写真

防潮堤より山田港の船着場、魚市場を眺む

陸中山田駅の写真

山田町の玄関陸中山田駅

陸中山田駅前通りの写真

陸中山田駅前通り

飯岡地区の写真

区画整理された飯岡地区

役場前通りの写真

役場前通り津波の避難路でもある

中央町と国道45号線の写真

中央町と国道45号線

山田港の船着き場と魚市場の写真

山田港の船着き場と魚市場

国道45号線川向通りの街の写真

国道45号線川向通りの街

三本小松の高台より山田の町の写真

三本小松の高台より山田の町を眺む。国道沿いに境田、川向、中央、北浜、柳沢と続く。なお右端に見えるのは大沢地区の一部である。

織笠大橋の写真

織笠川河口より織笠大橋、大島、小島、山田湾入口を眺む

船越半島、船越の大島の写真

国道45号線より船越半島、船越の大島を眺む。左手前方に見えるのは田ノ浜地区

織笠大橋から見た織笠地区の写真

織笠大橋より織笠地区を眺む。手前は織笠川。この河川堤防は2,200m奥まで続いている。毎年11月頃になると鮭が遡上する。

巡航船が運行している大浦地区、山田、大浦の写真

大浦地区、山田、大浦間には巡航船が運行している

荒神社方面から見た田の浜地区の写真

荒神社方面より田の浜地区を見る

国道45号線と船越地区の写真

国道45号線と船越地区、正面の山は海抜七三一mの十二神山

海水浴でにぎわう前須賀の写真

海水浴でにぎわう前須賀

前須賀の海水浴場隣の駐車場と道路の写真

明治29年当時船越地区の集落はここにあった。

発刊にあたり

山田町長 木下禎治

この度、町民各位のご協力と関係者各位の永い間のご努力が実を結び、ここに“津波誌”を発刊する運びになりましたことは誠に喜ばしいことであります。本町における津波を語る資料としましては、昭和四十八年六月に山田ユネスコ協会が発刊いたしました体験記である「山田の津波」が唯一のものと記憶しております。ここに新たに発刊する“津波誌”の役割は、後世に津波の実態、山田町の歴史を伝えて行くための資料として貴重なものになるものと確信するものであります。

さて、三陸沿岸に住む私達にとって、津波との関係は切り放されない宿命的なものを背負わされております。我々の祖先は勿論、私達も数回の津波の襲来にあい、その度、尊い人命や財産を失なっております。私達が記憶しているもの、或いは、云い伝えに聞いているものでも、明治二十九年の津波から近くは、昭和八年の津波、昭和三十五年のチリ地震による津波、昭和四十三年の十勝沖地震津波等記憶に新しいものもありますが、一瞬にして尊い人命と財産を奪われるあの恐ろしさは、絶対忘れてはならないものであります、ともすると私達は、その恐ろしさを忘れがちになります。予報の情報網が発達した今日ではありますが、津波はいつどのような形で襲来するか解りません。よく、「災害は、忘れた頃にやってくる。」と云われております。私達は、常日頃から津波に対する備えをしておく必要があります。町においても、山田、船越湾に防波堤を建設するなど津波に対する対策については、万全を期し、また町民の津波に対する認識を深めるために防災訓練を実施し、意識の高揚を図っておりますが、町民皆様におかれましても訓練や行事には積極的に参加なされるようお願いするものであります。

最後に、津波誌作成にあたり資料を提供されました町民の皆様に対し、心からお礼申し上げますとともに、編集に携さわりました委員皆様のご労苦に対し、衷心より敬意を表し、感謝を申し上げる次第であります。

昭和五十七年三月

あいさつ

山田町教育委員会教育長 沼崎與平

津波災害多発の海岸に生まれ住む者の宿命とでも言おうか、私達の三陸海岸は、貞観十一年(八六九年)以来現在に至るまで、幾度となく津波に襲われ、その都度大きな被害を受け、多くの尊い人命財産を失って来ました。

明治年代になってからでも、古老の体験、各種の記録によって伝えられる、明治二十九年の大津波では、最大波高一〇・五米(船越)で当町沿岸(山田、船越、織笠、大沢)部総人口の約三〇パーセントに当る二、六五五人が死亡、負傷者も一、四五二人に及び、流失損潰家屋は総戸数の約六六パーセントの一、一〇〇戸程の大被害を受けています。

昭和になってからは、昭和八年三月三日の三陸大津波、昭和三十五年五月二十四日のチリ地震津波、昭和四十三年五月十六日の十勝沖地震津波と、「災害は忘れた頃にやって来る」ではなく、「忘れぬうちにやって来た」のは、皆さんも記憶に新しいものがありましょう。

昭和八年の三陸大津波災害を教訓に、田老町の大防潮堤、当町の旧防潮堤のように、各地域の被害程度に応じて防災施設づくりが進められましたが、チリ地震津波では充分な効果が認められなかったことから、更に改良拡充された施設づくりが進められています。

私も昭和の三度の津波を体験し、又海辺に生まれ育ち、怒れる海の力の大きさ、恐しさを知る者として、このような防災施設の整備拡充を希う心情は強いものがありますが、しかし科学の進歩した現在でも、尚その実態に未知の部分の多い自然への対応策としては、一〇〇パーセントの防災効果を期待することはできないと考えます。

過去の災害規模を超える大津波が襲わないとの保証はどこにも無く、施設依存で防災可能の判断は出来ないからであり、施設過信は再び悲惨な被害を受ける懸念が大きいと考えざるを得ません。

津波災害を最少限にとどめるためには、まづ私達一人一人が、自分で自分を守ることであり、そのためには、過去の苦い体験を常に想い起し、心の中に津波災害防止の意識を日常生活の中に持ち続けることが大切であり、このことを後世に伝えることが、現在に生きる私達の責務でもあり、先人の意志に応えることにもなると考えます。

津波の実態を、体験から、そして科学的視野からの理解を深め、海辺に住む者の宿命的自然災害を最少限に防ぐための糧となることを希い、本誌の編纂の緒についてから二十年間、津波誌編纂委員会委員の皆さんの調査研究の積重ねと、関係各位の御指導御協力によって刊行の日を迎えることができました。本当に御苦労さんでした。有難うございます。心から厚く御礼申し上げます。

本誌が一人でも多くの方々に津波を正しく理解して戴くことを念じて止みません。

昭和五十七年三月

刊行のことば

津波誌編纂委員長 伊藤淳一

避けようとしても避けることの出来ない災害があってたまるか、という気持とは裏腹に陸中海岸に位置する山田町にとっては、そういう災害が昔から二つありました。一つは異常気象がもたらすケガズという凶作であり、もう一つは地震による津波であります。

凶作の方は、気象観測の進歩と農業の発達と、その栽培技術の向上によって、被害を最小限に防ぐ事が出来るようになって来ましたが、津波の襲来は人力を以ってしてそれを避けることは現在不可能であります。

地震津波は、いつどこで起るものかわからないが、必ずいつかは襲来するもので、その災害を受ける宿命を山田町は負って居るわけで、我々町民は、地震・津波に対するしっかりした認識と関心を持たなければならないことになります。

ところが、昭和三十五年五月又もやチリ地震津波が変った形で襲来し災害を受けた訳でありますが、このチリ地震津波をきっかけとして、前々からの津波について調査研究が必要であろうとの機運が生じ、昭和三十六年から町教委によって津波誌編纂の計画がなされ、故佐藤源嗣氏が中心となり各委員によって資料集めが行われ、貴重なる種々の資料が集められました。その中の明治二十九年の津波資料には、浅利和三郞巡査部長の手記のようなのがあり、これは後に山田ユネスコ協会の「山田の津波」、最近のNHKの放送等にも利用され衆知のことになって居ります。

折角集められた資料は、その後種々の事情によって編さんが一時中断し、資料は死蔵された形になりました。

山田ユネスコ協会出版の「山田の津波」は、此の間に出たもので、山田町民にとって大きな津波への関心が高まったものでありますが、「山田の津波」は明治二十九年の津波に限定されて居りますので、津波誌の立場からは不十分である故、全般的な津波の記録が求められ中断して来た津波史編纂の業を、図書館の作業として継ぐことになり、事務局長に武藤薫氏をあて、昭和四十九年に津波史編纂委員会が再び開かれ、資料の採集と従来からの資料の検討がなされ、津波誌として採用すべき資料の選択決定の作業が行なわれました。

資料は当然の事ながら、昭和三十五年のチリ地震津波、昭和八年の津波が多く、それ以前になると古くなる程資料が乏しくなり、又内容も不確実であります。

津波誌編纂の作業は、その後町教育委員会の社会教育係に移り、横田隆志社教主事が事務局を担当して現在に至り、昭和五十五年には、編纂の内容、体裁等について、数次にわたり編纂委員会が開かれて検討し、結局内容は、明治以前の津波、明治二十九年の津波、昭和八年の津波、昭和三十五年のチリ地震津波と、重点的に記述をしぼって配列し、委員が分担して執筆し、昭和五十六年には印刷に廻すことにしたものであります。

出版までの間に、昭和五十五年の年末に、編纂委員として当初より豊富な知識と経験をもって尽力なされた小林喜代治氏が残念なことに急逝されました。氏のご冥福をお祈りする次第であります。編纂の上では後任に佐藤仁志氏のご参加を得て、八月には全部の原稿がまとまり、予定通り出版の運びに至りました。かえりみますと、出版への過程は長年月にわたりましたが、兎も角出版が出来ましたことは、委員並び関係各位の御尽力によるもので、それに対し深く敬意を表する次第であります。

終りに、これを機会に町民の方々に津波の理解を深めて頂きたく、例えば昭和八年の津波の経験のない人々の中、津波は興味的に海岸に出て見るもの、駆け足で逃げれば大丈夫という考えがあるように見受けられ、「津波警報の出た時は早目に高台に避難する」ということを軽視せずに実行して、災害のうちの人災を少なくしたいものと思います。

昭和五十七年三月

凡例

  • 波と浪の記述の違いについては次のように取り扱った。引用文献中に浪とあるのはそのまま使用し、それ以外は波に統一した。
  • 原文は、そのまま写しを原則とし、旧漢字はそのままにした。
  • 各章節の出典、引用文献等は、その都度カッコ書にした。

お問い合わせ

総務課 情報チーム 文書・広報係

電話:
0193-82-3111
Fax:
0193-82-4989

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